沈黙 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123158

感想・レビュー・書評

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  • 【未読】読みたい理由
    キリスト教の話は興味がある
    日本史がわからなくても読めるらしい

  • あっという間に読み終わった。
    沈黙って、人々が沈黙する話かと思ったけど、神の沈黙の話だったんですね。

    最後のフェレイラとのやりとり・転んだ後のキジローとのやりとりに読む手が止まらなかった。
    ああいう風にキジローと分かり合えるというか、自分の失敗した人生を通して得たものがあるというのは、せめてもの救いで。(もちろん犠牲の方が大きいから、救いと言ってしまうのは語弊を招くかもだけど)
    「失敗は成功のもと!」なんて単純な言葉は使いたくないけど、わたしみたいな弱い人間が強く生きていくためには、こういう人生を歩むしかないんだよな〜。。。

    遠藤周作って自分的にめちゃくちゃ読みやすくて好き。キジローに裏切られた時の蝿の描写とか、たまらなく好きだな……..

    本当にどの登場人物にも感情移入できて、わたしも弱い人間なんだと実感させられた本でした。
    でもだからこそ、ちゃんと他人を社会を、そして自分自身を許していけるような人間でありたいと思った。

  • 圧巻。何も言えない。強すぎる。
    描写も構成も絶えず胸糞なのに、なんだろうこの妙な気持ちは、、、。信じるとは、、、本当何が正しいとか、間違えているじゃなくて、いいとか悪いじゃなくて、強いとか弱いじゃなくて、本当一言じゃあ片付けられない

  • 【あらすじ】
    江戸時代、キリスト教の信者が一揆を企て鎮圧されたのち、キリスト教への弾圧は一層厳しくなっていった。その弾圧は日本国内にいる外人の司祭も対象としていく。
    主人公であるポルトガルの司祭(パードレ)ロドリゴは、かつての師であり日本での布教を20年以上続けていたフェレイラが棄教を強制された事を知り、仲間二人と共に日本への密航を行う。
    日本へ向かう旅は過酷なものであり、途中で病により一人が犠牲となってしまう。
    また、日本への渡航は非常に危険なものだと知りつつも、マカオで出会ったキチジローと共に、日本に辿り着く。
    このキチジローはキリスト教徒であったが性根が弱く、過去に役人から詰め寄られて棄教している、いわゆる転びであった。
    キチジローの案内もあり、地元の隠れキリシタンとも合流して歓迎を受け、隠れ家を与えられる事となる。
    その後も役人に見付からないよう、様子を伺う日が続くが、匿ってくれていたキリシタンが捕まって拷問を受け、亡くなってしまう。
    キリシタンから追い出されるように逃亡生活が始まり、衰弱したのち、キチジローの裏切りにより役人に捕らえられてしまう。
    捕まった後、貧しく不自由ではあるが、別のキリシタンと共になんとか日々を過ごしていく。やがてキリシタンの農民一人が処刑されてしまう。
    この一連のやりとりの中で、密航前から危険だと知らされていた、井上という奉行を実際に知ることとなった。
    この頃から、苦境に立たされている者への救済が何もなく、依然として沈黙しているキリストへの疑問を内に抱きつつ、そんな自身にも苦悩していく事となる。
    更に、残りの農民3人が海に沈められようとしていた。そこへ、共に渡航し捕まってしまった、司祭のガルペが助けようと海に入るが、波に飲まれて亡くなってしまい、農民も全員沈められてしまう。
    その一部始終をロドリゴは見せられ、更に追い込まれていく。
    その後、師であるフェレイラと面会させられるが、以前の雰囲気だけでなく、日本の名前と妻と子を与えられ、変わり果てた師から、日本では本当のキリスト教が根付かせる事が出来ないという話を聞かされる。
    そして拷問の時が迫り、牢屋でその時を待つが、番人の鼾が聞こえて笑う。自身の命が残り僅かという事と、信仰への疑いとが入り交じる中、フェレイラが訪れる。フェレイラから、鼾と思っていたものは農民が拷問されている時の呻き声と聞き、たとえ農民自身が棄教を宣言しても、ロドリゴが棄教しない限り農民への拷問は終わらない事を告げられ、棄教を促される。キリストの顔へ足をのせるという行為に葛藤し涙しながらも屈する事となる。
    その後はフェレイラと同じように日本の名と家族をあてがわれ、輸入されてくる物資等に宗教にまつわるものが無いか、等の確認を行う役割を与えられるが、町で、転びのパウロと蔑まれる。
    ロドリゴの下にまたキチジローが現れ、自分の行為と弱さの許しを乞われ、既に司祭としての資格は無いと分かりつつも、祈りを与えて物語は終わる。

    【感想】
    歴史と宗教が絡むと、話が相当複雑になって、更に弾圧と信仰への疑いも加わり、頭が追い付かないほど重い話だった。読み手のキリスト教への考えと知識が、作品をどう捉えるかに大きく左右されるな、と思いながら読んだ。
    キリスト教への信仰を描いた日本の小説を読むのは初めてだったから、いい経験になったと思う。いや。思いたい。

    ロドリゴのキリストへの憧れと愛は強く、棄教した後もキリストへの愛と尊敬を抱き続けているが、神が沈黙し続けている事への追及はやめてしまっている。作者の意図でそうしてるのか、読み落としているだけなのか、正直よくわからないが、理解はできる(多分)けれど、ロドリゴの、その心中に共感できるとは思えなかった。
    キリスト教のせいで命を落とす者が多く出たという結果ではあるが、あくまでキリスト教がきっかけというだけで、もしかするとキリスト教以外の何かが発端となって農民への弾圧が起こり得るようにも思えた。
    戦国時代の様な激動から、戦の起こらない時代となり、農民の不満の行き先がキリスト教に集まり、イギリスやオランダ、ポルトガル、エストニアといった各国の事情と共に、不満を爆発させてしまったが為に、弾圧という事を招いたと思った。
    統治している国によって定められる善悪の価値観や法といったものから、宗教の教義という新たなルールによって、これまでの常識や是非、死生観までを覆すことがあるからこそ、異国の宗教というのは今も昔も魅力的に見えるのだと思った。
    なんかこのまま感想書こうとするとキリスト教を批判みたいな感じになりそう。。。
    今回の感想はなんだかめっちゃ難しいから、この辺にしとく。
    けど、考えさせられるし、物語も面白い良い本だったな、と簡単に感想を書いて終える。

  • 信じるってなんだろう。

    何十回何百回と使ってきた言葉のはずなのに、
    一気に輪郭がぼやけて見えなくなりました。

    「愛する」とか「守る」とかなら実感を以ってして意味が掴める気がします。なのに「信じる」は分かりそうでよく分かりません。

    一般的な「あなたのことを信じる」というような文脈の「信じる」と宗教的な「信じる」はまた違うようにも思います。

    前者の「信じる」はなんとなく「覚悟」に近い。単に対象に期待するのではなく、自分の期待とは異なる結果がもたらされる可能性も想像の範疇に入れ、その上でYESと言う覚悟。(なんか芦田愛菜ちゃんがこれと似たこと言ってた気がする)(よく考えるとめちゃくちゃ重い言葉…)

    問題は後者の「信じる」です。
    宗教に関する知識が浅すぎて想像すらできない状態ですが、前者の信じるとは矢印の矛先が違うように感じます。
    仮に自分が踏み絵を踏んだとて、神は穴吊にあうわけでも、泣き叫ぶわけでもありません。神は変わらず沈黙を貫きます。存在し続けます。
    なのでおそらく殉教者の方々はキリスト教やキリストといった自分以外の何かを守るために命を捧げたわけではないのだろうと思います。
    司祭の「自分が闘ったのは自分の心にある切支丹の教えである」という言葉のように、これはキリスト教を信じるか信じないかという問題ではなく、キリスト教を信じる"自分"をどこまで信じられるか、という自分の内側へ働きかけるものなんだと思います。
    が、どうもぼやっとして掴みきれていません。
    宗教についてもっと深く学ぼうと思いました。

    ーーーーーーーーーーーーーーー

    悲しみの歌と海と毒薬に続いて3作目。
    今回も遠藤周作の描く人間の弱さと絶望はとんでもなかった。
    人が心のいちばん奥にしまい込んでいるような弱い部分を的確に掴み上げ、人という生き物の醜さについて憐みや軽蔑を含んで描きながらも、決して否定はしないところに作者の人間存在への深い愛を感じる。(勝手に)
    現実とは思えない悲劇や絶望が迫ってきたときの動揺、拒絶、葛藤、諦観、受容の様子がとても生々しい。今回の司祭も笑っていた。何度も。遠藤周作の小説に出てくるあの切ない笑いがとても人間臭くて胸を打たれる。

  •  難しい作品だった。面白かったが、容易ならざる問題作だ。成る程これは評価の悩ましい作品だと納得した。

     発表当初、之を禁書に指定する教会まであったそうだ。こんなものは基督教ではない、遠藤教だと物議を醸したとも。批判の内容に就いては兎も角、なかなか面白い表現ではある。言い得て妙だ。


     基督教に就いては、自分の中にずっと以前から疑問があった。果たして此の宗教の謂う神とは何者なのか。其れは仏教で謂う空とか、道教の道とか謂うものと同じようなものなのか、将又根本的に全く異なる概念なのか。いま朧気ながらも、其れは後者なのではないかとの思いを強くした次第である。

     踏み絵が大きなヒントになった。本作でもクライマックスに取り扱われる重要な概念である。
     例えば仏教徒の場合はどうであろうか。仏像か何かを足蹴にせよと強要された場合、敬虔な仏教徒は如何にすべきだろうか。

     こんな話がある。或る僧が焚き火で暖を取っていたが、薪が尽きたので仏像を燃やした。之を見ていた別の僧が咎めたところ、仏像を燃やした僧は、ならば燃やした仏像から舎利を取ってみよと反論した。
     出典などは失念してしまったが、大体こんな感じの有名な説話があった筈だ。これはもしかすると基督教に於ける踏み絵と好対照を為すエピソードではないだろうか。

     仏教徒が信仰しているのは仏の教えであり、仏像そのものではない。仏像は確かに有り難いものかも知れないが、然し如何に有り難くとも仏像其れ自体は信仰の対象ではなく、只のモノである。
     だから別に燃やしたこと自体は問題にならないし、寧ろ仏像に執着する方が仏教としてはNGかも知れない。

     翻って基督教の踏み絵はどうだろうか。銅板の基督は只のモノだから、作中で通辞が幾度も囁きかけた如く形式だけ踏んでおけば良いとは言えないだろうか。否、矢張り其れは出来ない。仏教が目指すのは生活の勝利者だが、基督教が目指すのは道徳の勝利者であり、人生の勝利者だからだ。

     仏教は人間と人間以外の凡ゆる生命(或いは凡ゆる非生命)との間に隔たりを認めない。然し基督教では恐らく然うではない。人間には人間たる可き正義があり、尊厳がある。之を愛し、信じ抜く事こそが基督教の美徳なのだろう。
     だから敬虔な信者であればあるほど踏み絵を踏むことは出来ない。現在の苦痛から逃れる為に信仰を棄てることは、取りも直さず道義の敗北であり、その行為は理性無き畜生にも等しいからだ。ここにこそ基督教と他の宗教との隔絶が存在するように思える。


     だが然し『沈黙』作中に於いて最終的に司祭は棄教の道を択ぶ。基督は沈黙していたのではない。ずっと同じ苦痛の最中に在った。
     こんなとき、基督ならどうするだろうか。それは全ての信者が常に生活の中で共有している命題ではなかろうか。基督ならば、痛みを分かち合う。何となれば丸ごと肩代わりする事も厭わないのでは無いだろうか。然う考えれば踏み絵を踏む事は基督の真意に適うとも言える。正にこの部分が批判の対象であり、物議を醸した問題のシーンなのだろうが。


     何れにせよ何が正しいのか、誰にも答えられない問題である。従来の基督教の教理で解決出来ない領域に踏み込み重大な問題を提示した宗教的且つ文学的に意義深い作品であった。

  • キリスト教の本や遠藤周作の本を読んで理解したこと。イエスの言う"神の愛"とは、人が苦境にいるときに、目に見えて具体的に手を差し伸べてくれる事ではない。一見、「沈黙」しているようで無力のように感じるが、神の愛とは、
    人間の悲しみや苦しみを分かち合うために、常に寄り添ってくれるもの。

    「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。」 

    日本人の私に、キリスト教の理解は難しいので、いくつかのキリスト教関係の本を読んでから、沈黙を読んでみた。

    理解が難しいときは、「イエスの生涯」と合わせて読むとよいかも。「名画と読むイエス・キリストの物語」(中野京子 著)も分かりやすい。
    キリスト教入門(岩波ジュニア新書)もキリスト教を教養としてざっくり知る上で。

    「キリストは人々のために、転んだだろう。
    愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」

    人々の罪を背負って磔刑となったイエスが「身をもって証明したもの」は何か?
    それを理解した時、「沈黙」の言わんとすることに近づけると思う。

    ※「深い河」もおすすめ。

  • クリスチャンである作者がこれを書いた、ということが一番衝撃だった。
    “〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問を投げかける書き下ろし長編”と紹介されてますが、信仰を持たない人間から見れば、救いの手を差し伸べる神も仏もいなくて当たり前なんやけどね。この小説を読んで、今後も宗教をめぐるあれこれには用心しようと思いましたよ。

  • 鎖国下の日本に到達したキリシタンの物語。キリスト教徒が禁止され拷問を受けたのは教科書で知っていたがそれ以上の絶望のようなものを感じた。綺麗事は誰でも言える。実際自分がどう行動するか考えさせられる。

  • 踏んでもいい、踏んでもいい。
    キチジローが本当に執拗い上に、捕まっても期待を裏切らない。逆に、生き方としては利口なのではないか。周りの信仰者には嫌われるが、信仰とは、本来は形に囚われず、心の中で信じていれば、それで十分信仰と言えるのではないか。
    ガルペの潔さが凄い。信仰が強すぎて早々に殺されていく人達に、あまり共感できない。キチジローは己の弱さを嘆いている。確かに弱い。そこに腹が立つ部分もある。しかし、ロドリゴの後をしつこく追いかけるくらい悔いているし、信仰も捨てていないし、信仰の強さは十分だ。

    「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。」

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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