- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101144016
感想・レビュー・書評
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映画を観てから読了。
なんとも言えない人間関係の中にいるだらしない大人たちのお話に変わりなかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
主人公と重なる部分が多いのだよ、、、
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寂聴さん、否、瀬戸内晴美の私小説。
宮沢りえ・阿部寛さん主演のドラマをきっかけにはじめて読んだ。
壮絶……というには、あまりに穏やかで、
あまりに優しく、「ずるい」、弱い人々。
どこまでが事実でどこまでがフィクションなのか、
多少の脚色はあろうが、彼女の断片的な記憶を辿るようで
ページを繰ることさえもどかしかった。
『落下する夕方』と同じくらい、奇妙な愛のかたちがそこにあった。
ただ、とてもいとおしい。
登場人物一人びとりの苦しみ、苦悩、愛への切望を
すべて抱きしめたくなる。
「おしっこ」……屈託なく、不倫相手の家で言えるだろうか。 -
不倫と頭ではわかっている、それでいて年下の元彼とも。でも抑えられない気持ち。夏日に不倫相手の自宅を目指してさまよう描写がお気に入り。瀬戸内さんホント題名つけるの上手い。
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瀬戸内寂聴さんのお話を聞きに行ってその場で購入。
84歳にして あの声の張りといい、しゃきしゃきしたしゃべりといい
すごい人だな と思う。
これから書く小説は今までと違ったものにしたい。
妥協することなく、自分の可能性を信じてる。
話の中で一番印象に残ったこと。
一緒に暮らしている男性が毎晩々泥酔して帰ってくるので
”なぜ”かと問うたところ
”この家には気迫にみちている。見えないガラスの壁があって
家に入るためには、それを割らなくてはいけない。だから
酔わなくては家に入っていけない”というのだそうだ。
小説を書く寂聴さんの、気合や気迫、魂などが家中に満ちていて
とても入っていけないのだと言う。
それを聞いて、即座に”別れましょう”と言ったと。
うーーーむ
ガラスの家かぁ。仕事をしているしていないに関わらず
世の中の夫たちは、見えないガラスを感じているのだろうか。
などと思ってしまった。
寂聴さんの、何事にも真摯に取り組む姿というのがそこにあって
鬼気迫るものを感じたのだろうけど、きっとそこは
その男性が求めている 安らぎとか癒しの場ではなかったのかな。
と感じた。2006/8 -
男と女の不毛な関係をうまく描いています。最初に読んだ時は理解出来なかったのですが、読むたびに味わい深い一冊です。
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四角関係。ややこしすぎて飽きそうでしたが、文章がとても綺麗なので読了。
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アパートに一部屋借り、8年間、知子と暮らしたまに家庭に帰る慎吾の短編集。こんな感じの男女が次々に出てきたら疲れちゃうなと思ったけど、同じ人たちの連作短編集で助かった。不倫関係を扱うものはあまり生理的に受け付けないんだけど、女がサバサバしている(ように気を配っている)のと何事もなく日々が過ぎていくので落ち着いた風情があってちゃんと最後まで読めた、と思ったらこれは半私小説なのか、道理で背景や描写が細やかでよく作られてると思った。
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面白かった。
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1962(昭和37)年から翌年にかけて発表された短編を収めたもの。瀬戸内寂聴さん出家前、瀬戸内晴美名義で可書かれた初期作品集。
瀬戸内寂聴さんは初めて読んだのだが、昭和の昔からよく新聞の広告欄にこの方のいかにも温和そうな笑みを浮かべたまん丸いお顔が載っていて、この顔と作家名はずっと昔から知っている。その寂聴さんも昨年亡くなったそうで、そういえば読んでなかったから、今回読んでみた。
この文庫本の裏表紙には「私小説集」と書かれている。これは本当なのだろうか? 5編中4編は同じ知子なる女性が主人公で、同じ不倫のシチュエーションを描いているのだが、私小説と言うことは、作者の実体験をなぞった設定ということになるが。巻末の解説にはそうは書いていないので、よく分からない。
仮に作家の実体験がストレートに反映されているとしても、これらの短編は「私小説」らしい感触はなく、むしろ心理小説の書き方である。地味な心理描写ではあるが、それだけにリアルで、ラディゲの文体の猿真似ばかりやって喜んでいた三島由紀夫などとは遥かに別次元の小説作品だ。
が、とりとめもないといえば言える。すっきりと構築された作品体とはなっていないし、そもそも「連作」と言うには、重複する部分などもあるのでしっくりこない。特に大きな構想を描くことなく書かれた小品群、といったところか。
描かれている不倫の情緒は、何やらウェットで昭和っぽいのだが、やはり「演歌」で描かれるような単純なものではない。本作で描出される主人公の人物像は、小説ならではの<オブジェクト指向プログラム>によってオブジェクト化し、それゆえに多義的な・あるいは超-意味的な実在として屹立する。要するに「彼女」という第3者として、その存在が立ち現れる。
こういった小説の基本性能を備えた作品群ではあるが、ちょっと狭い世界に閉じこもっているようなところもあり、「優れた小説」と呼ぶには今ひとつのような気がした。
たぶん瀬戸内寂聴さんはどちらかというと大衆文芸サイドの「流行作家」であったと思われるので、後年はもっと面白い小説を書いたのかどうか、またそのうち読んでみようと思う。