項羽と劉邦(下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (362ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101152332

感想・レビュー・書評

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  • これを書くぼくは、もちろん項羽派なのだが、しかしそれはやっぱり負けた側だからなのかどうなのか。
    潮が引くように没落していく項羽は、そうであるからこそ魅力的で素晴らしい。逆に、利だけにとらわれている劉邦陣営は醜悪そのものなのだけれど、しかしどういうもんだと納得しながら読み進めていくぼくも、やぱりその輩なのかな。
    あとがきまでしっかり読ませてくれます。

  • 下巻が最も面白かった。特に張良が項羽打倒を具申する場面は鳥肌が立つ。

    勝ちに勝ちまくった項羽と、負けに負けまくった劉邦。両名の明暗が段々とはっきりしてくる。四面楚歌から自決に至るまでの項羽の変遷は、心が折れながらも威風堂々と豪傑さを重んじる項羽が印象的だ。対して下巻は劉邦の弱さが際立つ。しかしその弱さこそ虚心であり、虚心こそ謙虚さであり、謙虚さこそ劉邦の強さの正体だったと分かる。能無き者は項羽を選び、能有る者は劉邦を選ぶ。韓信の劉邦と項羽への評が端的にそれを指し示している。

    本書は、司馬遼太郎氏自身の名前の由来となった司馬遷『史記』の「高祖本紀」を基に、司馬遼太郎氏ならではの綿密な調査と躍動感ある文筆で見事に復活させた。司馬遼太郎氏の思い入れが違う。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』とは一味違う司馬氏をご堪能いただきたい。

  • 久しぶりに読んだ。昔から歴史物には興味がなかったが、中国史だけは、何を読んでも面白いと思う。戦略要素があるからかな。

  • 上巻は、漢字が多くて所々教科書みたいなところがあってちょっと読むスピードが落ちたりしたけど、中盤からどんどん面白くなった。
    人望のある劉邦の不思議な感じと強そうな項羽と、どんな戦いをするのか気になって。
    最後の四面楚歌のところはすごかった。
    次は三国志を読んでみたい。

  • 上中巻は、劉邦は情けない場面もありながら、そのカリスマ性でもって仲間を増やして戦に勝ったりと見せ場があった。今回は下巻のクライマックスなのだから、劉邦も成長して…と思ったが、全然そんなことはなかった。
    どちらかと言うと、軍才があり勇敢な項羽のほうが英雄の風格がある。

    劉邦は負けっぱなしで、勝ったとしても有能な部下の働きだけ。しかも随所で述べられる部下の後日談が、ますます劉邦のダメさ加減に拍車をかける。

    よく考えれば、文学化された三国志と違って項羽と劉邦の話は歴史書ベースだった。
    一介の農家の息子が、どうやって天下統一に至ったかという道筋が、ある意味リアルに伝わってくるような気がした。

  • 最終巻。項羽と劉邦の争いの結末まで。
    登場する人物像を思い描きながら、リーダーシップ、組織マネジメント力について考えさせられる。

    今回の中国史に登場する人物は大胆で個性が強く分かり易いのだけれども、自分にとっては、日本の志士(侍)の精神、生き方(リーダーシップも然り)の方が惹かれることに改めて気が付く。
    (その中でも韓信だけは惹かれる人物であったが)

    司馬遼太郎の考察では、それは中国と日本の以下の点での違いとする。
    以下引用、
    ・中国の政治は、ひとびとに食わせようということが第一義になっている。流民が大発生するのは一つの王朝のほろびるときであり、その動乱のなかで流民を食わせる大首領があらわれ、食わせるという姿勢をとりつつ古い王朝を倒す・・・その姿勢があるために、中国史はありあまるほどの政治哲学と政策論を生産してきた。
    日本史においては、大流民現象がなかったために、それに見合う首領もいなかったし、従って政治哲学や政策論の過剰な生産もなかった。
    日本にあっては中国皇帝のような強大な権力が成立したことがないということについても、この基盤の相違のなかからなにごとかを窺うことができそうである。

    ***

    四面楚歌や背水の陣がここから来ていることを今更ながら発見。

    ***

    以下引用~
    ・劉邦は、かれ自身も自認しているところだが、元来、自分で何をするということもできない男であった。若いころから人々を連れて歩き、そういう連中がすべてことを運んできた。・・・かといって、劉邦のふしぎさは、いつの場合でも敵の顔の見える前線に身を晒し、人々の背後に隠れるということはなかったことである。
    ・「陛下(劉邦)は、御自分を空虚だと思っておられます。際限もなく空虚だとおもっておられるところに、智者も勇者も入ることができます。・・それが徳というのです」
    ・義という文字は、解地からいえば羊と我を複合させて作られたとされる。羊はヒツジから転じて美しいという意味をもつ。羊・我は、「我を美しくする」ということであろう。古義では「人が美しく舞う姿」をさしたともいえるが、要するに人情という我を殺して倫理的な美を遂げる-命がけのかっこよさ-といことを言い、この秦末の乱世では、しょみのはしばしまでこの言葉を口にした。

  • 戦いに勝つ者が必ずしも国を治めることにはならない。

  • 圧倒的な武力を持つ項羽と、項羽と戦えば必ず負ける劉邦、この二人が後秦の時代に覇を争う物語。
    劉邦の部下である韓信と張良が超有能で、その活躍を読むのがとても楽しい。とくに韓信。
    韓信は知力で戦いを制し、どこまでもボス(劉邦)に命じられた仕事(命じられた戦い)を続ける、いわゆるがむしゃらビジネスマン。
    ただ本人は無欲であったものの、その武勲の大きさ故に周りの者がそれを放っておかず、最終的には謀反の疑いをかけられ地位は転落し、本当に反逆するも失敗して殺されてしまうという最後が悲しかった。一生懸命仕事をしていただけなのになあ。
    張良はとにかく世情の先の先を読む人で、誰がどう動けば何がどうなる、ということについて超人的なまでの勘が働く人だった。有能だが出世することで妬まれることを恐れ、うまく身を隠して余命を全うした。いわゆるスーパー軍師。
    他にも様々な登場人物の動き方考え方が読んでいて面白い。紀元前の話なのに筆者が直接目で見てきたかのようにリアリティがあった。また読み直したい。

  • 負け続けてもなお、前線に立って項羽を挑発しつづける劉邦。そしてまた負けて、命からがら落ち延びる・・・。
    そのくり返しで、次第に劉邦のその様に親しみを覚えてしまうから不思議。まさに読者までその「徳」で包み込んでしまうようです。

    反対に項羽は無双の「武」を誇り、兵たちは彼を畏怖しつづけるにも関わらず、話が進むにつれて哀れに見えてくる。一見華やかな戦国武将にも関わらず、劉邦側が張良、韓信をはじめ部下たちに色彩があふれており、一方で項羽がおじを失い、数少ない謀臣であった氾増にも見限られ、軍勢が孤色なせいかもしれない。

    きっと膨大な史料を基に作られた小説であろうが、そうはいっても紀元前のお話。相当に筆者・司馬遼太郎の「想像」があるに違いない。それにしても登場人物たちの呼吸を感じさせるこの作品は、名作と呼ぶにふさわしい作品でしょう。

  • 死に場所を定め、誇り高く死んでいく項羽の生き様に感じるところ有り

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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