- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101181806
感想・レビュー・書評
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すべての崩壊はわずかな綻びから始まるが、わずかな綻びのすべてが崩壊をもたらすわけではない。
綻びが重なり連なったとき、即ち皇帝の引き継ぎ失敗の連鎖こそがローマ崩壊の原因だとすれば、これはその始まりだろう。
100年の平和の後の外的襲来に、戦争に不慣れな皇帝があたったとしても挽回可能であった。
しかし、先帝が有能であればあるほど、その跡継ぎに対する忠誠は盲従となる。
今までは、幸か不幸か皇帝は実子に恵まれず、有能な後継者を養子にすることで体制を保ってきたが、
今回に限ってはそうでなく、能力でなく血筋で選ばれ、しかもそれは失敗した。
コモドゥスは暴君に生まれついたわけではないが、不運な家庭環境がそうしてしまった。
人間は、欲しい物が与えられなくとも自暴自棄にはなれないが、持っていたものを奪われるときはそうではない。
"怒り"よりも"恐れ"こそが、多くのものを破壊する暴力の源泉となる。
まずこの病にかかったのは、皇后の地位を奪われんとした姉であり、その姉による暗殺計画により、コモドゥスは猜疑心の塊となってしまった。
家族だけでなく、有能な部下や元老院議員までもが次々と処刑され、残るのは実利のみを求める追従者のみ。
能力がない追従者は権力を持っても金と権限をばらまくことしかできず、腐敗は加速する一方となる。
皇帝権力のチェック機関であったはずの元老院は、明確な"敵"や反対意見、思想の違いにはこれまで対抗できてきたが、
敵でも味方でもない、何の思想も持たない皇帝の側近が独断で行っていた買収により形骸化されてしまっていた。
確たる原因も明らかにされないままなんとなく皇帝は暗殺され、残されたものは混乱以外何もなかった。
ローマが過去の危機を何度も乗り越えられたのは"中興の祖"たる実力者があってのことであったが、
今のローマにそれを可能とする体制は残されていただろうか。次巻に続く。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この中巻では、序曲の初盤の後半。
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高校の世界史では、ゲルマン人が大挙侵入したことでローマ帝国は滅んだと教わった。
ゲルマン人の大移動というフレーズだけは頭に残っているのだが、因果関係がよくわかっておらず、唐突な印象しかなかった。
『ローマ人の物語』を読み進めると、ローマが常にゲルマン人の脅威にさらされていたことがよくわかる。
なぜゲルマン民族はローマを狙っていたかと言えば、狩猟民族のゲルマン人が、農耕により生産性を向上させ豊かになったローマを略奪の対象とみていたからだと理解した。
そしてそれを食い止める国力が無くなったとき、ゲルマン人の侵入を許してしまうことになるのだな。
蛮族という言葉で書かれているゲルマン人。
セックス大好き多産の蛮族、という見解も面白い。
軍略面での才能が無い。塩野さんはこの点マルクスに厳しい。
思索大好きマルクスは戦争には向いていなかっただろうし、それゆえ心労は多かっただろうと想像する。
そんな真面目マルクスだが、14人も子をなしたのは意外であった。とはいっても一夫一婦制を堅く守ってのことではあるが。
そして、なぜマルクスほどの賢人が子育てに失敗したのだろう、という疑問にだけは塩野さんも答えてくれていない。 -
哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスの治世の後半と、ローマ史においても有数の悪帝といわれるコモドゥスの治世を採り上げている。ただし、筆者の見解はやはりそのような単純な二分法ではない。
前巻でも述べられていたように、ローマの終わりの始まりの伏線はマルクス・アウレリウスや、もしくはそのさらに先帝のアントニヌス・ピウスの時代からあったのではないかという分析が、この巻で叙述されているゲルマニア戦役の評価にも現れている。
この戦役の戦い方においては、個々の戦闘に対する戦術を超えた、戦役自体の目的とそれを実現するための基本戦略の欠如があったのではないかということを筆者は述べている。
マルクス自身がいかに誠実に責任感を持ってこの戦役に臨んだとしても、基本戦略の欠如により戦役自体を長引かせ、結果としてはその途中で彼自身が病に倒れるという形で戦線を離れたということは、国の統治の難しさを表しているように感じる。
マルクス自身は「行動的であるというよりは思索的であった」というのが歴史家モムゼンの評価だったようであるが、このことが戦役を戦ううえでは不利に働いたということであろう。
また、賢帝の代表とされるマルクスが、なぜコモドゥスという悪帝を次期皇帝に選んだのかということについても、筆者は洞察に富んだ見解を述べている。
ローマの皇帝いというのが、そもそも市民と元老院の支持によるものであり、そのための正統性の確保や皇位継承後の不平分子による内乱を防ぐためには、事実上これしか選択肢はなかったというのが、筆者の考えであり、そのため、早い時期からコモドゥスにも共同統治という形で皇帝の役割を担わせていたのだ。
こうして。前線で病に倒れ死を迎えたマルクスの後を継いだコモドゥスだが、彼自身はゲルマニア戦役を早期に終戦(講和)に持ち込んだ以外は、皇帝として見るべき施策を打ってはいない。
お世辞にも有能な皇帝であったとは言えないが、ゲルマニア戦役の終結により、ローマが財政的にも市民生活の面でも一息つき、その後60年間にわたりゲルマン民族の侵入にも悩まされなかったというのは、歴史の皮肉ではある。
しかし、その間、コモドゥス自身は防衛の基盤の強化などの措置を何も取らず、側近の跋扈や金権政治を蔓延させるがままにしていたということは、やはりローマの統治の基盤自体が弱体化していくのは必然性を持っていたと言わざるを得ないだろう。 -
賢帝と謳われた父マルクス・アウレリウスの文字通り愚息のコモドウス。父は哲人皇帝、しかし15歳で世襲により皇帝になった息子は、統治には無関心で後には剣闘試合などに熱中し、剣闘士皇帝との別名があったといいます。
このように対照的である故に、後世の映画では皇帝に不適格とされたコモドウスが、父マルクスを殺してしまう設定になっていると紹介されています。賢い父が何故馬鹿な息子を選んだのかという問いに筆者は、それしか選択の余地がなかったと述べています。実の息子がいながら、それまで失点の見えない息子以外を選ぶ余地はなかったのだと言います。実子で皇帝になれなければ内乱になるのが常であり、実際、父の死後に姉が彼の暗殺の陰謀を企てています。
虚弱な身体に鞭を打って真面目に政務に励み、ゲルマン民族などの侵入により10年にも及ぶ戦役体制を敷き、道半ばで力尽きた皇帝マルクス時代。
父の死後、さっさと妥協案で戦役を終わらせた息子は、それでも父の遺言を守り続けた部下の将軍たちが彼を助けたので、皇帝の地位に12年もいました。そして、31歳で召使いに暗殺されたコモドウスは、皇帝のやるべき仕事を何もしなかったので、やはりと言うべきか記録抹殺罪に処され呆れたことに抹殺する碑文の一つもなかったということでした。 -
新潮学芸賞
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塩野女史はマルクス・アウレリウス好きなんだと思います。ギリシャ哲学好きな彼のエーゲ海の旅について書かれているところに愛情が感じられました。
その息子コモドゥスはネロ、ドミティアヌスに続く三人目の記録抹殺刑。ネロは自死ですが、後の二人には真犯人が他にいるような気がします。
印象に残った文。
最近「中庸」について考えていたので。
>ギリシャに始まる地中海文明は中庸を最重要視する。中庸とは日本の辞書では「偏らない中正の道」などとあるが、そのようなものがはじめから存在するならば人間は苦労しないですむのである。人間性を直視すればそのようなけっこうな「道」は存在しないことはわかるので、古代のギリシャ人が考えたのは、相反する二つの「道」の間でバランスをとる、という生き方だった。
もうひとつ。
>ローマ人は法の民である。そして人間社会を法で律しようと望むならば、法律ではフォローできないことまで視野に入れてはじめて、法治民族になれると考えていた。つまり、非合法的なことまで視野に入れてこそ、合理の追求も可能になるという考え方である。法治民族でありながら「クリエンテス」と呼ばれた人間関係、つまり縁故やコネの関係が重きをなしていたことがその証しだ。 -
時代は紀元2世紀。平和な時代のローマに周辺民族からの攻撃が始まる。過去ローマから動くことはなかった賢帝マルクス・アウレリウスは自ら戦地に赴き兵士を鼓舞し鎮圧に力を注ぐ。
同時に息子コモディウスを後継者に指名し、数年に渡って皇帝教育を施す。これは有能な人間を養子に迎え後継者にする、過去の五賢帝時代にはなかったことである。
激務のなか戦地で死去したマルクス帝の後を継いだコモディウス帝。スポーツに励むが、国政については実利を狙う周囲に振り回され猜疑心の固まりになっていく。自分に親しい人の話ばかりを聞き、やがて暴君になっていく。結末はコモディウス帝の殺害。ローマは混乱の時代を迎える。 -
五賢帝時代の最後、マルクス・アウレリウスの続き。
読んでいて退屈に思えてきたのだが、それは中身がどうこうというよりも、この「ローマ人の物語」という作品そのものに、飽きがきたからみたいだ。
まあ、これで30冊目だから、無理もないな。
しばらくお休みしてから読んだ方がいいのかもしれない。