- Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103534334
感想・レビュー・書評
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母親を早くに亡くした中学生まりえ。
まりえの父親である可能性がある免色。
そして、妹を少年時代に亡くした画家の主人公。
雨田具彦邸の屋根裏部屋で見つかった絵画「騎士団長殺し」を軸に、奇想天外な物語が静かに進んでいく。
小田原の静かなはずの邸宅のそばで見つかった「穴」。
摩訶不思議な展開に、抗うどころか心地よく魅せらせていく。
子どもの頃に慣れ親しんだ童話の世界のように。
仏典に説かれた時空を超えた説話のように。
物語に寄り添い、共に時を過ごす中で、これまで気が付かなかったものに気が付くことが出来る。
昨日の自分より今日の自分。
今日の自分より明日の自分。
先の見えない洞窟のなかにいるような苦難にあっても、それを乗り越える術は、自分自身の中にある。
全ての出来事には意味がある。
目の前に見えていても、見えていなくても、繋がっている。
自身の中にあるレジリエンスを引き出す文化芸術の力。
春樹ワールドから帰ってきたら、少しだけ、何かが前に進んでいた。
#村上春樹
#騎士団長殺し
#レジリエンス -
ページを繰る手を止めさせない
ぐいぐい読ませる内容はさすが!と感じた、やっぱり面白い
面白いけど、新しいスタイルや哲学の提示はなかった、いつもの村上作品
穴があって 美少女がいて 史実との関連があって
まるで、ねじまき鳥クロニクル の再構成版のよう
これまでの作品と同様に
喪失感や虚無感をイシューにしてるので、
生きることにおいて緊迫した問題を抱える人にとっては
どうでもいい作品、けど 面白い
フィクションだから 目くじらを立てることは不毛だけど、
南京の件は バイアスがかってて ちょっと がっかり
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騎士団長は 「私」と同一、
before/afterでいうところの beforeの「私」を象徴するもの
自問自答する時の自答者の暗喩的存在が騎士団長なのだろうと思う、なので 自分の味方であり 自分の望むことを表現してくれる
afterの「私」になるための兆しを示してくれたのは、
「私」が実はそうなること(変わること・過去を克服すること)を薄くとも望んでいた証左だと思う
コミの死 やその喪失感が「私」の人格形成に大きく影響していて、
物事の捉え方・哲学・ロジックの起点になっている
ユズとの離別にも 抗ったり 自分の意志を明示することなく、「私」は去った、これも コミの死にとらわれた「私」の判断
騎士団長を殺す、川を渡り閉所恐怖症なのに細穴を抜けたことは、過去の自分との決別であり 成長のための過程
そうして祠の穴に着地して、
ユズと会って話そう!という決意に至った。
「ユズと会って話そう!」と
秋川まりえの免色邸宅脱出後の「私は自由だ どこへだって行ける」は、たぶん同じ意味合いで、
似た者同士が 心を交しながら それぞれの試練に立ち向かって、成長し、過去の自分では やれなかったことにチャレンジしていく様であったように思う
トラウマと一括りに呼ぶのは早計だけど、
誰もが抱える逃げたい苛烈な過去事案によるココロの制約を外すために、過去を直視し直して再定義して未来へチャレンジしていこう、という所謂 成長ストーリーが本作の主旨かと捉えた
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とてつもなく不思議な物語だった。
雨田具彦の「騎士団長殺し」の絵があってこその内容なんだろうけど、
んんん、ファンタジーなのか?
クエスチョンマークがいっぱいになりながらも、ページをめくる手は止まらなかった。
不可思議な先が知りたいから。 -
女の子がいなくなってから俄然面白くなった。村上春樹のパラレルワールド。ありえるかもしれないありえない世界、その因果関係や流れ、質感が独特のしっとりした感じ。クラッカー、ペーパークリップ、牛乳、パスタとか、いつも登場する物たちも懐かしかった。
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何を言いたいのか全く分からなかったけど、村上ワールド全開だったので楽しく読ませてもらいました。
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長編作品はこれと1Q84以外は既読。
4月に長編新刊が出るようなので村上春樹慣れしておこうなと読んでみた。
1Q84はまだ途中なので最後にどんな感想を自分が持つか分からないけれど、それ以外の長編の中では一番好感を持てる「私」で、「私」以外の人々(人以外も)よいなと思った。 -
2022年11月24日読了。美しい少女まりえの肖像画を描き始めた「わたし」は、周囲の人々の思惑に流されるうち奇妙な世界に旅立つことになり…。おいしい朝食を作ってセックスして女性の胸の形にこだわったりしているうちになんだかんだ奇妙な住人に導かれて穴の底の地底世界に降りて脱出を目指すことになる、と「めっちゃいつものハルキ小説やないかい!!」と叫びたくなる。要は「いつも通り・期待通りおもしろい」ということでとにかくつるつると読まされる村上小説。いろいろほのめかされる登場人物の秘密めいた情報や伏線はあまり回収されず「??」を頭に浮かべたまま読み進むことになるが、まあ人生とはそういうもの、なのかもしれない…。
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最初のあれはなんだったの?
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主人公である肖像画を描いて生計を立てていた私が、友人の父の山奥にある家に住むことから始まる物語。絵に自分の魂を入れることで何かを訴えるというのが基軸としてあったと思う。『騎士団長殺し』実際に見てみたい。
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僕はまた裏切られたのだろうか。
といっても、僕はハルキストではない。これは前にも言ったと思う。それを聞いて君は残念に感じるかもしれないし、何も感じないかもしれない。でも今気にするべきはそれじゃないんだ。
さて。
第二部の前半は村上春樹の物語に浸っている実感があった。
喪失感を抱いた主人公、ミステリアスな登場人物、不思議な存在、幻想と現実の狭間、パスタ、ジャズ、CD嫌い。
これらは全てが村上春樹小説が村上春樹小説たらしめている記号でもあり、これらに存分浸ることができる。
しかし、中盤以降は現実原則に即した物語になってしまう。
そして最終的には何やらハッピーエンドっぽい感じになってしまう。
ハッピーエンドは暴力的であって、『騎士団長殺し』も忘却を含めた暴力的な帰結を見るように感じた。
この暴力的な帰結、ハッピーエンドは『1Q84』Book3と類似しているようでもある。
ここで、僕はまた裏切られたのではないか、と感じてしまう。
裏切られたと言ったけど、僕はハルキストではない。
僕がハルキストであることを否定すればするほど皆、君はハルキストだと言うんだ。どうしてなんだろう。よくわからないな。
バイ・ザ・ウェイ(by the way)
裏切られたと感じた反面、この『騎士団長殺し』はこれまでの村上春樹の主人公=「僕」のその後が描かれたのではないか、とも感じる。
謎の日本画家雨田具彦からは、これまでの村上春樹小説(『風の歌を聴け』から続く「僕」や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「私」といった「僕」たち)の影が見える。
世界を激変させうる出来事(本作ではナチス要人の暗殺)と個人の糧(本作では画家)がリンクし、喪失感と不思議な冒険と失望。
これが多くの村上春樹小説の「僕」たちだったし、雨田具彦からはこうした体験をした「僕」の影を感じる。
そして、これまで「僕」たちが解決できなかった諸々、羊男との対話や「記号士」との決着やらやみくろだのリトルピープルだのの処理だの残したことも多かったはずだ。
雨田具彦も同様、ウィーンの地で喪失感を感じ、イデアなる不思議な存在と接触し大冒険の末に帰国、イデアなのかやみくろなのかジョニーウォーカーさんなのかはわからないけど世界又は個人を破壊しうる存在を自宅裏の祠に封じ込めて残りの人生を歩んだのではないか。
思えば、第一部には雑木林の中でねじまき鳥を思わせる鳥が鳴く描写や、そもそも井戸と騎士団長の穴には親和性を感じるし、そもそも『どろぼうかささぎ』(ロッシーニ)と『ドン・ジョヴァンニ』(モーツァルト)はオペラという共通点もある。
こう考えると、そういった僕たちがやり残した諸々を偶然発見してしまった第二世代の僕が今回の主人公だったのではないか、などと感じるところもある。
何はともあれ、やっぱり村上春樹らしくないところもありつつこれまでの村上春樹らしさの影も感じられる物語だった。
でも僕はハルキストではないんだ。
やれやれ、いったいどうすれば僕がハルキストではないと信じてくれるんだろう。
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前編のゆったりとした日常からは想像出来ないような、物語はスピーディーにかつ不思議な雰囲気をおびていく。秋山まりえが免色の実の娘であるかもしれない。まりえの肖像画を描くことになった主人公は、13歳の不思議な少女まりえとの接点を持つようになる。森に空いた不思議な穴、騎士団長、顔長...などなどこの世のものではないイデアやメタファーとの出会いが、主人公を2つの世界に迷い込ませ、まりえを救い現実世界に戻るため、主人公はメタファーの世界を進むことになる。細い洞窟の穴を這うように抜けると、そこは雑木林の穴の中だった。不思議な鈴をその穴から見つけて以来、2つの世界を繋げる環を開いてしまった。
一連の騒動を終えて、柚との関係は元の夫婦に戻った。そこには娘もいる。物語は上手くいったように終わったが、前編のはじめに顔のない男がペンギンのお守りを持って現れている。環は閉じられ、2つの世界は交わることがなくなったように思われたが、顔のない男が自分の肖像画を描くように(以前メタファーの世界で主人公を助ける代わりに肖像画を描くと約束していた)、自分の周りの人を護りたくば肖像画を描くように言ってきたので、物語はまだ見えないところで続いているのではないだろうか。この時顔のない男の肖像画を描くことが出来なかった主人公が、今後どのような展開を迎えるのかは私たちの想像の中で補うしかない。 -
ねじまき鳥のクロニクルと同じ要素がいくつか。井戸と類似した存在の穴(入口出口がないのに通り抜けられる)はその最たる例だ。物語が推進力をもち、物語そのものが望む方へと筆を走らせると、その人の中では同じような場面へと帰着するのだろうか?計り知れない境地。この作品は、登場人物の会話が特に秀でている。会話の中から新たな価値観や物語を進める符丁のようなものが生まれる。それは常に、インフォメーションギャップのあるコミュニケーションだから、他愛もない会話でも目が離せない。東北大震災の出し方が、村上春樹の人間性を物語っている。というより、主人公の一人称からして、それ以外の出し方は考えられない。さり気なくて、慎ましい思慮に富んでいて、それでいて事実をズバッと指摘する端的さを含んでいる。一瞬一瞬を切り取りながら、その雰囲気を楽しむ作品だと感じた。
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まりえが主人公に語りかける「私の絵を描いている先生の中に入ってそこから自分を見てみたい。それで自分自身の理解が深まる。先生も私のことをもっと深く理解できる」とは深い言葉。また主人公が自分自身の手を眺めながら「私自身にとって私という人間が意味を持たない存在であるように思えてきた。私の手に見えず、見覚えのないよその人間のもののように見えた」との言葉も、人間とは何かを問いかけている。井戸のような「穴」に異次元世界との接点を感じさせ、また意味深な象徴的、含みがあることが実に興味深いところである。第2部では主人公の実に不思議な世界の体験が、これぞ正に村上ワールドという感じで、私が魅きつけられる点でもあり、ついていけない人もいるところだと思う。
終結部の平和さが、それまでの不思議な物語とどのように繋がるのかなど、これからも解説書などで研究してみたいテーマが多い。