雪沼とその周辺

著者 :
  • 新潮社
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本棚登録 : 438
感想 : 80
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  • Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104471027

感想・レビュー・書評

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  • 山間のちいさな町に生きる人びとの日常に訪れる、あるかなきかのかすかな眩暈。淡々と描かれる日常、淡々と生きざるをえない(あるいはそれを選んだ)彼らの姿にほんの少し哀しみがにじむ気がする。いちばん好きな堀江さんの本。

  • この本を読んで堀江敏幸氏のとりこになることにしました。

  • 紹介されて初めて読んだ堀江敏幸の本は、パリを巡る紀行文のようなエッセイのような小説のような文章であった。その時は、余りの固有名詞の多さに、正直たじたじとなってしまい、堀江敏幸はそこまでになっていた。折角紹介してもらったのだから、という気持ちで何とか読んだのだけれど、多分もう読むことはない作家だろうな、とその時には思っていた。だから、そんな第一印象から抜け出して、彼の本を買って読むまでになったのには、多少の道程がある。切っ掛けは、彼が書評している本を読んだところ、とても良かったという所から始まる。というのも堀江敏幸の書評が川上弘美の書評と並んで掲載されていたのでついつい読んでしまったからなのだが、ついで、購読している雑誌に、短編が定期的に出ていたのに気付いた、という道順を辿り、更に、川上弘美の特集を組んだユリイカで、川上弘美と堀江敏幸の対談のようなものをみて、読んでみるか、という気になっていたところ、川上弘美の新刊をチェックしていたら偶然にも同じ月に堀江敏幸の新刊も出ることを知り、取り寄せた新刊が「雪沼とその周辺」だった、という地点に至ったのである。簡単に言えば、川上弘美を探していると、何故かいつもそこに堀江敏幸もついて来るから、というのが理由だ。

    雪沼とその周辺、は、その購読している雑誌を中心に発表された作品を集めた短編集である。雪沼という架空の町を中心とした土地に住む、普通に暮らす普通の人々を描いている。勿論、普通、というのは、本当の意味では普通ではない。ひょっとすると、もう希有な人々と呼んだ方がいいかも知れないが、どこかで知っているような、昔の人々だ。その人たちがこの本の主人公達である。

    この短編集には、とても静かな雰囲気がある。本を読むとき、ついついその世界に入り込み、周りの風景や登場人物の顔も具体的になってきて、音や匂いも漂って来ることがある。例えば、「たったひとつの冴えたやりかた」を読んでいた時、いつも頭の隅には、高周波の、きぃん、という音がしていたし、「アンジェラの祈り」を読んでいた時なら、街頭のがやがやした音が車のクラクションと一緒になって聞こえていたりしたが、この小説を読んでいるときに感じていたのは、音のない世界、である。

    音がない世界、というのは実は想像しにくい世界だ。世の中には、意識するにせよしないせよ、音が文字通り溢れている。それでも、その音に溺れずに済むのは、耳という入力装置の信号を、脳という処理装置が適当にミュートしているからに他ならないが、それでも決して聞こえていない訳ではない。そのことを知るには、例えば、残業で事務所に残っていたりすればよい。決まった時間が来て空調が止まった瞬間に感じる、あの急に宙に放り出されたような感覚を味わえば、いかに耳が知らず知らずの内に音を拾っているかが実感できるだろう。もしくは、この小説にも出て来きそうな、雪のしんしんと積もる中、じっと時間が過ぎるのを待っていれば。

    タイトルに刺激されていることは間違いないが、この小説を読んでいる時の、音のない世界、の感じというのは、まさに雪の中に、それも夜中に、立っている時の感じに似ている。それはまた、雪がしんしんと降るというのが、とてもよく出来た表現だと思える瞬間でもある。そのことを経験するまで、しんしん、という言葉からは、どちらかというと馬車を引く馬に取り付けられた鈴がゆるやかに鳴っているような音を、想像していたのだが、現実には、そんな音がずうっと響いて行くような乾いた空間ではなく、何もかもがすっと吸収されてしまう空間に、ある、音が、しんしんの正体だ。しかし、雪が音もなく積もっていくのを見ていると、しんしん、という言葉に詰まっている情感というのが、一気に耳を支配する感覚におそわれるのだ。その、激しくはないけれど、静かに強く響いているピアニッシモが、この小説の底流として聞こえて来るのだ。

    憧れているせいもあるだろうか。不思議と、この小説に出て来るような無口で芯の強い人間には惹かれるものがある。中でも書家の先生がよい。道を究めていこうとする態度が率直に描かれている。そして、中華料理屋の主人。その主人が登場する「ピラニア」という題からは、想像もつかない、穏やかな人間模様が展開する。各々の話は、ごくごくゆるやかに繋がり合い、ひとり一人の歴史を描いていく。誰もが、一つのことに誇りを持ち、人生を歩んで行ける土地。その静かな、しかし、しっかりとした足取りを感じることができる幸せな町。結局、そんな場所の豊かさというものをこの本は描いているとも言える。

    人には帰るところがある。死が誰にでも訪れるものなら、その瞬間を迎えるべき場所、帰るべき場所へと向かって旅を続けること、それが人生だ。そして、その場所へ辿りつけた人は幸せ、ということなのだろうか。そんなことを考えながら、この本を読み終えた。

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著者プロフィール

作家

「2023年 『ベスト・エッセイ2023』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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