- Amazon.co.jp ・本 (204ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106100031
感想・レビュー・書評
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20年くらい前に読んだ本著を再読。
前回あまり理解が及んでいなかった部分も今回改めて読んで理解できた部分が多かった。
人間知らず知らずのうちに意識の中に壁を作ってしまい、壁の外の事は理解ができない、知ろうとしない。それこそがバカの壁である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この本は、現代人の根源的な問題をテーマにしている。自分の立地点を確立するために役に立つ本である
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著者は東京大学名誉教授.著者紹介によると解剖学者.
本書は,2003年4月10日に創刊された新潮新書の,第一回同時発売分,10冊のうちの1冊である.新潮新書番号003.また,著者は1995年に東京大学を退官されているから,退官の8年後に刊行された新書である.
本書のタイトル『バカの壁』は,著者の最初の本である『形を読む』(1986年刊)からとられている.『形を読む』の第二章「形態学の方法」には,次のように述べられている.(以下はレビュアーによる要約であり正確な引用ではありません)
――以下要約――
自然科学とは,無限に多様な現実から,いつどこでも同じ結論に達する,という部分のみを,言語を用いた情報として切り出してくる作業である.
理系では,情報の受け手の頭の中に,情報の受容系が存在することが前提になっている.ところが,情報の受け手が馬鹿だと,本来伝達可能な情報が伝達不可能になる,これを称して「馬鹿の壁」と呼ぶ.
理系の学問では,情報は,いわば強制的な伝達が可能である.受け取り側の意図やら動機には関係せず,前提を認めてしまえば,後の結論は,自動的・必然的に進行する脳内過程によって一意的に決まる.これが,文科との違いとなる.
このあたりの「馬鹿の壁」と理系文系,自由,伝達可能性の議論は『バカの壁』に引き継がれる.
――要約終了――
本書では,上の要約を拡張して「結局われわれは,自分の脳に入ることしか理解できない.」という意味で「バカの壁」という語を使っている.つまり,われわれは,一人ひとり異なった壁を自分の周りに廻らしているのである.その壁は現実の状況では,「これ以上は理解できないと思う→理解することを諦める→それ以上は聞かない,聞こえない」という形で現れる.
だから,往々にして対人関係では「話せばわかる」ではなく,「話しても聞いていない」ことになる.私が何かを理解する場合でも,私が理解したことは,相手やその他大勢の理解とは異なることがある.そのような,聞いていないこと,大勢とは異なる理解をすること,が認められる社会が,万人にとって住みやすい社会である,と著者は主張する.
人生でぶつかる問題は多様であり,現実も多様であるから,そこに正解はない.しかし,今の学校教育では,問題に対する正解はただ一つというのが常識になっている.ここから類推して人生の問題にも正解がただ一つあると考えている人が大勢となっている.だから,自然科学の特性であるところの共通性を追求する考え方も大事であるが,ものごとの個別性を忘れてはならないとも,著者は主張する.
自分が知りたくないことについては,「全部知っている」「わかっている」と言うことによって,自主的に情報を遮断してしまっている.「わかっていない」ことについては,言葉による説明を求めがちだが,言葉で説明しても実感できないことが存在することをわかっていない.雑学(説明)と理解は異なる.現実をディテールまで含めて「理解する」ことは簡単ではない.そこで,完全に理解できる存在を仮定する,それが一神教の神であろう.
「客観的な事実」は存在しない.同様に「絶対的な公平」も「絶対的な中立」も存在しない.人間に共通する部分があるとすれば,「もしかしたら違うかもしれない」を前提としたうえでの,「人間だったら普通こう考えるでしょ」程度の同意だけかもしれない.
「科学的事実」は存在する.しかし,その原因を説明したものは「科学的推測」であり,永遠不変の真実ではない.科学的根拠を理由にした政策は,推測が変われば,政策を変えねばならない,しかし政策が変更されることはほとんど無い.
感覚的な入力:xと,その入力に対応した行動:yとの関係を,y=axとあらわすとき,脳はaの値を決めている.a=0のとき,y=0x=0となり,その人にとっては入力が全く存在しない(現実が存在しない),つまりx=0と同等になる.aがマイナスのとき忌避行動が生じ,aがプラスのとき歓迎が生じる.その人の社会性は,多くの刺激に対して適切なaを設定できるかどうかで判断できる.
共通了解を広げていく方向に,ヒトの社会は進歩してきた.そのなかでは「個性」を伸ばすことは不要である.身体がすでに個性的だから.
言葉で表されていて永遠に残ってしまうものを情報と呼ぶ.私たちの体は日々変化し続けている,これに反して,変わらないと主張しているのが脳である.体は変わり,脳は変わらないと主張し続ける.勉強して知ることは,変わること違う人になること.生きている人間はひたすら変わっていく.何かを知って生まれ変わる,とすれば死も特別なことではない.
社会は共通性の上に成り立っているから,他人のことがわからずに生きられるわけがない.
概念としてのリンゴには不定冠詞(an indefinite article)がつく.実体としての個別のリンゴには定冠詞(the definite article)が付く.シニフィアンは概念としてのリンゴ,シニフィエは実体としてのリンゴ.
人間の脳は巨大化して高能力化した.この機能を維持するために,脳内で入力と出力を連続させる,これが「考える」ということ.考えるのは,人間の脳の必然的な行動である.
「意識と無意識」無意識であろうとも私の人生である.
「身体と脳」学んだことと行動が互いに影響しあわなければならない.
「共同体」人生の意味は外部にある.人生の意味は社会との関係から生まれる.自分を育ててくれた共同体に,まっとうな人間を送り返す.
社会的に頭がいいというのは,バランスがとれていて,社会的適応が色々な局面で出来る,ということ.頭がいいかどうかは,脳を調べてもわからない.脳の形状とか機能に特に個人差があるわけではないことによる.ではスポーツの天才はどうなっているのか.どうやら常人が経由するシナプス連絡を省略しているようだ.1970年ごろと2000年ごろの小学生を比較すると,前頭葉の機能である行動の抑制機能の発達が,4年分ほど遅れている.これで,若いほど行動を起こしがち(キレやすい)ことの説明になる.
学問の本質は,生きているもの,万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業にある.「現物から情報を起こしてくる」.そして教師は,その作業を面白がってしている必要がある.
どういう社会が私たちにとって望ましいのか.敗戦後に理想とした「働かなくても食える社会」は理想的ではなかった.ただし「元気なオバサン」を大量に生み出せたことを考えると,かなり理想的ではあった.あと子供と若者とオジサンをどうするか.ヒントは仏教にある「欲はほどほどに」ではないか.
欲とは虚の経済.実の経済は使えるエネルギー.使えるエネルギーが増えていれば経済は発展している.金がいくら増えても経済は伸びてはいない.
バカの壁は一元論に起因するという面がある.壁の内側だけが世界で,向こう側が見えない,向こう側が存在していることさえ分かっていない.具体的には「わかる」「話せばわかる」「絶対的真実が存在する」と安易に思い込むこと.
常識.人間であればこうだろう.これが人類にとっての普遍的な原理になる.
2022.06 -
100刷本ということで読んでみた!
むむー、20年前には貴重な考え方、新しい考え方、気づき満載だったのかな?
個人的な感想だが、前半には、他の方が感想に書かれているようなうなるポイントがあったものの、中盤以降は、(小林秀雄の納得感のある本を読んだ後ってこともあるのかな、、)新鮮味も納得感もイマイチだったのと、意見や(現在は遅れている、誤った見方とされている)説が断定的に書かれているため、どうしても自分の頭をまっさらにして読めなかった。。
前半だけの本なら★3-4になると思われるが、後半が★1-2だった、、 -
【読もうとしたきっかけ】
平成で一番売れた新書と聞いていたため読んでみたくなった。
【読んで自分が感じたこと認識したこと】
半分ぐらいしか読んでいない状況で感想を書くので恐縮するが、非常に読みづらい。自分に知識が足りていないことが大きな要因なのかもしれないが、「○○だから、□□である。」という著者の主張があったとして、なぜ□□なのか根拠が乏しく、というかないものがあり、□□を前提に話を展開していく箇所もあるのでどうも納得できないというか腑に落ちないように感じる。
また、一つの章のなかでも話が色々なところに移り、言いっぱなしで終わってるように感じられ、結局何が言いたかったのか良く分からなくて、読み進めるのが辛くなってしまい途中で読むことを挫折。
まえがきの数ページはなんとなく良いことが書いてあったと感じた。 -
今さらですが。YouTubeでたまたま見た養老さんの話が面白かったので。途中は少しとばしちゃいましたが、つかみは、なるほど、ベストセラーだなと。気づきがたくさんでした。
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モノに接するまえから係数ゼロでは、なんにもならない。
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「知るということ」について考えさせられた。
『知るは、ガンの告知と一緒である。余命いくばくかと宣告されたら、いま咲いている桜の見え方は変わっていくだろう。それは桜は一切変わっていないにも関わらず、自分が変わり続けているから。』
…知るって自分が変わっていくことなんだ、自分は変わり続けているんだ、という実感が沸いたことに、ガツンと衝撃を受けた。
約20年前(!)のベストセラーだけれど、いま読んでも発見が沢山。「分かる」ってそんなに容易い事ではない。簡単な解に逃げるな。というメッセージを感じた。
都市型社会での「意識」にとって、共有化されるものこそが、基本的には大切なものである。それに対しての個性とは、身体であり、意識にとっての「無意識」といってもいい。
安易に「分かる」「絶対的な真実がある」と思ってしまう姿勢、そのすぐ先にある一元論という強固な壁に囲われた世界への警鐘。常に流転していく自分という枠組みの中で、人生の意味を問う先に生まれるものは何なのだろう? -
20年近く遅れて読んでも色あせない内容でした。理由は、すでに手垢がついた古典に近い含蓄があるから。
読むとわかりますが、彼の経験が古典の教えとミックスされています。さながら現代人に向けた古典リメイクです。
バカの壁とは、何なのか?
『人が考えることをやめてしまう』きっかけは何か。それを性差、宗教、政治、経済と幅広い事例から示してくれました。
私は宗教のくだりが好きです。多元論的な宗教に生まれてから慣れ親しんでいるので、一元論的宗教の気持ちがわかりません。
明らかにバカ。はっきりと目の前にある壁を感じました。
また、彼の文体にも触れておきます。
ロックな書きぶりがいい。
これはあの団体が怒らないかな、、、と身を引いてしまう気分に何度もさせられました。
既成の多数派、権力ある団体に与しない。自分の理屈でそうだと思ったら、その意見を迷わずぶつける。坂口安吾に似た危機感を感じました。文章からきな臭さを出せる人なんですね。
ぎょっとするタイトルを裏切らない、刺激ある一冊でした。