- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140883617
感想・レビュー・書評
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ナショナリズム批判の限界
ナショナリズムとはどのような問題なのか?
国家をなくすことはできるか?
私たちはナショナリズムに何を負っているのか?
著者:萱野稔人(1970-、愛知県、哲学)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
もともと政治には興味がない。
右翼、左翼の意味も分からない。
韓国に対して、なぜ一部の人が噛みつくのか意味不明
とはいえ、さすがにいつまでも無視するわけには
いかないだろうと、少しでも勉強しようと、なぜか
この本を手に取った。
結論から言うと「予備知識無しでは意味不明」だった
最大の問題は、この本で語られる「ナショナリズム」
とは、何なのかがさっぱり分からなかったということだ。
著者にとっては明確に存在しているのは確かで、
「それ」に対して非常に攻撃的ではある。しかし
「何」に攻撃しているのか、予備知識がないと
さっぱり分からない。
でも、困ったことに面白いのだ。
そういう困った本である
メモ)
・自分たちの利権を奪う存在、日本の責任ばかりを
騒ぎ立て、保証金を奪う外国人というイメージ
若者の被害者意識がナショナリズムへ駆り立てる
・日本人というアイデンティティ。それだけで
自分が認められるという感覚。社会から除外された
存在でないという安心感。それに飛びつく
・日本の若者の右傾化。単純否定しても抑えれない
原因をおさえなければならない
・リベラル知識人は政治よりも道徳に重きを置いている
ただ他者を抑圧することはよくない、という理由で
ナショナリズムを否定している。分析していない
・言語の共通性がネーションの基盤
・国家とは何か。国境をなくすことが本当によいのか
それは可能なのか。国家廃絶は国家反復につながる
・国家なき社会。強制的な権力はなくなるかもしれない
だが内面同質化の凄まじい圧力が生まれる
それは宗教に近いものがある。問題はそれを
受けいることができない人々だ。どうなるか
・いま、世界規模で世界を支配しているのは「資本g
主義」という装置だ。多国籍がこれに従う
・産業社会が人々の同質化を促す
様々な仕事へ移る(利益が得られる)
そのための技術を学ぶ(学校)
国の利益。軍隊も同じこと
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フランス現代思想を参照しながら、日本におけるポストモダン思想の「反ナショナリズム」の議論の底の浅さを指摘しています。
著者はまず、反ナショナリズムを標榜しているはずの左派知識人が格差問題について積極的に発言をしていることに疑問を投げかけます。著者によれば、格差問題はどこまでもナショナルな問題であり、ナショナリズムに依拠することなく格差問題に対する対応を政府に求めることは矛盾していると論じます。その上で、「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単一が一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である」というゲルナーの定義に基づきながら、国民主権の達成へ向けてのプロセスをナショナリズムの歩みとして捉えなおそうとしています。
また本書の最後には、国民国家がファシズムへ向かわないようにするためには、ナショナリズムを否定するのではなく、国外市場の拡大を重視することで国内経済の脆弱化を招来するような経済政策を改め、国内経済を保全するというナショナルな経済政策こそが重要だという主張が示されています。以前から、保守系の知識人たちが「戦後民主主義」をこの国の「伝統」から放擲しようとしていることに疑問を感じており、たとえば大塚久雄の国民経済論を保守の立場から読みなおすような試みがあってもよいのではないかと思っていたので、著者の提言はうなずけるところがあると感じました。
ただ、ポストモダン左派の反ナショナリズムに対する批判には、わら人形を叩いているのではないかという気がしないでもありません。著者の論じているように、彼らが何をナショナリズムに負っているかということについて無自覚なのであれば当然批判されるべきでしょうが、それはむしろ「脱構築」とは何であったのかを忘却しているという点で、批判されるべきだと考えます。 -
ナショナリズムと国家。この二つに共通していることは、言語と暴力である。これは統治していく上で切り離せないという考えは確かに頷ける。また、グローバルになればなるほど、海外の安い労働力を利用することになり、経済格差がおこるという矛盾。それが巻き起こすナショナリズム。現在の不安定な世界を観ると、国内経済崩壊による外部経済への拡張。すなわち戦争という暴力による侵略が実際に起こってもおかしくない不安定な状況。そこはかとなく怖さを感じるのは自分だけだろうか?
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「ナショナリズム批判」を批判する立場をとる萱野氏のナショナリズム論。
アーネスト・ゲルナーのナショナリズム論を軸としながら、アンダーソン「創造の共同体」やネグリ、ハートの「マルチチュード」などを批判しつつ、それらが国民国家、ナショナリズムの亜流や変形でしかないことを指摘している。またグローバリゼーションが、国民国家を不要とするリベラル派の予想通りには進んでおらず、むしろナショナリズムの高揚につながることを指摘している。 -
ナショナリズムと国家について、それぞれの論者の定義や歴史的背景が整理されていて、難しいながらも解りやすい書籍でした。ナショナリズムという言葉だけに翻弄されないために、読んでおいた方がよい1冊だと思います。
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アーネスト・ゲルナーが定義するナショナリズムを基本に,その歴史的な意義と機能を明らかにする書籍。
ウヨクやホシュハを擁護するものではない。
そのことは、以下によく表れている。
「私がナショナリズムを肯定するのは,基本的に『国家は国民のために存在すべきであり,国民の生活を保障すべきである』と考えるところまでだ。もしナショナリズムが『日本人』というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて『非日本人』を差別したり『日本的でないもの』を排除しようとするなら,私はそのナショナリズムを明確に否定する。」(29頁) -
著者の前著「国家とはなにか」を読んでいる人にとっては内容が薄い。最新動向としてフランス大統領選時の極右の台頭が、グローバリゼーションによる格差社会を前に生まれたという事象を、彼の国家論に取り込んでいる。この本が言いたいことを一言で言うと「グローバリゼーションは格差を生み、低所得層はネーションとしての「国民」アイデンティティが強くなるため、ナショナリズムが大きくなる。よってグローバリゼーションは国民国家を消滅させることはない」というもの。また、野心的なタイトルではあるが、書の冒頭で彼も主張しているように、彼は排外的なナショナリズムは否定し、あくまで国民国家を成立させているナショナリズムのみを肯定している。
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ナショナリズムは何よって起こり、強く動くのか。そして、それは本当に悪なのか。非常に示唆に富んだ本。