はるか昔のイングランド、アクセルとベアトリスの老夫婦はブリトン人の小さな村で暮らしているが、彼らを含め村人たちは、昔のことのみならずついさっきのことまで、いろんなことをすぐに忘れてしまう。その異変に気付いた老夫婦は、もう顔も覚えていない息子、どこへ行ってしまったのか理由もわからないけれどどこかにいるはずの息子を訪ねて旅に出る。悪鬼や竜が跋扈する世界、たどりついたサクソン人の村で老夫婦は悪鬼退治をした勇敢な旅の戦士ウィスタンと、悪鬼にさらわれるも戦士に助け出された少年エドウィンと出会い、彼らと旅路を共にすることになる。
最初はてっきりイングランドを舞台にした寓話的なファンタジーかと思って読み始めたのだけど、しばらくして突然アーサー王の名前が出てきて、この物語がアーサー王亡きあとの時代であることがわかり、ついにはまだ存命だった老騎士ガウェインが登場する。老夫婦、戦士と少年のコンビ、そしてガウェインと愛馬の3組はそれぞれの目的と方法で、マーリンの魔法により忘却の霧を吐き出しながら死にかけている雌竜クエリグの巣である巨人のケルンまでたどり着くが・・・。
あらすじだけならアーサー王伝説をベースにしたファンタジーと受け取れるかもしれないけれど、けして冒険に胸躍らせるタイプのエンタメ作品ではない。騎士や戦士は一見高潔なようでいてだんだん利己的になってくるし、老夫婦も互いを思いやりこそすれそれ意外の事柄にはわれ関せず、登場人物全員が自分の目的のためのエゴイスティックな言動しかせず、会話はまったくかみ合わない。
竜や鬼は出てきてもタイトルの「巨人」は登場しないのだけれど、巨人が意味しているのはつまり「記憶」。楽しかった幸福だった記憶だけではなく、誰かを憎み、恨み、復讐を誓った記憶なら、甦らせないほうがいい。
解説にもあったけれどつまりこれは「寝た子を起こす」話なのでしょう。ブリトン人であるアーサー王が平定した国々、しかし支配されたサクソン人側は彼らを恨んでいる。その憎悪を封印していた「忘却」という名の巨人を、彼らは起こしにいってしまった。この国には再び復讐のための戦いが起こることだろう。
忘れてしまったほうが幸せなこともある、老夫婦は本当に愛し合っている夫婦しかいけない島へ渡ろうとするけれど(アーサー王伝説のアヴァロンのような場所か)、彼らは裏切りの記憶を思い出してしまった。夫婦という個人の記憶、民俗という大きな全体の記憶、いずれにしても「忘れてたほうが幸せなんだけど、全部思い出す?どうする?」という問いを投げかけたままで物語は終わる。
作者のメッセージはなんとなくわかるけれど、こういう風に解釈してしまうと説教くさくてつまらないような気もするし、平面的に筋書きだけ追ってもそれはそれで退屈。単純に読み終えたあと、どういう意味か考えはするけれどそれに「心を打たれる」ということはなかった。
以下ちょっと個人的に気になったのはアクセルの正体。記憶が蘇ってくるにつれ、どうやらアクセルもアーサー王の騎士だったが、最終的にアーサーと袂を分かつた過去があったらしいことがわかってくる。ガウェインはアクセルについて「当時はアクセラムかアクセラスの名で通っていた」と回想する。しかしそのような名前の騎士はたぶん伝説には出てこない(私が知らないだけならごめんなさい)。
実はガウェインが登場したときに、この記憶のない老夫婦の正体は、もしやランスロットとグィネヴィアではないかと考えた。老妻ベアトリスを「お姫様」と呼び必要以上に労わるアクセルの姿に、王妃に頭のあがらない騎士の姿が重なったのもあるし、アーサーと袂を分かったというのも、伝説ではやはりランスロット。アクセルはランスロットのアナグラムでは?と考えたり。しかし終盤妻の裏切りがほのめかされたとき、あれ?じゃあランスロじゃなくてアーサー王自身?とも思ったり。
とはいえガウェインを名乗る騎士も些かうさんくさく、一応一般的な伝説ではアーサー王より先に死んでいるガウェインがまだ生きているのも変だし、愛馬の名前も伝説ではグリンゴレットなので全然違うし、老齢のせいかちょいちょい言動が言い訳がましくなる本作のガウェインは、剣の腕は確かながら、どこか滑稽なドン・キホーテのようでもある。まあこのへんは、深読みしても答えの出る案件ではないのかもしれない。
あと内容とは関係ないところで単純に知りたいと思ったのは「鬼」という言葉の原語。日本人だからどうしても「鬼」って書いてあると、いわゆる日本昔話的な、桃太郎に退治される系のベタなやつを想像しちゃうのだけど、いくらカズオ・イシグロが日本人のDNAを持っているとしても、英語の小説のなかに「ONI」と書いたわけではないかと思うので、実際どうなのかな?って。デビルなら悪魔、モンスターなら怪物と訳されるだろうし、鬼にあたる言葉ってなんだろう?ゴブリン?でもゴブリンを鬼って訳すのはなんかちょっと違う気もする・・・。