ハンチバック

著者 :
  • 文藝春秋
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  • / ISBN・EAN: 9784163917122

感想・レビュー・書評

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  • 身体障害者である井沢釈華の、人並みでありたいという欲望の歪んだ発露の物語

    有名作なので物語の詳細は省いても構わないでしょう

    序盤で繰り返される「涅槃」という表現
    座りっぱなしな自分を揶揄していたり、俗世間とは切り離された生活をしているという意味なのだろうか
    もしくは、お隣さんのように自分の欲望のまま穏やかな日常を繰り返している様を嘲っているのか
    ただまぁ、決して良い意味では使っていない気がする


    釈華のルサンチマンがふんだんに語られている
    「弱者とは?」が問われている

    釈華の社会的な位置づけが難しい
    身体的には弱者だけれども、資産的には一生困ることなく暮らせる
    教育に関しても通信で大学に通って研究もしているが、その研究にも身体的な不利が高いハードルとなっている
    仕事も風俗のコタツ記事を書いていて、文章作成の能力は一般の人と遜色ない
    しかもそれで稼いだお金は寄付するという社会的な貢献も行っている
    そんな、アンバランスな社会的な立場だからこそ成り立つ物語ですね

    金銭面では社会に迷惑をかけることなく、むしろ平均的な年収の人よりもよほど貢献している
    だけど、自らの身体的な不利があり、社会的には弱者とされる

    出産は無理でも、妊娠は恐らくでき、だとしたら堕胎まではできるだろうという歪んだ望み

    でも、この望みがどこまで本気なのか判断がつかない
    釈華は田中さんの頬をお金で叩くようにして行為に及ぶけど
    実際に妊娠、堕胎したら自分が生きていく意味を失ってしまうんじゃなかろうか
    なので、妊娠を望みながらもそれを拒んでいるようにも思える


    ラストのところは議論が分かれるところでしょうね

    最初読んだときには、共に起こった事と思ったけど
    改めて考えると、最期の部分は釈華の創作した作中作の可能性もある
    風俗嬢という設定にしても、風俗ライターとして培ってきた能力があるので容易に書ける

    とは思うものの
    最後に一文を読むに、兄が殺した相手の事を知った上での文にも思える
    となると、本編だと思っていた方が単なる想像の創作の可能性もある

    ま、メタ的には実際はその両方とも市川沙央という作家の創作物ではあるんだけど



    あと、この作品は自分の中の嫌なところを自覚させられた

    自らの人間的価値を証明するために堕胎を目的とした妊娠を試みる事の是非
    最初に読んだ時は、まぁそのくらいはしてもいいんじゃないかとか
    金銭面で社会的に貢献しているしなどど思った

    でも、最近読んだ「わがままな選択」(横山 拓也)では、子供を望んでいないにもかかわらず避妊せずに行為を繰り返した挙げ句に、妊娠の可能性がわかっただけで堕胎することが当然という態度の登場人物に激しい嫌悪感を抱いた

    共に、自らの望みのために堕胎という選択肢を選ぼうとしているだけなのに、片方は許容して、もう一方には嫌悪感を抱くのは何故か考えた

    その結果、障害者なのだからそんなわがままくらいは許されてもいいという、障害者への逆差別のような意識があった事に気付かされた
    その他にも社会的な貢献はプラスだし、遺伝子を社会に残さないしというもの凄く下衆な考えもあって
    そんな自分の黒い部分に気付かされて嫌になった


    読書強者への恨み辛みにしても
    私は基本的に紙の本を読んでいるけど、作中で指摘されているような、紙を捲るだのそんな理由ではない
    でも、電子書籍を購入していないという時点で同罪なのでしょうねぇ

    色々な意味で、ここまで殴ってくる作品は村田沙耶香以来
    私の中で、作品の評価は高いけど好きではないという区分になるかな
    芥川賞作品はこういったものが中にはあるので読んでみようという気になるんですよね

    • のんこさん
      私は、作者の強いエネルギーを文章から感じました。

      私自身ははエネルギーが枯渇して、鬱になりがちなので、こんなエネルギーを文章にできることを...
      私は、作者の強いエネルギーを文章から感じました。

      私自身ははエネルギーが枯渇して、鬱になりがちなので、こんなエネルギーを文章にできることを羨ましいと感じました。

      堕胎したいという、欲望。
      その表現にはびっくりしましたが、欲望には色々あると思いました。
      2023/09/04
  • 健常者が書いていたらここまで話題になったのか?
    怒りがこもっているから?作者が重度障碍者で、筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症 だからか?

    健常者が評価する世界に、マイノリティとして、怒りを発することは大切で必要なのだが、評価側はそれに対して正当に同じ扱いをしているのだろうか?
    その違いに結局は怒りがなくならないのでは?と思ってしまう。

    制度の遅れや無知、知ることの大切さは常々感じている。読むことで彼女を少しでも楽にできるならまた読みたい。

    異性入浴介助や読書のバリアフリーは考えさせられる

  • 「健常者」の一人として、どんな感想を書いても薄っぺらくありきたりになってしまいそう。(文章力がないので…)

    強烈だった。

    ラストをどう読むのか。考察を色々見てみたけどどれも自分にはしっくり来なくて、未だにグルグル考え中…
    どこからが妄想でどれが現実なのか。はたまた全部が妄想なのか、もしくは文字通りの書かれているままなのか。どう取るかで感じ方がまた変わってくる。

    うーん。自分には読解力が足りなかった。

  • 買ってしまった、、

    自分の価値観が壊れそうな
    憎しみがつまった衝撃作

    共感することはできなくて
    受け入れきるのに時間がかかる
    呑気に過ごしてる私たちに刺さる言葉が
    消化しきれない

    これは賛否分かれるよね、、

  • 筆者の市川さんが障がい者と健常者が共に生きていく暮らしの中での問題提起を世に打ち出したこの作品は メッセージ性が強く 素晴らしい作品だった

    この本が芥川賞を受賞したことで より多くの読者層に読まれ 読者が市川氏さんの心の声及び障がい者の声を受け止め 何らかの変化やアクションを起こすであろうことも含め響の強い作品である

    タイトルのハンチバックだが 本文に「せむし」という表記があった際 カナのルビでハンチバックと記されており そういう意味だったのかと初めて知る

    では 表紙のあの絵は骨の部分を表しているのだろうか


    この作品で1番心を打ったのはミオチュプラー・ミオパチーの主人公「釈華(しゃか)」の「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です』という一文
    あまりに重くて でもそう言わしめる世の中なのだと思うと息が苦しくなるようで 胸が押しつぶされそうな気持ちでいっぱいになった

    私にはその苦しさが実際どのくらいなのかは分からないけれど そう思う状況に生きている釈華の気持ちを想像することはできる
    だから そこは涙が落ちた

    『硬いプラスチックの矯正コルセットに胴体を閉じ込めて重力に抵抗している身体の中で、湾曲した背骨とコルセットの間に挟まれた心臓と肺は常に窮屈な思いをパルスオキスメーターの数値に吐露した。息苦しい世の中になった、といヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。こいつらは30年前のパルスオキスメーターがどんな形状だったかも知らない癖に。』
    (本文より)

      
    好きな比喩があった
    『語尾がいつもウフッとした笑いで終わる須崎さんは空気の調べを明るい長調(メジャー)にするムードメイクのベテランだ。』
    (本文より)
    時に 音楽用語や作曲家 曲名が上がり 著者の市川さんは音楽が好きなのかもしれないなと思った


    『胎児殺しを欲望することは、56歳脊損男性の明るい下ネタとは次元が違う。
    せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。』
    (本文より)

    この思いを知っている必要がある
    これは著者の心の叫びだと思う

    『厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。
    私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買い物に行けること、ー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。』
    (本文より)


    非常にメッセージ性が強い
    私は受け取ったよと伝えたい
    傲慢であったこともこの文章を読んで省みる
    障がい者理解の中に 読書はどうだと考えたことがなかった(点字や音声 大活字本があるという認識のみ)
    自分が読書する時 何かいい案が閃かないか 障がい者の読書について考える時間を作ろうと思う
    ここに「マチズモ」(男性優位主義)いう言葉が出てきたが 市川さんはこの作品で多くのカナ文字や略語を取り入れている
    それらが 今よく使われている言葉であるために 作品の「今 考えてほしい」というメッセージ性の「今」を際立たせているように思う

    しかしながら時は移る
    青地に白い鳩のTwitterは今や✖️に表記が変わっている
    障がい者への社会的理解の移り変わりの記述もあった
    が それはTwitterのマークの変更に及ばないぐらいの
    小さな理解度のアップでしかない


    『あの子たちがそれほど良い人生に到達できたとは思わないけど、背骨の曲がらない正しい設計図に則った人生を送っているに違いない。ミスプリントされた設計図しか参照できない私はどうやったらあの子たちみたいになれる?あの子たちのレベルでいい。子どもができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、できて、産んで、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。
     私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。』
    (本文より)

    「産むことはできずとも、」の部分が釈華を苦しめているのだ
    でもそれを享受して生きていかねばならないところが私と釈華の違うところなのだ
    この釈華の思いを どう受け止めてどう理解すればいいのだろう
    難しいけど 考えるよ ちゃんと


    『苛立ちや蔑みというものは、遥か遠く離れたものには向かないものだ。
     私が紙の本に感じる憎しみもそうだ。運動能力のない私の身体がいくら疎外されていても公園の鉄棒やジャングルジムに憎しみは感じない。』
    (本文より)

    『生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる。生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間の差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。』
    (本文より)


    『壁の向こうの隣人が乾いた音で手を叩く。私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて呼んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ。」と。だがそれは間違っている。隣人女性のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。』
    (本文より)


      「人間の尊厳」これは著者が読者に今一度考えてほしいと願う この作品の1番の問題提起であると思う
    釈華の言葉や思いを通して訴えられたこのメッセージを
    しっかり受け止めたい

    作品は 性描写で始まり性描写で終わる
     冒頭の性的表現(釈華はBuddhaというアカウント名でのコタツ記事を書く仕事をした…収入は全て寄付)とラストの性描写(釈華は紗花というTwitterのアカウントで思いを表出する…)が釈華の望む『普通の人間の女のように子どもを宿して中絶する』に繋がるだけに 必要不可欠な描写である
    性行為は妊娠出産 ひいては中絶に繋がる可能性を孕む
    ことを改めて示唆したストーリーだ
    しかしそこには可能性がない部分 もしくは全てに可能性を見いだせない障がい者もいるのだという現実を投げかけている

      深く考えずにいられない作品だった
    近年の芥川賞受賞作品では 私はベストだった

    ルビがなく読めなかったので調べたら『涅槃』は「ねはん」と読むのだそうだ
    第八版三省堂国語辞典によると『涅槃』とは「煩悩のない、さとりの境地。ニルバーナ。」と記されている
    つまりは死を表す
    サンスクリット語ではニルバーナというらしい

    涅槃会(ねはんえ)というお釈迦さまが亡くなった日に行う法会もあるらしい
    「ああ、神様 仏様!」…とすがることも多い人生なのに 大事な儀式すら知らずに反省

    読めない熟語 分からない略語は流しがちだが 調べることに意義があると再認識する
    障がい者への理解も同じなのだ
    分からないからこそ分かろうと思いを寄せることが「人間の尊厳」を築く一歩になるに違いない
    そして なんらかのアクションを起こすのだ


    追記: ハンチバック  ミオチュブラー・ミオパチー
       マチズモ   インセル   ルサンチマン
       涅槃   ゴグ

  • ここまで複雑な読後感を抱いた小説は初めて。共感とか同情とか、そんな甘い感情ではなく、自己嫌悪のようなものと言えなくもないが、それも当てはまらない芥川賞受賞作。

    著者の市川沙央さんは「ミオチュブラー・ミオパチィ」という難病を抱えられています。これは先天性で乳幼児期から筋力低下が見られ、その後も持続する筋疾患。本書の主人公は同じ先天性ミオパチーの女性。新聞によれば市川さんは「(障害の)当事者の作家がいなかったことを問題視してこの小説を書いた」。訴えたかったのは「障害者の場合、文化環境も教育環境も遅れている」ということ。「障害の当事者作家」と呼ばれることも厭わないと語っています。

    自身の経験を30%投影しているという主人公井沢釈華は遺伝性の難病で背骨が右肺を押しつぶすかたちで湾曲しています。人工呼吸器や痰の吸引器が不可欠。重い本を押さえて読書をすれば背骨に大きな負担が掛かり、跛行が激しく、歩けば頭をぶつけます。単行本の帯にあるように「私の身体は生きるために壊れてきた」。
    資産家の両親が遺したグループホームで暮らす釈華の日常はとにかく書くこと。官能小説風のコタツ記事やエロ小説でバイト代を稼ぎ、「生まれ変わったら娼婦になりたい」などとTwitterの零細アカウントで呟きます。そして、34歳男性ヘルパーの田中さんにその零細アカウントが発見されてから、物語は大きく展開します。

    本書を読み始めてすぐに感じたのは経験したことのないような読者体験。そして、感情に突き刺さる釈華の発言

    -私には相続人がないため、死後は全て国庫行きになる。(中略)生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと溜飲を下げてくれるのではないか?

    -せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。

    -私は紙の本を憎んでいた。(中略)特権性に気付かない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

    -軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の場を用意しているじゃないですか。

    -死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる。生き抜いた時間の証として破壊されていく。

    -もちろんそのくらいの読解は、私でもできた。

    なお、本書は非常に面白い小説です。冒頭のハプニングバーから釈華の不自由な生活の描写から引き込まれました。暗いとも言える展開の小説ですが、訳の分からない爽快感すらあります。本書は文藝春秋誌で一気読みでした。本当に感想を書きにくい小説。それでも、絶対に読んで欲しい小説。他の方と語り合いたい小説です。

  •  アダルト記事のコタツライターをやっている、ヒロイン釈華は重度障害者。自由に呼吸することもままならず、日常生活に介助を必要とする彼女の抱く願いとは?

     こういうあらすじでよいのか悩みましたが、作者が難病の重度障害者であることは一旦忘れて読んだので、こんな感じでお許しを。

     さて、読んでみて思ったのは、ヒロイン視点で描かれる日常生活はほぼ毒舌なので、どこかコミカルに感じてしまい、正直、読んでいて面白かったです。

     ただ、毒舌な分、病気のこと、できないことに関するボヤき?みたいな部分はより悲痛に感じました。

     そして、ラストの沙花パートは、約80ページに及ぶ釈華に起きたことをもとにした、願望?ともいえる1つの物語に仕上げたものなのかな?と思いました。

     さて、本作、芥川賞の会見で作者が言っていた、読書バリアフリーと「重度障害者が初めて芥川賞を受賞したのが2023年、その意味を考えてほしい」?みたいなことをおっしゃってましたし、私も、この作品に興味を持ったのはその会見をテレビで見た時ですから、感想もこの点に集約させたいなと思ってます。

     まず、読書バリアフリーですが、実は本作品の中の話としては本当にごく一部の部分に過ぎず、これだけを作者が訴えたかったとは思いません。

     ただ、読んでみて、普通に紙の本で読書をするということが当たり前にできて、本なら障害者の人でも目が見えない以外の障害なら容易に読めると思っていた私には、確かに、今の環境で何の問題があるの?と思っていました。

     しかし、本を読むためには、本を選ぶという作業が必要で、それを気軽にできない人がいる、本を読む際のページをめくること、本を持つことが容易にできない人がいる。

     いくら電子書籍が普及したとはいえ、スポーツするよりも本を読む作業の方が遥かに難しい人がいるということを知ることができます。

     そして、本を書くというためにはいろいろなことを調べて書かないといけないのですが、その調べる際の本というのが、学術書で電子書籍でなかったり、図書館にいかないと見つからない古い本であったりで、本格的に書くという意味では、大きな障害になっていた。

     これが、2023年まで重度障害者が芥川賞を受賞できなかったという意味の1つだと思います。

     しかし、読書バリアフリーというのは、先述したように、本作品を構成する一部でしかないので、これだけが、芥川賞の受賞理由になることはないと思います。

     芥川賞を受賞する際の審査では、この作品に共感できないといけないはずですから、読書バリアフリー以外の共感ポイントはあるはずだろうと思いました。

     ただ、作者は「この作品が芥川賞を受賞できるとは思っていなかった」と言ってましたから、これは作者でも想定してなかったところがあるのではないかと思い、私なりにそれは何なのか考えてみました。

     それは、実は重度障害者であるヒロインの感じている理不尽さと私達が感じている理不尽さに実は違いなどないというところなのではないか?ということです。

     こんなこと、重度障害で日々の生活に苦労されている方には失礼なのかもしれませんが、実は5体満足に暮らしている私達も同じような生きづらさを抱えています。

     例えば、5体満足で問題もないのに、結婚したい、子供のいる家庭がほしいと思っても結婚もせず子供も作れない人がいる、仕事をしてお金を稼いでご飯を食べたい、でも、鬱で仕事ができなかったり、仕事をしてても満足に食事をとれない人もいる。

     例えは極端かもしれませんが、5体満足なのに重度障害者でもないのに、日常生活は両者は変わらないのではないか、むしろ介護されて生きれるだけ重度障害者の生活の方が良いのではないかとすら羨望してしまう人もいるのでないか?

     ライフスタイルだけじゃなく、日々生きづらいなと悩んだり、内から聞こえないあるいは届かない叫び声をあげているのは実は私達も同じだといういことで、これはヒロイン釈華とそんなに変わらない。

     ここがただの障害者がヒロインというのとは違うところで、実は読んでいて釈華を通じて自分をみている、いや自分見ることができるからこそ共感できる部分が多いのだと思いました。

     そして、作者が提示した「重度障害者が芥川賞を受賞した理由」は私は、健常者である私達の感じる生きづらさが重度障害者の感じている生きづらさと変わらなくなってきているからだと思いました。つまり、悪い意味で心のバリアフリーになってきているということなのかな?と。

     そんなことを、感じました。

     きっと私も怪物です。

  • 圧倒された。
    自身を「せむしの怪物」と表現し、だいぶ自虐ネタも多い。
    紙の本へこだわる本好きへの怒りの文があるかと思えば、開き直ったような卑猥な風俗ものコタツ記事を書いたり。
    わからない言葉、ネットスラングのような言葉もたくさん出てくるのだけど、何故か読みやすいし、ユーモアがあって時に笑える。
    ページ数も少ないしすぐ読み終わっちゃうけど、読後にあれこれ考えさせられ思考がぐるぐるしてしまう、不思議で素晴らしい作品。

    ラストは、紗花は田中さんの妹で、釈華は殺されちゃったのか…と一瞬思ったけど、3回読んでだんだん違う気がしてきた。紗花は釈華が書いてるフィクションなのかな…。このラストはいろんな捉え方ができて面白い。

  • 語彙力がそんなに高くないので、この想いを上手く表現できないけれど、とにかくこれまで読んだ芥川賞作品とは全然違う!何年経っても絶対に内容を忘れないだろうなと思う衝撃的な作品でした。

  • 途中途中で顔をしかめて目をつぶってふーーーっと心の落ち着かなさに向き合いながら読み進めた

    読んで良かった

    ただ辛い。何かが辛い。重度障害者の自虐的な言い様?
    “私”が“せむしの怪物”というたびに出ない涙を堪えるような表情になってしまう。



    話題になった「読書文化のマチズモ」
    「出版界はマチズモ(健常者優位主義)ですよ」

    紙の本に対して、出版界について、ものすごく毒づいている調子だがそういうことではない。身体が健康じゃない障害がある等思い通りにいかないと精神病みますよ。ただそれを自虐的に吐き出している。毒づいている調子なのに攻撃性を感じない。いや書いてて思ったけどそれって健常者の驕りか…??


    “高齢処女重度障害者”ががエロを書くことで、なんかリアリティのないというか現実的じゃなさ、ペラペラのエロ小説感(ただそういうものに需要がある)は、どんな健常者がさまざまな障害者のリアルを描いても人間の本質的なところ(生の問題、性の問題、マジョリティの問題、、、)が伝わらないということになるんじゃないだろうか。



    ラスト近くの
    「―使わないうちに壊れていた。」
    にはゾッとしました。

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