新装版 最後の将軍 徳川慶喜 (文春文庫) (文春文庫 し 1-65)

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  • / ISBN・EAN: 9784167105655

感想・レビュー・書評

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  • 歴代将軍の中で最も、有能で、多才で、雄弁で、先の見えた人物だと言われる慶喜。
    あとがきにもあったように、彼は幕政三百年の幕を引くために、特異な才幹と感情を与えられたような気がしてくる。
    出来事と思想を擦り合わせながら読んでいったので、時間がかかってしまったが、なんとも切ない気持ちになった。

    そして、司馬遼太郎さんの小説を読むと、必ずと言って良いほど、その人物に惹かれてしまう。
    私の心をくすぐる。

  • 15/5/30読了

  • 司馬さんは、やっぱりうまい!この一言。
    後書きにもあるように、政治家を描くのは難しいと思う。それでも、退屈させず、最後まで読み切れる。

    慶喜は、とにかくつかみきれない人。
    それが読後の感想。今で言う、不思議ちゃんな感じ。
    小学校で習った時は、かわいそうな人というイメージだったけど、その後、ひょうひょうと自由に生きたところを知ると、イメージが変わった。

    そして以外に、この本を読むと、幕末事情が分かりやすい。司馬さんの土方が主役の「燃えよ剣」を読んだけど、こっちを先に読んでから読んだ方が、時代背景がよく分かった気がする。

  • 水戸斉昭の女好き
    大奥でも嫌われた
    161、長州には理解、薩摩は嫌い

    器用貧乏、という言葉を連想する
    大阪城からの脱出(天満八軒浜から船に乗る)
    ひたすら恭順の意

    器でないものが将軍に祭り上げられる
    それが日本にとって不幸だったのか幸いだったのか
    大正2年まで生きる

  • 頭が良いが、それ故に何もできなかった、大政奉還というとんでもないことを成し遂げた最後の将軍の物語。短いけどおもろかった。


     有名すぎて憶測での認知度が高い最後の将軍を、司馬遼太郎先生の見方で学ぶ。

    ______
    p12 寝相
     慶喜は寝相が悪かった。しかし、父の斉昭は「武士は寝相が良いものぞ」と慶喜の寝間に入ってきてはそれを確認した。寝相が悪くては武士の上に立つ者にはなれない、枕の両側にカミソリを立てて矯正しろと命じて、本当にそうしたという逸話。
     すごくすごい。

    p22 血の薄さ
     徳川御三卿とは、八代将軍吉宗が徳川の血を絶やさぬために自分の次男四男と家重の次男を新たな大名家としてつくったものである。(田安家、一橋家、清水家)
     将軍の後嗣は御三家から特に尾張と紀州から出されてきた。そのため、尾張と紀州では跡継ぎ争いがたびたび発生して、御三家の関係が疎遠になっていた。その御三家からも徳川宗家を継ぐ者が出なかった時の混乱を考えて、自分の子供たちに新たな役割を与えたのが始まり。
     とはいえ、御三卿の血は宗家よりも薄い者と考えられ、あくまで控え選手だった。その御三卿の一橋家から新たな将軍として慶喜を迎えるというのは、いろいろ反感も多かった。

    p39 うつけ者 家定
     瞳が定まらず、七輪で大豆を煎っているのが何よりの楽しみという変人だった。

    p46 松平春嶽
     「いかなる犠牲を払っても、一橋卿を将軍世子に押し立てねばならぬ。それ以外に救国の道が無く、それが実現せねば日本ついえるしかない」といったのが松平慶永(春嶽)であった。春嶽と名乗り始めたのは安政の大獄で隠居を命じられてから。
     春嶽は田安家から越前福井藩に養子として大名になった。彼は、ペリー来航前にすでに藩の洋式化に着手し、藩財政を米穀経済から産業中心主義に切り替えていた。種痘法も早くから取り入れ、藩民の天然痘による死亡を激減させた。
     そういう賢人開明家。それでいて攘夷主義者だった。

    p50 島津斉彬
     斉彬は幕末の四賢候の中でも最もキレていた開明家である。斉彬は大奥の水戸嫌いをなんとかしようと、天璋院篤姫を家定の正室にねじ込んだ。うつけ者と言われた家定に嫁ぎ、しかも彼を操って大奥の改革をしなければならないという難役を篤姫に任せるほどのすごい人。
     しかも、関ヶ原以来犬猿の仲であった徳川と薩摩、この二つが接近するという革命を演出した、すごい人。
     それほどの改革をしてまで世界で立ち遅れた日本を何とかしようとした開明家なのである。

    p61 阿倍正弘の死
     阿倍正弘は39歳の時に、家定より一足早く早逝した。彼は幕府内で数少ない慶喜擁立派だった。彼が走り回って一橋派は何とか勢力もあったが、死んでしまって慶喜が14代将軍につくという希望は消えた。彼はペリー来航時の老中だったし、色々とキーマンだったのである。

    p64 井伊直弼
     井伊直弼は世間にほとんど知られないような日陰の人間だった。直弼は先代の十四男で、三十台まで部屋から出ないような生活をしていた。彼の幸運は人の死によって舞い込んだ。長兄の子息が急死したため養子として跡継ぎになり、その後すぐに長兄が夭折したため思いがけず藩主になれた。そして江戸進出の際には紀州派として反一橋を掲げて江戸の信任を得て急に出世できた。
     彼は根っからの水戸嫌いで「将軍に名君は必要ない。象徴として将軍があり、それを支える家老が有能であればいいのだ。だから名君になりうる慶喜を、という論理は論外だ。」という論調だった。

    p87 法を守るべき
     慶喜は安政の大獄で蟄居を命じられた。しかし、井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのち、大獄で封じられていた者たちに大赦が与えられるようになった。
     しかし、慶喜は蟄居の身で「もうすぐ大赦によって解放されますぞ…」と言われても、「大赦など合ってよいことでない。」と自分が自由の身になることよりも、法律を軽んじることを嫌悪する思考を持っていた。
     不自由の身とはいえ、慶喜は天性の好奇心で蟄居の最中も色々と自由研究をして楽しんでいたようである。
     書画に勤しんだり、馬の整理の研究や婦人の体を観察して蘭書の本の真偽を研究したり、自ら鉋や鋸を持ち出して屋根の修理など日曜大工にも取り組んだ。すごい。

    p96 開国論
     慶喜が家茂の将軍後見役に就いた時、日本は以前に結んだ安政条約について悩んでいた。安政条約は不平等条約であり、日本としてはなかったものにしたい。しかし、国際法上条約を一方的に破棄すれば日本は列強の攻め込む口実を作ることになり、アヘン戦争と同じ末路を取ることになる。しかし、外国の言いなりになれば朝廷(孝明天皇)の意向に背くことになり、攘夷過激派の攻勢を免れない。
     慶喜は開明家ではあるが、攘夷家ではなかった。それゆえ国際法を無視すことは論外という意見だった。
     松平春嶽はこの問題に対してまずは内政重視だった。そのため条約破棄の姿勢を見せることで国内統一を図ることが先決と考えていたが、慶喜にこの考えが無いことに驚き、失望した。

    p116 攘夷弾圧
     攘夷論者はなんとか将軍に攘夷論を公式のものと認めてほしくて、様々な活動をした。時に血を見る危険な行為も。それに対し、慶喜は京都守護職にあった松平容保をよび、京都にうろつく攘夷浪士をことごとく取り締まるように勧めた。その手段は問わずに、切り捨て御免で攘夷を弾圧する「新撰組」の構想が始まったのはココからである。
     始め容保はこのすすめを拒否したが、結局そのようになってしまった。結果、穏健なはずだった容保(いや彼が代表する会津藩までも)はもらう必要のない恨みまで受けるような運命に突き進むことになる。

    p125 5月10日 攘夷決行
     朝廷は攘夷戦争を決めた。世間を知らない朝廷の人間は世間の攘夷の波に飲まれた。そして、将軍後見の慶喜に攘夷戦争決定の告示の日付を発表するように迫った。慶喜は「五月十日に…」と返答した。四月十九日のことであった。
     この発表をするために慶喜は江戸への帰路に発った。しかし、帰着までに16~7日というありえない時間をかけた。このままでは攘夷戦争を始めると言っても何の準備もできない。そういう魂胆である。江戸に帰着した慶喜は、主要な幕吏を集め「攘夷実行の勅諚をうけた」とだけ発表し会見を終えた。そしてそのすぐ後、将軍後見を辞職する旨を発表した。
     これは慶喜の政略である。攘夷戦争の準備もできず、また上役から攘夷の行動方針も具体的作戦も聞けずにその上役がやめてしまうという、何もできない環境を無理やり創り出したのである。
     これほどの立ち回りを演じぬいた慶喜は凄くすごいのである。

    p131 帝ェ…
     この幕末時の朝廷の諸外国事情と言えば、江戸の浮世絵の鬼の形相のペリーぐらいでしかない。このような鬼を皇土に近づけるわけにはいかない、武臣に命じてこれを打ち払わせるべきである。というような考えしか持てないのが、この当時の骨抜きになった朝廷の現実である。
     賢い敵は恐くない、一番恐ろしいのは愚かな味方である。そういう諺があったが、天皇は無駄に勇猛で困っただろうなぁ。

    p150 二心殿
     慶喜のあだ名。慶喜は将軍後見の役に就きながらもいずれ自ら将軍の地位に就くことを肚に隠しているという噂があり、そんなあだ名で言われていた。
     それ以外にも、豚肉食を好んだため「豚一」と呼ぶ者もいた。

    p176 慶喜いやよ
     慶喜は家茂の後に将軍職を引き継ぐことを固辞した。自分に悪感情を持つものが多い政界をまとめていくことはとてもじゃないができないという理由。それともう一つ肚積もりがあった。この拒否の行使が政治的磁性を帯びることも知っていたからである。
     家茂の跡継ぎは、家茂の遺言で田安亀之助にするよう言われていた、しかし家茂が死んだとき亀之助は三歳になったばかりであった。こうなれば慶喜に将軍になってもらうしかなかったのである。
     しかし、それを簡単に引き受けては慶喜は将軍になってから足元を見られ、ほんのお飾りの将軍にしかなれないとわかっていた。あくまで「お願いされた。将軍になってもらうからには今後の日本の全権を委任したい。」という契約を引き出すため、将軍後嗣を拒み続けたのである。策士!!

    p194 徳川体制の限界
     慶喜が大政奉還した論理。将軍職というのは将軍の武力に基づくものである。強い武力を持つ者が諸侯の擁立をうけて将軍職に座る。まさに家康がそうだった。しかし、この頃の将軍はもはやそうではない。織田信長が足利義昭を追放したのもそういう原理である。今回も同じように、諸侯で誰を将軍位すえるべきかを選挙する、それが最も道理に合っている。という論理。
     当時の武士の世の中で、まして徳川家に近い者から運れた論理とは思えない公平な論理である。もはや時代に徳川体制が限界を迎え、もういっそとってかわった方が良いと言っているのである。

    p203 新式部隊
     慶喜は部隊編成にも口出しするほど開明的だった。武双は近代化し、大名が戦に参加する際には風呂桶のような荷物をもって大名行列をして戦場に臨むという非合理的な慣習をバッサリと止めさせた。将軍の服装も簡素で、食事も野戦食、持ち物も背嚢(ランドセル)三つ分でいい。将軍の権威がいかに地に落ちたかがわかる。

    p208 勝てぬ戦はしない
     慶喜は他人を驚かせるほどサバサバした人物だった。長州征伐を決行しようとしたが、高杉晋作の奇兵隊が幕府軍に勝ち目が薄くなった。それを知った慶喜は「長州征伐を中止する」と即断した。勝てぬ無駄な戦はしないという合理主義者だったのだ。
     初代徳川家康に比肩するほどの器の男と思われた慶喜だったが、あまりに合理的過ぎて、家康のような「勝てぬ戦を勝てるように何とかする胆力と強運」は持ち合わせていなかったのである。
     カリスマには無理を可能にする何かが備わっている。しかし、頭が良すぎる人物はその頭脳のせいで諦めが早いきらいがあるが、まさに慶喜はそうだった。
     こういう胆力の無さって、現代社会に蔓延ってきそう。

    p211 孝明帝の死
     慶喜と徳川家にとって不幸だったのは、佐幕派の最急進だった孝明天皇が急死したことだった。慶喜は朝廷と攘夷論を巡って争い、尊王主義が強まるこの時代に、佐幕派だった孝明天皇のおかげで幕府を維持できた。
     それが、終わった。この死は、大きな契機だからこそ、いろいろな陰謀論がささやかれるのもしょうがない。

    p219 時勢
     慶喜は島津久光に肩透かしをくらい曰く「百策を講じ百論を論じても、時勢という魔物には勝てぬ」とな。
     慶喜が久光に対して完璧な論理を展開しても、久光は口数少なく「それは否」と言うだけで議論は一向に進まなくなる。正当性のない答えでも久光がその姿勢を貫けたのは、時勢というものがあったからと考える以外にない。

    p224 後藤象二郎
     彼が持ち出した「時勢を救済し、徳川家をも起死回生せしめ、しかも薩長をなだめる奇蹟的な妙」案、それが大政奉還だった。

    p234 辞官納地
     薩摩はあくまで武力革命を求めた。西郷は流血によって毒抜きをしてからでないと新たな時代は作れないと考えたんだろうな。
     大政奉還という肩透かしを食らい、薩摩藩の振り上げた斧は下ろすところを失い、まいった。何としても武装蹶起を実現しようと薩摩は幕府に向けて様々な嫌がらせを仕掛ける。幕府の根拠地に浪人工作員を暴れさせたり、最大の物が「辞官納地」である。徳川家が一般人に成り下がり、直轄地も没収という、強奪を公式に行おうという嫌がらせである。

    p237 家康との違い
     大久保利通曰く、慶喜の弱点は、「朝命を恐れること。慶喜は歴史主義者だったためにその眼は常に巨視的偏向があり、歴医の将来を意識しすぎていまに何もできないということがあった。あまりに書生過ぎたのである。」だったらしい。慶喜は家康の頃と違って、読書人にあふれた時代に生まれた。それゆえに文字(つまり知識や正論)に影響されすぎてしまったのである。戦国時代はそんなの関係なく、自分の腕っぷし一本でのし上がれる時代だった。その差が、家康を権現にし、慶喜を庶民に失墜させることになった。

    ______

     頭が良ければいいってもんじゃない。それが良く良くわかる物語だった。
     確かに、知識があればあるほどメリット/デメリット両方が見えて、決断力は鈍る。そういう人間だった慶喜にはすこし共感を覚える。


     慶喜がただの嫌な奴で無く、頭いいけれどうまくいかない人間という、ちゃんと慶喜がかっこいいと思える書き方をしているところが良い。
     やっぱ司馬先生は登場人物へのリスペクトがすごいな。

  • 器用貧乏

  • 学生時代に学んだ、徳川慶喜は大政奉還をした徳川家の15代将軍とのイメージしかなかった。

    最後の将軍として、慶喜のなすことはそれまでの将軍を卓越するもので、その去り方も見事。

  • 一番最初に彼に触れたのは、小学生時に通った塾で「大政奉還」を覚えたとき。長く続いた江戸幕府を終わりにしてしまったダメ将軍、っていう短絡的なイメージを抱くことになった。だんだん大人になって、“終わらせる”ことが以下に大変なのかってことも分かるようになって、彼があそこで決断しなければ、ひょっとしたら日本は世界の流れに乗り遅れていたかも、みたいなこともつかめるようになって、今、この本も読んだ時点での見方は、結構な偉人、って感じ。ただ、文庫1冊にまとまっている以上、ある程度は仕方ないことだけど、そこまで感情移入は出来ないですね。ほとんど三人称で語られている、ってのも大きな理由だとは思うけど。まあ、竜馬の話を読んだ後だったんで、違う目線で同じ時代を追うことが出来て、良い読書体験にはなりました。

  • 徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜の一生について、ストーリー調に記されている。水戸藩当主であった父の寵愛で幼少期から誇大広告をされてきたこと、一方でそれに見合う器用さと天下一の弁論を有していたこと。儒教の教えから尊王を核にしてきた水戸藩の思想を受け継ぎながら、歴史が語る朝敵になることの無意味さゆえ尊王であったこと。当初は国内が期待する攘夷の切り札だったのに、開国派であったこと。キレ者と言われつつも、どこか母由来の貴族的鈍感さがあったこと。家康以来の大物と言われながらも、薩摩、土佐の謀略には敵わなかったこと。大政奉還時にはついに味方までも裏切るようなことまでして評判を落としながら、明治以降には大政奉還の貢献者として勇気ある者として位置付けられたこと。読んでいて途中で混乱してきたが、こういった両面性を有する、少し人間味が強すぎる像が想像できて面白かった。

  • 江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の生涯を描いた小説。感動した。
    周囲に期待され、本人は希望しないのに将軍にさせられた慶喜には、家康の再来と言われるほどの才能とカリスマ性が備わっていた。その明晰さゆえに、大きな決断、つまり大政奉還を前に苦悩する。しかし、彼自信開国派でもあり、朝廷に政権を還すことは自然な流れだった。
    非常に弁が立つ人だったという。司馬の書く小説の主人公は例外なく格好いい。
    徳川幕府が近い将来終焉を迎えると分かりつつ将軍になる運命だったのは、彼にとって運が良かったのか悪かったのか。個人的には、彼には目標とすべき人物が周りにいなかったこと、ライバルとして切磋琢磨する存在がいなかったことは不幸だと思う(薩長や朝廷は反対勢力ではあったが)。
    読み終わったあと、うまく表現できない感動がこみ上げる。是非ご一読いただきたい。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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