愛するということ 新訳版

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314005586

感想・レビュー・書評

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  • 大学生時代に親友とBOOKOFFでお揃いで買った。
    お互いに読み進めて感想を言い合った。
    思い出の一冊。

    その友達とはもう絶縁状態。

  • フロムいわく
    人を愛するにはそのための技術が必要

    人は孤独感を克服するために愛する

    そのための方法としては
    ありとあらゆる祝祭的興奮状態。
    いわばお祭りのような儀式

    または集団、慣習、信仰への同調
    「私はローマ人である」
    しかしこれも精神にとって効果的だが肉体にはあまり効果がないので、孤立感からくる不安を癒すには不十分
    利点は長続きすること

    平等とはすなわち、自分こそが目的であって、けっして他人の手段ではないということ。

    生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。
    祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。
    集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感

    完全な答えは、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛である

    共棲的結合の生物学的な形は、妊娠している母親と胎児の関係に見られる

    共棲的融合の受動的な形は服従の関係
    マゾヒズム

    共棲的融合の能動的な形は支配
    サディズム

    対照的に成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。
    愛は、人間の中にある能動的な力である。

    愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。
    そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏み込む」もの

    愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること

    逆説論理学的には「人は矛盾においてしか知覚できず、最高の唯一の実存である神を思考によって知ることはできない」

    宗教の究極的な目的は、正しい信仰ではなく正しい行いである。

    客観的に考える能力、それが理性である。
    理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである

  • 何度も何度も読み返したい本

  • 自分や他人との向き合い方が変わるであろう一冊。例えば、「愛は技術」「精神的に自立していること、相手を尊重することが大切」「成熟した人間は、自分の内部に良心を築きあげている」など、響く言葉が見つかると思います。

  • フロムは以前から気になっていたものの、今回初めて読んだ。並行して「生きるということ」も読んでいる。

    最初の方で、母性愛を無批判に崇めるような記述や同性愛を否定する記述があり、その時点で先を読み進めようか迷って、一旦中断した。その時代での価値観、というものはあって、それらをカッコに入れないといけないという場面は多くある。「過去の価値観は確かにまあそうだったよね」という「時代への理解」を、立ち止まらずにしてしまうことができなくて、未だにどう向き合っていいのかわからない。
    ただ、その母性愛礼賛/同性愛否定の部分を読む前の時点で、フロムは東洋思想にも関心を深めたと知っていたので、西洋/東洋の区分やその違い、考え方に混乱し始めた今日、また本書を手に取ってみた。
    途中で放り出さずに最後まで読んでよかった。上記のような賛同しかねる部分はあるものの、西洋/東洋をどのように捉えられるかという考えの入り口にもなったし、「愛」こそが、単なる標語や理想論ではなく、他者との共生のために必要な、現実的な「技術」であるという言明に、ウクライナで戦争の続く最中に出会えて少し救われたような気持ち。

    この本の主題はたしかに「愛」ではあるが、私の昨今の個人的関心から、西洋思想・東洋思想を横断するような、それぞれを客観視するような視点の一つを知ることができたのが、一番の収穫かもしれない。最近は、言語学にも興味があり、言語と文化の関係性も気になっていた。自分の母語である日本語と、勉強中である英語くらいしか、比較した言説を聞いて納得できるものがないのが歯がゆいが、その中でも、「英語は論理的で、日本語は情緒的」というような話を聞くと、それは思考にも影響を与えていることなのだろうか、というのが疑問の一つとしてあった。

    フロムは、本書の中で「神への愛」にまつわる問題の一つとして、「東洋(中国とインド)と西洋の宗教的態度の基本的ちがい」について述べている。
    「アリストテレス以来、西洋世界はアリストテレス哲学の論理にしたがってきた。その論理とは、AはAであるという同一律と、矛盾律(AはAではない)と、排中律(Aでないと同時に非Aでもないということはありえない)にもとづく」「このアリストテレス倫理学の公理は、私たちの思考習慣にあまりに深く浸透しているので、『自然』で自明のように感じられ、『XはAであると同時に非Aでもある』と言われると、意味をなさないように思われる」
    「アリストテレス論理学の対極にあるのが、逆説論理学とでも呼びうるもの」「逆説論理学は、中国やインドの思想、ヘラクレイトスの哲学において主流を占め、さらに弁証法の名のもとに、ヘーゲル、そしてマルクスの哲学となった」
    さらに、「逆説的思考は、寛容と自己変革のための努力を生み、アリストテレス的な思考は、教義と科学を、すなわちカトリック教会と原子力の発見をもたらした。 」と続く。
    東洋思想においても「異端への迫害」はもちろんあったので、大分強引で荒い結びのように思うが、言語と思考の関係は、一直線に結び付けられるものではないというのはここからも導き出され、なんとなく腑に落ちるところもあった。
    その論理の「荒さ」というのは、フロムにとってこの一冊ですべてを語り尽くそうとしたわけではなく、概略を述べようとしたことから生じているものなのではとも感じるので、他の著作も読んでみたい。

    終章は「愛の習練」ということだが、その冒頭で、「目標への階段は自分の足で上っていかねばならない。決定的な一歩を踏み出すところで、習練の解説は終わる。」とあり、その内容は確かに、例えば今目の前の一対一の関係としての「愛」の悩みを抱える人の「処方箋」にはならないが、私にとってはなんて実際的で親切な言葉なんだろうと感じられた。それこそが、フロムが愛を抱ける人であることの証明でもあるだろう。

    「言語と文化」「西洋/東洋」についての私の自由研究は始まったばかりなので、まだまだ色々読んでみよう。サイードの『オリエンタリズム』も、そもそも「東洋」「オリエンタリズム」という言葉から抱いていた私のイメージと、サイードが述べるもの(中東・イスラム世界)とのギャップを前にして立ちすくんでしまったが、今日サイード自身の講演の様子をyoutubeで見たら、その生い立ちを踏まえれば納得できることもありそうと思えたので、また再度挑戦してみたい。

  • 愛するには技術が必要だ。ここでいう「技術」とは、生き方全般の態度とでもいったものだと思う。
    生きる姿勢そのものでもある。普段どのように物事に相対しているか、どのように人に関わっているかが常時問われている、といったそんな状況を自分自身に課すことである。
    人の話を聞くにも、聞いているふりをしているだけで、後ですかさずアドバイスと称した説教論を上から目線で垂れてやろうと待ち構えていないだろうか。
    物事をおざなりに、他の考えにとらわれながらやっていないだろうか。
    じっとしていること、自分に集中すること、まずはここから愛の技術習得の第一歩が始まる。

    愛するための前提として、何よりナルシシズムからの脱却がなされていなければならない。ところがこれが往々にして厄介だ。人は大なり小なり、ナルな視点で世界を見ざるを得ない生き物だからだ。これが高じればネトウヨみたいに、自国のミスは仕方がなかったと言い訳し、他国のミスにはすべていちゃもんをつける方向に流れる。わが子が一番かわいく、よその子はすべて凡庸で大したことがないと思いたがる。
    まあ、挙げればきりがない。

    愛するための必須要件、それは、配慮、責任、尊重そして知の4つである。
    愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
    そして責任とは、他人から何かを求められた時、それが暗黙にであれ大っぴらであれ、何であれ求められてきたときに、それに応答することである。
    この責任という態度をわきまえない政治家、官僚、財界人、社会的に重要なすべての人のなんと多いことよ。
    そして愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる。
    愛の第三の要素である尊重が欠けていると、責任は、容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊重とは、人のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊重とは、人がその人らしく成長発展を遂げていくように気遣うことである。したがって、尊重には、人を利用するという意味は全くない。愛する人が、自分のためにではなくその人自身のために、その人なりのやり方で成長していって欲しいと願う、それこそが愛の態度だ。誰かを愛するとき、自分はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を自分の自由になるようなものにするわけではない。
    そして、自分が自由であって初めて人を尊重できる。
    さらに、人を尊重するには、その人を知る必要がある。その人を知って初めて、配慮も責任も的を得たものとなる。

  • 2020年8月新訳 鈴木晶

  • 久しぶりに専門分野(教育学)関連の学術書を拝読。
    フロムの著作は「希望の革命」「自由からの逃走」など、有名なものが多く参考文献でよく拝見するが、一冊ちゃんと著作を読んだのは初めて。
    「愛」に関する記述について、大方はなるほど、と思う。ところどころ矛盾している部分もあるし、母性的な愛と父性的な愛の部分などは、「あくまで一般論」として読めないと厳しい部分もある。
    最近再燃してきているマルクス経済学と併せて読み、資本主義社会からの脱却(斉藤幸平でいうところの「脱成長」)のキー概念としての「愛」、なんていう切り口で論文を書いている人がたくさんいそう、と思った。

  • £3.00

    生きるということと合わせて購入される場合は£5.00

  • 4.12/5222
    『愛は技術であり、学ぶことができる――
    私たち現代人は、愛に渇えつつも、現実にはエネルギーの大半を、成功、威信、金、権力といった目標のために費やし、愛する技術を学ぼうとはしない。愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。

    人間砂漠といわれる現代にあり、〈愛〉こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の習得をすすめた本書は、フロムの代表作として、世界的ベストセラーの一つである。』(「紀伊國屋書店」サイトより)
    https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314005586


    目次
    第1章 愛は技術か
    第2章 愛の理論(愛、それは人間の実存の問題にたいする答え;親子の愛;愛の対象)
    第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊
    第4章 愛の習練』


    原書名:『The Art of Loving』
    著者:エーリッヒ・フロム (Erich Fromm)
    訳者:鈴木 晶
    出版社 ‏: ‎紀伊國屋書店
    単行本 ‏: ‎216ページ

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著者プロフィール

ドイツの社会心理学者、精神分析家。1900年、フランクフルト生まれ。ユダヤ教正教派の両親のもとに育ち、ハイデルベルク大学で社会学、心理学、哲学を学ぶ。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーブに移り、1934年にはアメリカへ移住。1941年に発表した代表作『自由からの逃走』は、いまや社会学の古典として長く読まれ続けている。その後も『愛するということ』(1956年)、『悪について』(1964年)などを次々と刊行する。1980年、80歳の誕生日を目前にスイス・ムラルトの自宅で死去。

「2022年 『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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