- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784314005586
感想・レビュー・書評
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想像していたよりも文章が難しかった。なかなかずっと自分の中に入ってこなかったので、また読み直してみようと思う。
でも、以前読んだ「暇と退屈の倫理学」に書かれていたのと似た表現があってとても不思議な感覚になった。
愛するというのは孤独から逃れ、一つになることを目指すこと、ということなのかな。
もう一度しっかりと読み直してみたいと思える本だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
愛がなければ誰だってまともに生きていけないというのは、もはや自明すぎることだと思うが、その愛についてこれだけ深い思索を重ねて論じている本書は、その試みにおいても、そしてそれを読む我々においても、重要な意味を持つ一冊だと思う。
宗教的な精神論のような色合いは特段濃いわけではないし、フロイトの主張のようなトンデモ感もなく、初版は1950年だが現代においても重要な示唆を与えていると思う。
孤独耐性がなさすぎて群れてばかりの奴らに本当の愛なんて見えてねぇんだよ、とかスレた思いを抱きつつも、でもそういう奴らのほうが自分なんかよりも幸せに生きてるな…などと感じている私のような人間には、本書はある意味救いであった。
本書の言葉を借りれば、愛するということは「自分の内に存在するものだけを現実として経験する」ナルシシズムの対極にあり、客観性の観点がなければ実践しえない。そしてその客観性は「理性に裏打ちされたもの」であり、「その基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである」。
本書で言われるところの「ナルシシズム」が蔓延っている現代には、「愛」が欠落している(あるいは表層的な愛しかない)のも道理であろうし、それはまた知性の欠落とも言い換えられよう。
一点、あえて批判的な感想を述べるとすれば、愛の理論的な枠組みにおいて、「父親的」「母親的」といったようなジェンダー的な論法が目立つところはどうしても気になった。一部で比喩的な言い回しとして用いられているニュアンスはなくはないが、「男と女」という明確な二元論に議論が立脚していることはほぼ明らかである。20世紀前半〜半ばの著書であるので時代背景的に無理もないのかもしれないが、性別を超えたところの愛(隣人愛や母性愛でもなく)というものを本書では十分に説明できていないのではないかと感じ、この点だけはフロムの理論の不完全な部分ではないだろうか。
とはいえ、愛について質の高い評論が展開されている本書を読み、そして自分なりに考察するのとしないのとでは、愛を必要不可欠としている私たちの生にとって、大きな違いがあるのではないかと思う。 -
愛は能動である。能力である。与えることである。
愛するということについて本一冊語れることがすごい。
愛するは自分と自分以外の人、物、行為をつなぐ感情なのだけど、世の中が便利になって、繋がりがなくても薄くても生きてはいけるようになって、「愛する」とか繋がりを保つ能力が衰えてると感じる。それに子供のころからの教育がその感性を育てないで、自立や競争がメインになってるのでもともと人間としてもっている力なのに発揮してこれなかったなあ、人生の後半に来てようやく気付く。 -
愛は技術であり、習得していくべきもの。
愛は与えることであり、もらうことではない。
与える他にも、配慮・責任・尊敬・知が必要。
自己中心主義を克服し、客観性を身につけることが必要。
本書を読んで、学生時代の”恋愛”が、今ひとつうまく行かなかったのがすんなり納得できた。
今振り返ると、だいぶ自己中心的だったなぁと苦笑。
生活すべての面で、つねにぼんやりしないこと。
それが、自分・他人ともに退屈させない、能動性のある人間になれるそう。
愛というジャンルにとどまらず、人間力を鍛えるという視点で、新年の抱負にしたい。 -
6、7年前に購入してから、愛することに立ち止まる毎に本書に手を伸ばすも難解さに断念し続けてきたところ、この度ようやく読了。
後半は比較的読み易く感じ自分自身の経験や人間関係が思い返された。
なにもせずにひとりでいられる、ことが必要とされていたが、「読書も何もせずに」ということでハードルが高く、確かにその場合には不安を感じる。ただ、訓練によって習得可能ということで、心掛け次第という点に希望を感じた。規律、瞑想を参考にしたい。
咀嚼しきれていないためもう一度読み返して落としこみ、人を愛することに取り組みたい。
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大半の話が難しかったけれど、ぐさりと刺さる部分もあり学んだこともたくさんあり。
何度も読み返したい -
どうして愛が必要なのか。僕だったら、愛を媒介として子孫をつくり後世へと生命を繋げていくためで、あくまで手段としてプログラムされたものなのかもしれない、と答えるでしょう、いきなり訊かれたならば。しかしながら、「でも……」とそう答えてしまってから首をひねるでしょう。愛って、そんなに矮小なものだろうか。そしてそんな単一な機能しかもたないものだろうか。人生を楽しくしたり、幸せにしたりするのも愛だとする。それだって、楽しい人生じゃないと生きようという気持ちが芽生えず、生命は滅んで行ってしまうからプログラムされた、と言えるかもしれない。ここで再び、「でも……」とプログラム説の冷たさにたいして疑問を感じ始める。愛っていうものは、生命を巧妙に騙すプログラムで、人生に豊潤さすらもたらすくらい、全力をかけてできているものだとする。生命が愛ありきで設計されたものであっても、人間の知性が世界というものを知り、それを肯定して深めていって完成させるものなのかもしれなくはないでしょうか。これは、才能が、生まれついての先天的なものか、あるいは環境や努力による後天的なものか、という問いに似ています。プログラムはされていてもそれはある意味で「種」であって、後天的に発展させたり深めたりを自分でしていかないとうまく成熟しないものなのではないでしょうか。
本書は、この、後天的な部分を担当する読み物です。とりとめのない愛というものの本質を、愛することととらえ、さらに愛する技術を学ぶことが大切だとしています。愛は、考れば考えるほど、自分の視野ではとらえきれないようなものだとわかってしまうようなものですが、本書は、うまくそこに形を与え、理論化しています。途中、同性愛を否定する箇所や、眠りを疎んじ覚醒をもてはやす箇所などで古さを感じるのですが、それ以外はおおむね読ませるどころか、新たな学びともなる、ひとつの見事な論理として愛というものの姿を知ることができる内容になっていました。
前置きが長くなりました。ここで序盤の文章から一文を引用します。
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人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
(p23-24)
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著者・フロムの心理分析では、こういった「孤立」を解消するために愛があるとされます。また、愛にいたるまでにも、「孤立」を解消する行動を、人はいくつも行うことも記されています。たとえば、外界があるから孤立を感じる、というところに人は気づくのです、おそらく無意識の領域で。では、外界と同調し自分を失えば孤立はなくなるがそれだとどうか、となる。どうして生きているかもわからなくなりそうです。そうならないようにうまくやるには、つまり外界との同調を嫌いながら孤立感をやわらげるには、外界を消し去るほかなくなります。アルコール依存や薬物依存の理由はそうやって外界を消し去るため。外界を消すことは、外界から徹底的に引きこもることで成されるからです。また、祭りなどの非日常の行動も、孤立感を消し去る効果がある。これは、高揚状態と集団の結束のつよまりから孤立感が薄れます。この類いの行為としては、考えてみると、パチンコや競馬などのギャンブルに足を突っ込みすぎることというのは、孤立ゆえに外界を消そうとする行為なのだろう、とわかってきたりします。あとは、創造的活動が、没頭して生産的になることで世界とひとつになるような経験をし、孤立感が無くなります。ただ、人間同士の一体感こそが、偽りでもなく一時的でもない一体感であり、孤立から脱する完全な答えとしての行為が、愛なのだ、と著者はいうのでした。
ここで僕なりに思い浮かんだことは、引きこもることも、外界を消す行為だということでした。孤立から自分を救うための行為ということになります。誰も自分のことをまるでわかってくれないことが孤立だともいえます(孤立とその不安を解消できる機能を備えた社会が作れるのならば最高ですよね)。少なくとも西洋社会では、個人は孤立から逃れる心理ゆえに自ら社会に同調していくといいます。日本はどうだろうかと考える。建前で同調して、隠した本音では同調することで自分をなくしたくないと思ってはいないだろうか。だとすれば、本音を隠したその行為、その心理は孤立感を育てるでしょう。ゆえに不安を呼び、強迫的な行動に繋がりやすくなる。また、不安って認知を歪めるといいます。隠された本音由来の孤立感からくる不安が認知を歪めることで、似非科学や陰謀論にふりまわされやすい心理状態になりやすいのではないかと考えるところです。
愛は与えることだとも書かれていました。ある人が誰かに与えることで、与えられた誰かの中でそれがなにかが生まれるきっかけになり、なにかが生まれたときには与えた人にそれが思わず返ってきたりする。上昇スパイラル、正の連鎖ですね。べたな例ですけど、ライブなんかでのミュージシャンやアイドルと、観客やファンの関係はそれにあたりそうです。損得や犠牲で「与える」という行為をとらえているうちは、うまくいかないということでした。
とても勉強になったのは、父性と母性のところでした。無条件で愛する母性と、自らの言うことを聞くなら愛するというような条件付きで愛する父性。人は成熟すると、自らのなかに母性も父性も自足するようになるというのです。ただやっぱり、ちょうどいい母性と父性との関わり具合があって、そのバランスがおかしいと愛することがうまくいかなくなる、と。神経症的な愛の形になってしまうんです。
たとえば僕は母の介護をしているなかで、強い父権でもって完璧主義と強迫観念で母に接する父がいることで、家庭でのバランスを無意識にとろうとして無条件に愛する母性的接し方をするようになった。でも機能不全家庭で育った僕にそんなことができるのだろうか。まやかしの母性ではないかと疑念がわいてきます。愛することが得意かどうかというと、僕は子どもへの接し方に苦労するほうなので、そこを鑑みるとほんとうは得意ではなさそうなんです。でも、子どもってふつうに闇や悪をかかえているもので、ピュアではないことを知っている(自分の子供時分のことを覚えている)から接するのに苦労するのかもしれない。ある意味で素直でシンプルなのが子どもの可愛いところ。でもピュアな感じでの善とは違うでしょう。親を含む大人などの他者が子どもである自分をどうみているかをちゃんと知っていてそれを利用して演じたり嘘をついたりし、自分の思う通りにする。混み入った罠を思いつき実行したりもします。
神経症な愛のひとつの例として、以下の引用をしておきます。
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「投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、そのかわりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐといった態度にも、神経症的な愛の一つの形が見られる。この場合、個人が、集団や民族や宗教のようにふるまう。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点も目ざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている。」(p151)
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後述に「自分が支配的だったり、優柔不断だったり、欲張りだったりしても、それを全部相手にかぶせて(投射して)非難し、性格によって、相手を矯正しようとしたり、罰したりする。」とあります。こういう人、いますよね。母性や父性との関わり方がうまくいかずに大人になったからではないか、と本書を通読するとそう考えてしまいます。
最後に。
愛の技術を磨くには、「規律」、「集中」、「忍耐」、「技術への関心」がカギになると書いてあります。そして、これらは様々な技術を会得するのに必要なものだし、愛の技術もそれらと同様なのだ、と解説されていました。なるほど、そうかもしれない。気が向いたときだけやるのではなく、規律をもって、気が向かなくてもやりなさい、というところが耳に痛かったです。
おまけとして。
他者に無関心でいることが現代の特徴だとして、その無関心を通り道にナルシシズムへ行き着くのではないのでしょうか。相手の事情を考えられなくなっていき、自分の利益ばかり主張するのがナルシシズムの一面です。客観性が弱い。それだと、まともな「愛する」行為がわからなくなっていく。偽りの愛ばかりになるのでしょう。本書では、客観性がないということは理性がない、ということになる、とありました。そして、謙虚さは理性の証みたいなものなんですよね。なるほどなあ、と肯くばかりで。 -
「人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、決してうまくいかない」
一番大切な存在なはずなのに大切にできない、愛しているが思い込みで心から愛せていない、これらの問題は自分の人格の未成熟さ、努力不足が招いているのだと理解できました。
そのためには、自己愛、ナルシシズム、客観力、利己主義、幼少期の母親との関係から生まれた愛着障害、本当の意味での尊重、向き合うべき自身の問題は山積みですが、「愛するには技術がいる」という言葉の通り、知るべき理論の探索と習得、習練に励むための一歩を踏み出していこうと前向きな気持ちです。