カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (501ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751173

感想・レビュー・書評

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  • ヒットワード連発の巻でした!
    「いかがなもんです、いかがなもんです!」
    “さくらんぼのジャム”
    「一粒の・・・」
    後はゾシマさんの話が染み入ります。

  • みんなすごい作品だと言い、自分が同じ物を感じ取ってるのか確かめられないけど、しいていえば、脳みそをがんがん揺さぶられて、思考や価値観の方向性を強制的に軌道修正させられる2巻目。抵抗しようにも論破され納得せざるを得ない。信じるしか道は無いのか。

  • 1巻目で、人物が分かってようやく物語に入り込めた感じ。アリョーシャと貧しい子供との出会い、イワンの大審問官の物語、そしてゾシマ長老の物語。
    一つ一つが、濃い。
    ただ、キリスト教への造詣が深いとまではいかなくとも、何かしら神について考えるところがないと、登場人物達が語る内容への感情移入がしにくい。

  • イワンがアリョーシャに話をする内容が特に難解でした。この後に続くゾシマ長老の過去の話が簡単に感じられるほどです。

  • 物語2日目はアリョーシャの長〜い一日。朝、父親の家へ。途中少年たちの石の投げ合いに遭遇し、ホフラコーワ夫人邸へ。石投げ少年の父親スネギリョフ邸へ。再度ホフラコーワ夫人邸へ。その後あずまやでスメルジャコフに会い、イワンのいる料理屋へ。神の存在を信じるアリョーシャに、無神論者のイワンが「大審問官」の物語を語る。人間は神の奇跡を待ち望んでいたのに、悪魔の前でキリストが奇跡を起こさなかったのは誤りであった。か弱く卑しい人間は、選択の自由に耐えられず、今は、むしろ悪魔側?の教会に服従しているという。

  • キリスト教に馴染みのない(クリスマス程度でしか関わらないからね)大多数の日本人にとっては読み進めるにあたって鬼門となる2巻。だけれどもイワンとゾシマ、どちらのエピソードもこの物語の核、芯となる重要部材なので絶対に外せない。

    「カラマーゾフの兄弟の感想を聞かせて?」と頼まれたら、8割くらいの人間がこの巻の話をするんじゃねえかな?

    かくいう私も一読で理解しきれたとは言えないのでこれから何度も読み返すと思う。

  • 大審問官とゾシマ長老の伝記的内容が「対」になっているようにも見えたが、訳者の解題の通り、イワン陣営VSアリョーシャ陣営で見るととても構造が理解しやすかった。

    キリスト教が15世紀間の間に前提とした条件などが変わることで、既に実用に耐えうることができなくなっているという投げかけや、キリスト教が課した要望の高さ(自由など)についていけない多数派と乗り越えうる少数派を対比させ、かつ、当時とは数が違うことも引き合いに出し、内在する選民的側面を炙り出したりするなど、イワンの持つ、神の創った世界=キリストが悪魔から退けた世界、への疑念が詰まっているパート。

    そこから始まるゾシマ長老の伝記的パートが、イワンの問いへの回答のようにも見える。過去に殺人を犯した訪問者の精神や行動の遷移に則り、個人の内面での葛藤=罰の持つ影響などが語られている。無神論や世界の否定を述べたとして、この内省に「神」は介在しているのだろうか。つまるところ、イワンの言う個々人に課された要求の例としての貧しさの面などは、結局物的なものが多く占めており、この葛藤は精神的な活動であり、望まずとも訪れてしまう活動だと思われる。自由な精神活動を送ることに大半の人間は耐えきれない、と言う内容が議論対象。その際に、どう心を持つか、どう内面を取り扱うか、その参照事例としてのキリスト教、神、という事例に過ぎないのではないだろうか。罪を明らかにしたことで、ゾシマ長老にその矛先が向き、ある意味で「救われた」状態になった、これをキリスト教的に解釈するか、無神論または自然崇拝的に解釈するか。個人が個人と内省的に向き合い続けた結果の、自立した個人、というものがキリスト教的な理想像として提示されているように思える。そこに至れるかどうかはさておき、指針として基準を設けておくことは、社会的な安定において重要だと考えられる。そのため、その基準が適切でない、なくなったことでのイワン的な問いかけもまた意義があり、多様であればあるほど、その議論はどの論へも還元されていき、また一つ変化をもたらすことになる。無神論的であっても訪れることが想定される「内省」にどう対処していくか、無神論的処方が提示されていく必要がある。

    次巻以降で本格的に、ドストエフスキーが「ロシア」というものをどう捉えたか、「父殺し」「民衆」「父と神がかりの子供」「無神論」など壮大なテーマを登場人物の属性に落とし込んで表現されていき、かつ、多面的に表現することで(イワン陣営VSアリョーシャ陣営のように)論に厚みを出していることで、傑作たらしめているというか、時間の評価にも耐え続けているというか、そういった側面を感じ取ることができた。

  • 読書ガイドから抜粋

    僧侶は、妻帯を禁じられた黒僧、妻帯を許可された白僧の2種類に分かれ、19世紀半ばではだいたい2対5の割合で存在し、どちらの種類の僧侶も、僧衣の色はほぼ黒と定められていた。教会で地位を築くには黒僧になるのが必須だったため、アリョーシャが婚約したのはかなり攻めていだとも言える。

    第1部で父フョードルがイワンとアリョーシャを相手に投げかけた問い、つまり神の存在と不在をめぐる問いが第5編「プロとコントラ」と第6編「ロシアの修道僧」に結実する。

  • カラマーゾフ新訳、第二巻。ちょうど、NHKラジオの文学の世界で、ドストエフスキーの特集をしていて、彼が本書を書いた背景や時代を理解しながら読んだが、それでも難解。

  • 物語的には停滞し、読み進めるのにもっとも手こずった巻だった。
    (解説でもその点が言及されており、そうだよねと共感した)

    しかし、ゾシマ長老の回顧録と最期の演説まで来るととても読みごたえがあり、ページが進んだ。
    全巻を通して私が、kindleのハイライトをもっともたくさんつけた場所がここだった。

    「貧しい者に権利だけは与えられているが、欲求を示す手段はまだ提示されていない から、妬みと殺人が起こる」
    「世界はやがて一体化し、思想は空気をつたって伝達される時代が来る」

    など、まるでグローバル化した現代世界を予見するかのような言葉や、

    「彼がお前のキスに対し、せせら笑ってきても、それに惑わされてはいけない。それは、彼にとってその時がまだ訪れていないからだ。いずれその時はやってくる。こないとしても、どうでもいい」

    といった、人間関係を楽にする教訓のようなものが、とても心に響いた。
    (※ちなみに上記の例文は原文通りではありません)

    世間ではここよりもイワンの「大審問官」のくだりのほうが有名で、いろいろな研究もされているようだが、私が初読したときはそこまで心にとどまるものはなかった。

    誰がどう見てもキリストな男が登場するのだが、絶対にキリストという固有名詞を出さずに話が進んでいくのが、映画「ベン・ハー」みたいだな……と思ったくらいで、イワンの話の中では「大審問官」よりも、幼児虐待の話、トルコ兵の私刑の話などに身を入れて読んでいた。

    あとで「大審問官」の人気ぶりを知って、なぜ世間との感性のずれが発生したのか気になったので、「大審問官」は再読する予定。

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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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