日本人にとってイスラームとは何か (ちくま新書)

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著者 : 鈴木規夫
  • 筑摩書房 (1998年5月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480057556

日本人にとってイスラームとは何か (ちくま新書)の感想・レビュー・書評

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  • イスラムとは人の心の支えとなる宗教であるばかりでなく、人々の生活や、社会、統治システムをも規定する明示的・日明示的なあるオリエンテーションを持っている。そのため、イスラムをイスラム教と呼びことに躊躇する研究者も多い。

    国籍を持たなくても商人は可能である。
    イスラムの時空においてはアッラーの超越性が極めて幻覚であり、それにより、かえって逆にありのままの人間の存在領域を幻覚に明確化している。

  • 読了—1月5日
    【感想】
     本書は射程がイスラームの自己認識、ネットワーク性、<オリエンタリズム>、近代日本とイスラームの関係、大川周明の思想…と大変広域に渡っており、入門書ではないと断言する。少なくとも全く背景知識のない人間は読まないほうがいい—入門書として井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波文庫)を推薦する。新書として決して軽く読めるものではない。また個人的には、最終章を軸に前半から展開したほうが知識のない人にも読み易いと感じた。
     本書のタイトルから想像出来るように、最終章「イスラームと近代日本」が本流であり、前半部はそのための支流か。最終第五章で、戦後の大川周明のイスラーム研究の「忘却」から、戦後の日本社会がイスラームとの関わりを否認することになる「病理」などへと、その論を展開する点は非常に興味深かく奥行きのある内容だと思う。しかし難しく、以下【まとめ】にあるようにまとまらなかった…。
     その理由は(個人的な疑問も兼ねると…)①、「宗教ナショナリズム」の意味内容と南原繁『国家と宗教』の関係が掴めないこと。②、ネオオリエンタリストと大川周明の関係が深まらない点—おそらくどちらも西欧から与えられた枠組みを逆に利用することで自己認識を得ようとすることのだと思うが、それを筆者はどう考えるのかおぼろげにしか分からない。③、②とも関連するが、イスラームの<世界性>の分有性の理解が甘い。「一神教という共通の歴史文化的世界を分有しつつ、個々の要素の組み合わせ次第でイスラーム的なるもの」が表出され…」とあるが、「個々の要素」とは何か?
     筆者(鈴木規夫氏)は、政治哲学専攻であり本書もその分野に当たる。2012年1月現在はどうか知らないが、4年のとき、中央大学でお世話になった先生である。確か、本書で大川周明の思想の正統な研究がなされるべきだとの旨を述べたところ、学会での立場がよろしくなくなったと聞いた、偏狭な世界だと感じたのを思い出した…。
     

    【まとめ】—これからまとめます…
    <第五章の内容>
     1930年代、時局便宜的なものとはいえ日本はイスラームと接触していた。しかし、それが戦後はなかったものとして「忘却」されているのはなぜか。その病理を体現した存在として、筆者は大川周明及び彼のイスラーム研究始めとする思想的な「忘却」をあげ、氏の思想の重要性に言及する。大川の思想が「忘却」された理由として、氏が右翼大物であったことだけでは不十分である。それは氏のイスラーム世界の表象の仕方に現される何かの「忘却」の理由だという—これが本書のテーマだろう。
     筆者は、竹内好の大川への評価から、大川をネオオリエンタリスト。ネオオリエンタリストの例として前半部で、イスラミック•ファンダメンタリズムの指導者があげられている。彼らは「書かれる人間」であることを知っており、オリエンタリズムが与えるステレオタイプを組み替え「書く人間」として立ち現れ「真実のイスラーム」を唱える考える存在として述べられている。

     「…不幸にして回教は、キリスト教の攘夷的精神のために、常にその面を黒く塗られてきた。キリスト教の排他的信仰が、往々にして他教に対する公平なる判断を失わしむることは、ひとり回教の場合に於いてのみ然るのではない。仏教も儒教も、乃至は吾国の神道も決して欧米人によって正しく了解されていない。…吾等はキリスト教伝道師に呼応して、徒にこの偉大なる宗教を罵詈することなく、自由にして先入主なき日本人の精神を以て、回教に関する正しき知識を得ることに努めねばならぬ…」

     筆者は以上のような氏の主張から、「大川によってのイスラーム世界は、それについての「正しき知識を得ること」の対象であると同時に、その認識行為は、日本人としての自己認識において「正しき知識を得ること」と同等なのである。」(p190)と述べる。つまり、植民地主義者としての眼差しの一方で、大川によるムスリム社会の表象は、キリスト教の「攘夷的精神」を浮かび上がらせ、イスラームと同じく西欧文明を前にした日本の「居場所」のなさを感じていたという。そして、大川を「忘却」することは「かれがつねに迫る、日本人の自己イメージへのアクセスを回避することでもあったとはいえないだろうか。」と問うていく。
     更に筆者によると、イスラームへの「忘却」が日本において半世紀以上も続いたことと、敗戦によって日本社会が世界秩序構築主体であることを止めたこととは相通じるものがある。第一次大戦で世界史の主体たるヨーロッパが<自壊>したという認識は、「近代の超克」論のようにヨーロッパ近代の「個体性」を前提にしつつ、日本が「世界史の新しい理念」を表すという世界観を生み、「東亜統一」という深みにはまった。ここにある世界観は「開かれた」ヨーロッパ主導の秩序において日本も「開国」しなければならないという発想であり、社会構成原理をヨーロッパ近代におくものである。
     しかし、社会の構成原理を用いイスラーム世界の「個体性」を考えると<世界性>の分有が導かれる。例えば中東においては、一神教という共通の歴史文化的世界を分有しつつ、「個々の要素」(?)の組み合わせ次第で「イスラーム的なるもの」が表出され、それは様々な空間で「個体性」を表出することが分かる—前半部のネットワーク性と複合的アイデンティティなどから言っているのか?。このようなイスラームの<世界性>の分有の認識は、戦前のような「一つしかない世界」を日本が担うという発想を防ぐことになる。日本が「開国」という強迫から逃れ<世界性>に開かれるために、ヨーロッパ近代の相対化と同じ程度に重要なのは、世界の多数性をいかに受容するかという思想的問題であり、その契機としてイスラーム理解が重要だと言う。

  • 図書室で借りました。

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