ライ麦畑で捕まえて
冴えない青春期を過ごした男が、女の子との数少ない思い出を、何度も何度も反芻して思い出す様が、中学時代の自分と重なった。
誰よりも本を読んでいるという自負から、他人よりも賢くて大人っぽい奴だと思い込んで、周りを馬鹿扱いする。
昼夜問わず大っぴらに恋愛して、ハイエナみたいに騒ぎまくる男女をみて、コイツらは本を読む側の人種ではないだろうと、例えただ道ゆく無関係な他人でさえジャッジしてしまうのも共感する。
でも、読書を大量にするからといって勉強が出来るわけではない。
その無能さに安心し、周りは馬鹿にしてくる。
主人公ホールデンは繊細なのかと思いきや、そんな事はない。常に文句ばかり浮かべる図太い神経をしている。
他人の気持ちを事細かに読めてると本人は思っているが、全く見当違いな言動をする。常識人ぶっている異常者である。
でも、ホールデンと同じように読書家で、学校でも職場でも、基本的に無口な私が、どんなに歳を重ねても、どんな集団にも全く馴染めないのは、こういう意地の悪さや捻くれたプライドによる人を見下す思考が、無意識に漏れ、見透かされているからなのだろうなぁと思った。
昔から、1日中誰かと会話しないなんてことはザラなのに、話しかけかれ、ちょっと会話しただけで、にこにこ笑顔で話しているのにみるみるうちに嫌われてしまう。
悪い癖を直そうと思ってはいるのだが、具体的にどんな発言を直せばいいのか分からなかったので、相手を白々しくさせる会話を客観的に観れてなかなか面白い読書体験になった。
ホールデンで、森の家で聾唖として演技をしながら生活したいという気持ちはよく分かる。
人と関わりを持つ度に阻害されていく傷つきや、他人との関わりの面倒臭さ、自分の考えを話す事で他人に自分というものを知られる雁字搦めの束縛に息苦しくなってしまう。
中学の時に、高校は地元ではなく遠い所へ通おう、誰も知らない、誰にも自分が知らない土地でやり直そう、そして自分は口数の少ない人間であると周りに思わせ、無様な友達ごっこに巻き込まれないようにしよう、という閉鎖的な計画は凄くよく分かる。
三十路になっても、他人と出来れば深く関わりたくない、自分を知られたくないという気質は変わらない。
とはいえ、ホールデンの青臭さは大人だから見抜ける。
ほんの少しのお金を大金だと自慢に思い、家出しようとするなんて、小学生の頃に私もやったが、とんだ端金だったと稼ぐようになって気づく。
本人は身長が高いだけでお酒を頼んでも11歳の未成年とバレない、それなりの性行為も経験してる22歳の男性にも見えると思い込んでるが、ウェイターにも娼婦にもバレバレ。
子供って、先生や親の大人の会話にも充分ついていける一端の大人なんだも思い込んでる。
でもそれって言葉の表面的な意味を理解できているだけで、大人の経済状況や恋愛事情なんかの年相応にならないと分からない社会の柵が裏にあってこその会話だとまだ理解していない。
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いやあ、人間、死ぬと、みんなが本当にきちんと世話してくれるよ。
僕が死んだ時には、川なんかに捨ててくれるくらいの良識をもった人が誰かいてくれないかなぁ、心からそう思うね。
墓地の中に押し込められるのだけはごめんだな。
日曜日にはみんながやってきてさ、ひとの腹の上に花束をのっけたり、いろんなくだんないことをやるだろう。死んでから花を欲しがる奴なんているもんか。1人もいやしないよ。
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皆で死んだ弟のアニーの墓参りにいく。
大雨が降り出し、アニーの墓がびしょ濡れになる。
アニーの身体に雨が降る。
墓参りに来てた人々は一目散に車へ逃げ出し、ラジオをかけたり、快適な所へ夕食を食べに向かい始める。
ホールデンも、墓にあるのは、アニーの抜け殻の身体だけで、魂は天国にあるという戯言は分かってはいるけれも、その様子を見てると馬鹿馬鹿しくなってくる。
皆は雨を凌げるかもしれないけれど、アニーはどうなんだ。
“太陽が照っているときはそんなでもないんだけど、しかし、太陽ってやつは、気が向いたときでないと顔に出さないんでね”
結局他人は墓参りといいつつ、アニーの死なんて心の底から悲しんでなんていない。ただのイベントでしかない。墓参りだって太陽のように気が向いたからしただけのこと。
私も死んだら、墓地なんかに埋められたくはない。特に誰かと一緒の穴だなんてまっぴら。
墓掃除だとか維持管理費だとか何かで残った人を煩わせたくない。
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“チェッ!”っていう癖もあるんだ。
一つには語彙が貧弱だからだけど、一つには年の割にときどき子供っぽい事をよくやるからなんだ。
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僕みたいにひどい嘘つきには、君も生まれてから会ったことがないだろう。すごいんだ。
仮に雑誌を買いに行く途中なんかでもさ、誰かに会って、どこへ行くんだって聞かれるとするだろう。
僕はオペラへ行くって答えかねないんだな。ひでえもんだよ。
もし、こんな嘘をつかれても、私はオペラへ行くという嘘は見抜けないから、”へえすごい!どの作品を見に行くの?”と聞いちゃいそう。
音大でオペラを学んでいた身としては、オペラを難なく歌えるので、作品にもかなり詳しい。
見栄を張ったつもりが、作品名を答えられなくてぐぬぬと悔しい気持ちにさせたことも知らず知らずあったかも知れない。
こういう知識の差が、相手の自尊心を挫き、翻って忌み嫌われるという可能性に幾つか心当たりがある。
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イケメンのストラドレーターは、見た目はサッパリしている。
でも姿を整える為の剃刀は錆だらけで、人目につかないところはだらしない。
女性関係もだらしがない。
ホールデンが大切に思っていた女友達のジェーン・ギャラハーの名前さえ覚えていないのに、先生の車の中でデートをする。
性交渉をもったのかは最後まで明かされないが、どうだろうか。
ホールデンはギャラハーの事を悪くは言わないが、性にだらしのないのはストラドレーターだけでなく彼女だってそうではないか。
お互いよく知りもせず、そんな状況下に自分を置くだなんて。
ホールデンとチェスをした時に再婚相手の父を無視し、涙を流したが、口へのキスは拒んだといえ、頭やら頬やらへするキスは受け入れている様子からも軽率だと言わざるを得ない。
家庭環境からくる自己肯定感の低さを男性で埋めようとしているのだろう。チェッカーの守りは硬いが、下半身の守りは如何なものか。
ホールデンにとっては数少ないイイ感じになった女友達がストラドレーターのような顔だけの男に横取りされた怒りややるせなさも共感する若者は多いかもしれない。
私の恋愛観とは全く逆なので若々しいとは思うが、こういう恋愛をずっと続けている大人もよく見かける。
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小学生の頃、授業で行った博物館。
“でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ。
誰も位置を動かさないんだよ。かりに十万回行ったとしても、エスキモーはやっぱし二匹の魚を釣ったままになっているし、鳥はやっぱし南に向かって飛んでいるし、鹿も同じように、きれいな角もほっそりした綺麗な脚をして、あの水溜りの水を飲んでるはずだ。
それから胸をはだけたインディアンの女も、相変わらず、あの同じ毛布を織り続けているだろう。
何一つ変わらないんだ。
変わるのはただこっちの方さ。
といっても、こっちが年を取るとかなんたかそんな事を言ってるんじゃない。
厳密にいうと、それはちょっと違うんだ。こっちがいつも同じではないという、それだけの事なんだ。”
子供の頃から変わらぬ風景を見て、自分の内面の変化を気付ける機会があるのは、なんて素晴らしい事だろう。
私は震災で故郷を丸ごと失ったからこの幸せを経験することは出来ない。この経験をする為に幼少期に子供らしい思い出を物として残す努力をしてきたけれど。
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ストラドレーターからの作文の依頼。
“ただな、あんまり上手く書かないでくれよな。(...)だからつまり、コンマだとかなんとかをさ、適当なところへ打たないでくれよ”
これがまた、僕には、しんから腹の立つことなんだ。
つまり、作文が得意な場合に、ひとからコンマがどうとかこうとか言われるのがさ。
ストラドレーターは、いつもこれをやるんだ。
自分が作文がだめなのは、コンマの打ち場所を間違えるからであって、他に理由はないんだって、そうひとに思わせたいんだな。
そういえば、私がコントラバスで1位をとった時に、フルートの子が、弦楽器は簡単だからと言い放ち、数日後ヴァイオリンを始めた事があった。
部活と同じように、プロのレッスンは受けずに独学でやっていたのでドレミすらに弾けるようにならなかったけれど、彼女には度々、コントラバスはフルートよりも簡単で、ヴァイオリンは弦楽器の中で1番難しいがコンラバスは唯一簡単なので、コントラバスが上手いのは私に才能があったり、努力をした結果ではないと面と向かってはっきりと言われた。
ストラドレーターの作文と同じで、コントラバスなんて本気でやればすぐ出来るようになるし、私なんかすぐ追い抜かすはずと考えているようだ。
私はそんな事を主張されている時もホールデンのように反撃もせず、うんうんと聞いていた訳だけれども、なんて失礼なんだろうとちょっぴり思った。
自分がフルートもヴァイオリンもまともに演奏できないのは練習不足だと認めたくない、”〇〇ちゃんの癖に”という口癖でいつも見下している私がたいした人間だと思いたくない意地があるのだとひしひしと伝わってきた。