- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784562041633
作品紹介・あらすじ
ケータイ小説とは、ファストフード化した郊外が舞台で、郊外に住む少女が主人公の、郊外に住む少女たちを主な購買層とする、郊外型ショッピングモール内書店で売られる「新しい文学」である。浜崎あゆみ、NANA、郊外型ショッピングモール、携帯メール…ケータイ小説の誕生の背景と理由にせまると、見えてきたものは。
感想・レビュー・書評
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ケータイ小説とは何だったのか。当時僕もずっと気になってはいたが結局素通りしていた、が何かその存在が気になりつづけたそれが生まれた背景について社会的側面を交えつつ説明している。あの、独特な雰囲気を持っていたケータイ小説は生まれるべくして生まれ、社会的、文化的に見てもとても面白いように思う。その存在が。
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【ケータイ小説は似通ったプロットやモチーフに偏る傾向がある】
似通った作品が同時多発的に生み出されていった背景には文化的、社会的な何かが存在するといった作者の仮説の元、話が展開されていく。
文化的な背景には”浜崎あゆみ”が存在するというのが、第一章の著者の仮説と主張
【ケータイ小説と浜崎あゆみの歌詞には以下の三つの共通点がある】
1.回想的モノローグ
2.固有名詞の欠如
3.状況描写の欠如
【回想的モノローグ】
「恋空」は基本的に三人称で書かれる小説スタイルをとっているが、突如一人称に変わるモノローグ的な文章が突然、何か所にも登場する。
自分の身に起きた数年前のエピソードを、かなり遠回しに、しかも感傷とともに語る「回想的モノローグ」は、浜崎あゆみの歌詞にも多く登場する。
【固有名詞の欠如】
【状況描写の欠如】
ケータイ小説には固有名詞、状況描写がほとんど書かれていない。
浜崎あゆみの歌詞に対しても、SEASONSを例にとり、抽象的であり、情景描写がないと指摘。
”一切の風景がなく、漠然とした感情的な心の中だけが示される”
第二章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?
【リアルというのは、実際に起きたかどうかではなく、その圏域に属している人たちが「本当にありそうだ」と感じらるかどうかという意味である】
九十年代末以降のの中高生の読書傾向として、それが本当にあった話かどうかを重要視し、「リアル系」の作品を好むようになった。
このリアル系読者のニーズに合致したのがケータイ小説。
【リアル系の作品ポイントは、人物描写がない、風景描写がない、心理描写がないことなんです。出来事が次から次に出てきて、それを追っかけて行くと終わるんです。】 -
浜崎あゆみの影響力の凄さと、郊外の均一化、ヤンキーの定義の変遷など、ケータイ小説の話題から若者論と都市論が中心に移っていく。どうしても古く見える箇所もあるが、読んでいて面白かった。
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未読
第一章 〈情景〉のない世界
『恋空』に見る、浜崎あゆみの影/ケータイの普及とそれを司るミューズの存在/回想的モノローグと『NANA』『ホットロード』/あゆとユーミンの歌詞の違い
第二章 ケータイ小説におけるリアルとは何か?
本当にリアルなのか?/学校図書館はケータイ小説をどう捉えているか?/リアル系、不幸表明ノンフィクションの流行/『ティーンズロード』とケータイ小説の類似性/あゆから始まるヤンキー回帰
第三章 〈東京〉とケータイ小説
ケータイ小説における〈東京〉の欠如/上京という概念が存在しないマンガ『頭文字D』 /ケータイ小説の登場人物に見る職業観/「地元つながり」の復活/郊外から生まれた新しい文化
第四章 ケータイが恋愛を変えた
携帯メール依存と「つながること」を希求する若者/「つながり」重視のコミュニケーション/デートDVと「優しい関係」/恋愛小説が顕著に映し出す時代の変化/オールドメディアへ想いを託す彼女たち -
<u><b>“ケータイ小説”に“ヤンキー”という補助線を</b></u>
<span style="color:#cc9966;">ケータイ小説とは、ファスト風土化した郊外が舞台で、郊外に住む少女が主人公の、郊外に住む少女たちを主な購買層とする、郊外型ショッピングモール内書店で売られる「新しい文学」である。浜崎あゆみ、NANA、郊外型ショッピングモール、携帯メール…ケータイ小説の誕生の背景と理由にせまると、見えてきたものは。 </span>
私がケータイ小説に感じる「ダサい」という感情の起因がどこかわかった。ヤンキーだ!ヤンキー!私が10代の頃は「ヤンキー」なんて死語だった。「スケバン」が死語のように。でも今の子(私の周りだけか?)「ヤンキー」は意外にそんな風には受け取られていない。むしろ、どこかカッコイイものという雰囲気だ。「だから、あいつらはケータイ小説好きなんだな。なるほど、ふむふむ」と具体的な生徒の顔を思い浮かべながら思いながら読みました。
[more]
本書は微妙に論点ずらしながら論じているなぁとは思いながらも、「浜崎あゆみ」、「NANA」、「郊外型ショッピングモール」、「携帯メール依存」、「デートDV」と数々のケータイ小説世代を語る言葉を見つけ出し、それをヤンキー文化に繋げるところは納得させられた。批判するにしても楽しい刺激的な面白い本。浜崎とCOCCOと椎名林檎の曲を「トラウマ」曲として括って話すのは、立派なJーPOP論としても通用するなぁ。
確かに、ケータイ小説のあらすじ見ていると、トラウマ回復のモチーフが多いこと多いこと。一つ考え直したのは、ケータイ小説って意外と健全だよね。ヒロインは型どおり、どんなに辛いことがあっても、そこから立ち上がって未来へ向かっていく。えらい、えらいよ。だからと言って好きになれそうじゃないし、誰かに勧めたいとも思わないけど。
でも、筆者が言うように確かにケータイ小説だからと言って、価値のない物と陥れるのはよくないな。偏見、ヨクナイ。
とここまで語りながら、ちゃんとケータイ小説読んだことない私。ケータイ小説世代が縦の文字読む気しないって言っているのと同じく横文字って読む気しないんだよな〜
今度は石原千秋のケータイ小説論読みたいな。(評論ばっかり読んで、一向にそのテクスト自体には心は向かない) -
ケータイ小説とは、ファスト風土化した郊外が舞台で、郊外に住む少女が主人公の、郊外に住む少女たちを主な購買層とする、郊外型ショッピングモール内書店で売られる「新しい文学」である。
表紙裏の素晴らしいサマリー。 -
ケータイ小説をヤンキー文化の継承者として理解するという、著者の見方が示されています。
ケータイ小説が浜崎あゆみや相田みつをの詩を踏襲していること、あるいは、レイプや妊娠、難病といったケータイ小説にしばしば登場するテーマが「リアル」なものとして受け取られていることなどを指摘し、さらに「地元つながり」や「デートDV」といった、現在のヤンキー文化における問題へと通じる道筋を示しています。
社会学的な考察としてはたいへんおもしろく読みましたが、オタク文化とは違って作品そのものについての批評に踏み込んでいけないところに、少しもの足りなさを感じました。もちろんそれは、本書の欠点というよりもケータイ小説そのものの性格によるのだとは思いますが。 -
★いまもあるのか★ついぞ接点のないケータイ小説だが、ヤンキー流れで。出版は2008年。読んだこともないのでケータイ小説そのものの批評はしようがないが、分析は面白い。
ケータイ小説と浜崎あゆみの歌詞は同じ線上にあり、その前にはNANAやホットロードといった、具体的な描写を欠いた回想的モノローグがある。田舎のショッピングセンターの画一的な品ぞろえの本屋で売れるのは、それがハイかロ-かサブかではなく新たな文化の形というのはもっともだ。
児童文学評論家の赤木かん子の指摘の引用も興味深い。「リアル系」の子供は情緒が苦手。だから相田みつをが好き。人間描写がない、風景描写がない、心理描写がない。出来事が次々出てくる…。なるほど。ただ、僕にとってのみつをのとっつきにくさは、情緒不足と言われるとすっとこない。
つながりすぎるケータイというジレンマも納得。ケータイ小説の最後に、つながらないかもしれない日記や絵馬がコミュニケーションの手段として表現される逆説とワンパターン。 -
・「こどものもうそう」からぽちっとした。米光さんの紹介はいつも上手だなぁ。タイトルを見たときは、別に「ケータイ小説」に興味ないし……と思っていたのに。
・タイトルについて。「。」が最後についているのはなんでだろう? 「モーニング娘。」的なただのかっこつけ?
いやいや「ケータイ小説的ななにか」について書いているのではなく、「携帯小説的であること」そのものについて批評するんだよ、という意志と態度を「。」に込めたんだろうな、と読んでから思った。
・少女たちの文化と生態をケータイ小説から読み解いてみる……という惹句も。この評論は「ケータイ小説」について語る本ではなく、「現代の若者の生き方が端的に表れているメディア」として「ケータイ小説」は読めるのだということが書いてある。ケータイ小説についての本じゃなくて、軸足は若者論つーことで。
・で……なんか突然出てきたかのように見えるケータイ小説だけれども、もちろんケータイ小説は孤島じゃなくて、いろんなものとの接続から成り立っているんだってことが書いてある(…ということは「こどものもうそう」を読んでいるよい子にはわかるのだ、もちろん言及あり)。例えば直接には浜崎あゆみであり、その浜崎あゆみはどっから影響を受けているかというと『ホットロード』(紡木たく)であったり『ティーンズロード』(雑誌)の投稿欄だったり。つまるところケータイ小説の文化的背景は「ヤンキー文化」にあるのだ、という指摘がまずは新鮮。
・で、その類似点を指摘するだけじゃなくて、そっから話は現代における「ヤンキー文化」の受容・継承と「地方」というキーワードについて話は発展していく。
・ケータイが恋愛を変えた」という章。DVというと「ドメスティック・バイオレンス」だからして家庭内暴力なわけだが、現代では「デートDV」という「恋人間の暴力」というのが増加中であるらしい。そしてその原因はケータイの普及にある。というところから、AC(アダルトチル)、「ケータイ小説」や『NANA』に見られる「やさしい関係」へと論は進んでいる。
・ケータイ小説が出てきた当初、『だからあなたも生き抜いて』とか『プラトニック・ラブ』とかの「トラウマ語り」が大流行していたという指摘は興味深い。トラウマ語りはその当時に限らず、いつでも人気だったと思うのでちーとばかし留保をつけたい気持ちもあるのだけれど。AC論そのものが、かなりあばうとで検証不能なところがあるので、そこに突っ込みすぎるとツライ……と思うけど、そこは比較的さらりとしてるので、拒否感までは。
・ん~。対談、という形式は実りが少ない気がして好きじゃないんだけど、この著者とおもしろい組み合わせはあるんじゃないかなぁ。 -
私個人の期待としては、ケータイ小説から読み取れるヤンキーメディア論をもう少し学べると思いましたが、「生態系」に寄った内容だったので、意図とは少し外れてました。
ただ、ヤンキーを体系立てて学べたというのは、とても面白い経験w
メモ
「ティーンズロード」というレディース雑誌を題材にUGCが出てくるとは?
これを見るとケータイという意見の出し合える場がもたらす参加性に食いつくのは、どのような層かも少し見えてくる。
mixiなどはまだやっている人も多いと聞くし。意見を聞いてもらいたいのか、言いたいのか、深層心理として「つながる」というものはキーワードになるのだろう。
ロードサイドの流通から見る、流行のつくりかたとか、結構面白かった。
何を起点に流行が生まれていくのか。
「地方」と「都会」という切り口では、やはり情報流通は違っているのだろう。
それは、ウェブというみんなに平等に情報を伝えるものが普及しても、変わらない部分もあるでしょう。
ケータイ小説では、最後(大切な)の想い伝えるツールとして、アナログな手紙や絵馬などを使っており、伝わらないかもしれないものへの思い入れみたいな現象を生んでいる。
このあたりメディアで何か考察出来る部分であろう。