日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)

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  • / ISBN・EAN: 9784004313335

感想・レビュー・書評

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  • 名著『デザインのデザイン』の流れかと思いきや、最近の仕事のレビューレベル。好きな文章を書く人ではあるが、金儲けのための文章の臭いがしたとたん読む気をなくした。半分以上読んでいない。

  • シンプルとプリミティブとエンプティネスの、その違い。球技のボールの精度の高い丸さによって球技が上達するように、デザインが人の行為の本質によりそっていないと、暮らしも文化も成熟しないと。これだけ掴めたらこの本には満足です。

  • 良くも悪くもデザイナーという人たちに対する見方が変わったような気がする。

  • 世の中の多くのものが権力を象徴した複雑なデザインからシンプルなものへとシフトしているけれど、シンプルと日本がもつ「簡素さ」は質が違う。日本の産業の可能性について、住空間や化繊などを例にしてあげている。世界から評価されるのではなく、世界で機能するという主体性を。美意識はお金では買えない財産であると書いてあった。

    よくわかるようなわからないような。

  • 日本のデザインの、今昔、これからを語る。日本は、モノをデザインするばかりではなく、書院、茶の湯など、コトもデザインしてきたと。震災にも触れており、これから日本が、日本のために世界のための、コトのデザインを考えさせられる。

  • 欲望のエデュケーション。つまり、美意識の教育し、開花させること。
    日本の景観と情報の欲望はまだまだ低い。未来に向けて、そんな仕事がしたいものだ。

  • HONZで紹介されていたので買ってみた。『日本のデザイン』 - HONZ

    この本を読む前までに、日本は日本らしさを強みにして海外で戦って行くのが一番だと、漠然といた考えを持っていた。しかし、具体的な考えまでには至って無かった。

    そんな中で、本書に出会えてラッキーだ。これから日本の進み方について、デザインを中心に語ってくれている。

    著者の言うように、日本は次のフェーズに入っている。工業を中心とした国から美意識を中心とした国へ。

    以前、京都の銀閣寺に行った時、そのわびさびの空気に感動を憶えた。それと同時に、銀閣寺から見える周辺地域の近代化に、残念な気持ちになった。あまりにも勿体ない。著者も言うように、日本人は小さなことに対する美意識は高いが、景観に対する美意識はまだまだだそうだ。

    景観を含め、西洋の良いところは取り入れつつ、日本の美意識を大事にして国を作っていくことが大事だと思う。

    そして、それを世界の人に知ってもらうのにはどうしたら良いかを考えよう。

  • 日本は欲望という土壌が豊か。そこには様々な果実が実る。

  • 日本の、アジアのデザインの可能性を沢山吸い込ませた本です。
    日本人が当たり前に感じていたことこそが、価値あること。
    事(イベント)を多数プロデュースしてきたデザイナーである原さんの視点は、日常生活にこそ気付きがあることを伝えています。

    質素、清潔、コンパクトなどなど、日本の得意とする考え方は、大きいものが優れていた右肩上がりの経済成長が終わった国には何らかの処方箋足りうる、この著書からのメッセージは多岐に及びます。

    同書を数回読んで、京都など歴史を内包する日本の町並みを歩くと、相当沢山の気付きが得られるんだろうと感じました。

  • 残念、言葉多くして失望多し
    この人買いかぶっていた。
    だめだこりゃ。

  • デザイナーという仕事(あえて大雑把にデザイナー、とだけ言おう)に必要な条件として、「書けること」があるのか、と考える。もしそうだとすればデザイナーは小説家より上なのかな(別にだから偉いとかいうわけじゃないのです。悪口を言っているわけではない)。
    この本を書いたひとはデザイナーのなかでもとてもよく「書ける」ひとだと思う。ほんのわずかな図案や図版しか差し挟まずに、日本の未来、の一例をデザインしてみせて読むものにイメージさせてくれる。
    そのわかりやすさ、その中には、それを実現するために立ち向かわなければいけない現実の問題が隠されていたりするようにも感じるが(悪意はないのだろうけど)、穿った見方をすれば(案外正しい見方なのかもしれないが)、隠されていることを読むものが想起できるようにあえて見目よくわかりやすく素敵な日本の未来、というのをデザインして「書いて」(「描いて」えがいて、ではなく)みせてくれているのかな、とも思う。
    さて、ぼくが感想を書くと、このようにあっという間に、わかりにくくなる、な。デザイナーは向いていなさそう。

  • ほとんどが「目から鱗」ではなく「そうそう」と首肯しながら読んだ。良い意味で驚きがなかった。日本を代表するデザイナーの考えと自分の考えが大きくずれていないということを確認した。

    まえがき

    「デザイン」とは「欲望のエデュケーション」である。
    よく考えられたデザインに触れることによって覚醒がおこり、欲望に変化が生まれ、結果として消費のかたちや資源利用のかたち、さらには暮らしのかたちが変わっていく。そして豊穣で生きのいい欲望の土壌には、良質な「実」すなわち製品や環境が結実していくのである。

    1 移動

    「JAPAN CAR 飽和した世界のためのデザイン」
    エンジンからモーターへ、ガソリンから電気へ
    「行く」という主体性・能動性から、「スムーズに移動する」という合理性へ
    運転への能動的な欲求を背景とした「ドライブ」系から、移動への冷静な意思に寄り添う「モバイル」系への移行
    産業全体としては、「乗用車/商用車」のような区分ではなく、「ドライブ/モバイル」「都市/自然」「パブリック/パーソナル」というような要因が、新たな領域区分として意味を持ちそうである。(p.39-40)

    2 シンプルとエンプティ

    ボールが丸くないと、球技の上達は起こりえない。同じ動作に対するボールのリアクションが一定でないとテニスもサッカーも上達は望めない。
    球と球技の関係は、ものと暮らしの関係にも移行させて考えることができる。柳宗理の薬缶もそのひとつだが、よくできたデザインは精度のいいボールのようなものである。精度の高いボールが宇宙の原理を表象するように、優れたデザインは人の行為の普遍性を表象している。
    暮らしを啓発する、もののかたちの探求である。
    暮らしの営みの反復がかたちを育む。 →ペトロスキーの進化論
    今日、僕らはボールを丸くつくり得ているだろうか。ずんぐりと鈍い柳宗理の薬缶を見ながら、そんな思いを反芻している。
    p.47-49

    シンプル。プリミティブ。エンプティ。
    バロックやロココは王の兄弟な力を表象した。簡素さは力の弱さ。
    近代の市民社会、自由と平等の価値観は、合理主義的な効率性に知性や美を見出した。これがシンプル。
    モダニズムとは、物が複雑からシンプルに脱皮するプロセスそのものである。(p.59)

    誤解を恐れずに言えば、茶を飲むというのはひとつの口実あるいは契機にすぎない。空っぽの茶室を人の感情やイメージを盛り込むことのできる『エンプティネス』として運用し、茶を楽しむための最小限のしつらいで豊かな想像力を喚起していく。水盤に水を張り、桜の花弁をその上に散らし浮かべたしつらいを通して、亭主と客があたかも満開の桜の木の下に座っているような幻想を共有する、あるいは供される水菓子の風情に夏の情感を託し、涼を分かち合うイメージの交感などにこそ、茶の湯の醍醐味がある。そこに起動しているのはイメージの再現ではなく、むしろその抑制や不在性によって受け手に積極的なイメージの補完をうながす「見立て」の想像力である。(p.67) ※松岡正剛の山水思想

    空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘いだし、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。(p.70)

    阿弥衆とデザイン
    「阿弥」とは本来時宗の僧侶の法名に用いられていたが、次第に優れた技能や目利きの名称につける「拡張子」のようになった。

    3 家
    自分の生き方にぴったり合った「住まいのかたち」を獲得するには、暮らしの「へそ」を部屋の真ん中に据える。

    内需拡大という言葉があるが、需要のリアリティは人々の普通の暮らしから見出されるのが自然だろう。これ以上道路を作ることもダムを作ることもナンセンス。すでにクルマもみんな持っている。不景気なので海外旅行をする気分でもない。しかし住居が合理的に刷新できることに多くの人々が気付くならどうだろうか。日本人は世界一の預金残高を持っている。それをどう吐き出させ、循環させるかが日本の内需活性化の要点である。すでに建っているスケルトンはそのままに、どんどん、ちょうど「たこ焼き」を引っ繰り返すように、個々のインフィルを次々と更新していけば莫大な内需が発生する。
    人口動態も高齢化に拍車がかかるが、貯金を持っているのは若者ではなく高齢者である。人生経験豊かで目も肥えた大人たちに、そのプリンシプルを具体化すべく「人生仕上げの家」をリノベーションしてもらえばいい。
    (p.97)

    持たないという豊かさ
    ものを所有することが豊かであると、僕らはいつの間にか考えるようになった。(p.99)
    快適さとは、溢れるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。(p.99) ※断捨離、片付けの流行

    空っぽだから清清しい

    しかし、そろそろ僕らはものを捨てなくてはいけない。捨てることのみを「もったいない」と考えてはいけない。捨てられるものの風情に感情移入して「もったいない」と感じる心持ちにはもちろん共感できる。しかし膨大な無駄を排出した結果の、廃棄の局面でのみ機能させるのだとしたら、その「もったいない」はやや鈍感に過ぎるかもしれない。廃棄するときでは遅いのだ。もしそういう心情を働かせるなら、まずは何かを大量に生産するときに感じた方がいいし、さもなければそれを購入するときに考えた方がいい。もったいないのは、捨てることではなく、廃棄を運命づけられた不毛なる生産が意図され、次々と実行に移されることではないか。
    だから大量生産という状況についてもう少し批評的になった方がいい。無闇に生産量を誇ってはいけないのだ。(p.102-103)

    しつらいや調度の基本はものを少なく配することである。何もない簡素な空間にあってこそ、畳の目の織りなす面の美しさに目が向き、壁の漆喰の風情にそそられる。(p.103)

    無駄なものを捨てて暮らしを簡潔にするということは、家具や調度、生活用具を味わうための背景をつくるということである。(…)緊張ではなくゆるみや開放感こそ、心地よさに繋がるのだという考え方も当然あるだろう。家は休息の場でもあるのだ。しかし、だらしなさへの無制限の許容がリラクゼーションにつながるという考えは、ある種の堕落をはらんではいまいか。ものを用いる時に、そこに潜在する美を発揮させられる空間や背景がわずかにあるだけで、暮らしの喜びは必ず生まれてくる。そこに人は充足を実感してきたはずである。(p.104-105)

    問題の本質はいかに魅力的なものを生み出すかではなく、それらを魅力的に味わう暮らしをいかに再興できるかである。漆器が売れないのは漆器の人気が失われたためではない。今日でも素晴らしい漆器を見れば人々は感動する。しかし、それらを味わい楽しむ暮らしの余白がどんどんと失われているのである。(p.104)

    豪華さや所有の多寡ではなく、利用の深度が大事なのだ。よりよく使い込む場所がないと、ものは成就しないし、ものに託された暮らしの豊かさも成就しない。だから僕たちは今、未来に向けて住まいのかたちを変えていかなくてはならない。(p.105)

    持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置きを配する。そこに箸がぴしりと決まったら、暮らしはすでに豊かなのである。(p.106)

    日本の家を輸出する
    玄関で靴を脱ぐ暮らし方は、身体と環境界面が直に触れ合い、対話する未来型の住環境として大きな可能性を持っていると考えられる。(p.107)

    4 観光

    日本の美意識が未来資源であるとするなら、それを観光という産業の中で具体的にどう生かすか。そのひとつの事例として参照してみたいのが、シンガポール育ちのインドネシア人エイドリアン・ゼッカが生み出したホテル群「アマン・リゾーツ」である。アマンは、西洋流のオペレーションを基本としながらも、一方ではその合理性を否定するアンチホテルとしての独自の運営哲学で、リゾートホテルの考え方に新たな潮流を生み出してきた。その特徴は、ホテルが存在する土地の景観、風土、伝統、様式といったものを丁寧に活用し、文化の最上の収穫物のひとつとしてホテルを構想・運営しようとする姿勢である。
    (…)
    高級リゾートホテルの経営は、ワイナリーの経営などと同様、利益を確保しつつも理想郷の実現を目指すという、実業と芸術の境界にポイントがある。美と経済に精通していなければできない、針の穴をくぐるような、紙一重の感覚的な投機の連続技なのである。 ※ベネッセ福武總一郎
    (…)そのサービスによって、顧客のリゾートに対する欲望のかたちそのものを変容させ、異境や異文化への興味を加速的に深めていくという、まさに欲望のエデュケーションがこのビジネスの本質でもある。
    西洋人は、大航海時代や植民地時代の昔から、文明から遠く隔たった異境に、洗練を極めた居住や食事を持ち込んで楽しみたいという欲望を育んできた。(…)傲慢さと隣り合わせの愉楽を持ち込むリゾートに人々はもはや感動しない。(p.126-128)

    エントランスからキーにたどり着くわずかの間にも、微細な経験が無数に織り込まれていく。(…)部屋についた客は、一息つくと、おもむろにキャビネットのドアを開け、上着をぬいでハンガーを取り出しそこにかけるだろう。あるいは冷蔵庫から冷えた飲み物を取り出して備え付けのタンブラーに注いで一口飲むかもしれない。その一種一瞬に何かがさりげなく待機していなくてはならない。ハンガーを手にした時、冷蔵庫を開けた瞬間、栓抜きを探す一瞬、そしてタンブラーの下に敷くコースターに目をとめた刹那に、もてなしの機会がある。(p.130) ※サービスデザイン

    花を活けるというのは、空間に気を通わせるということである。空間とは壁に囲まれた容積のことではない。意識を配して、配慮の明かりが点灯している場所のことである。(…)心の配信が空間に生気を生み出すのである。(p.131)

    テクノロジーは自然と拮抗するのではなく、むしろ進化するほどに自然との親和性を増し、その境界を曖昧にする。どこまでが自然でどこまでが人為か分からないような融合感にこそ気を通わせるのだ。(p.142-143)

    移動が常態化している。仕事をしながら休む「新遊牧民」。
    現代の日本人は「小さな美には敏感だが、巨大な醜さに鈍い」
    情報のアーキテクチャーとしての国立公園を作り上げていく

    5 未来素材

    このような媒質、つまり人間の創造意欲を喚起する物質を、僕は「センスウェア/SENSEWARE」と呼んでいる。(p.166)

    日本の先端繊維は安易にファッションという既存産業の仕組みに接近してはいけない。フランスやイタリアが考え出したファッションという仕組みにすり寄っていくのではなく、むしろそこから距離を置いて、新たな環境形成素材としての独自の世界を提示することこそ、先端繊維の魅力と付加価値を周知させることにつながるのである。(p.170)
    日本の先端繊維は、「世界で評価される」わけにはいかない。
    世界から評価されるのではなく、世界で機能するという主体性を持つ。これはしばらく意識し続けていることのひとつである。評価される、という受動性には、何か大きな力や文化に依存している甘えがある。(p.181)

    6 成長点
    成熟した市民社会、つまり絶対的な力や権力による抑圧がなく、ひとりひとりが自由な意思で生きていく仕組みが成熟した社会において進化するのは、ものや情報の「平衡」と「均衡」への感度であろう。(…)熱い衆愚ではなく冷静な集合知が、最も無駄なく合理的な解決をもたらすだろうという、これは思想というよりもある種の感受性のようなものが社会の中で機能しはじめている。(p.221-222)

    そうした新たな常識の裏側にも個人への抑圧は潜んでいる。「解放」と「共有」という、合理性の連鎖をうながす社会意識そのものに、特殊な抑圧が含まれていると僕は思う。(…)シェア・ハウスやシェア・オフィスはプライベート空間に他者の存在を許容していく。それを可能にしているのは、偏差をもった「個」の部分を上手く抑制できる細やかな意識の共有である。突出観のないフラットな連帯とでも言うか。おかげで台所も風呂も、他者の使用を意識してきれいに掃除され管理されている。勿論、そういう関係は「洗練」と呼べなくはない。しかし、この暗黙のモラルの共有は微妙に息苦しい。
    「ともだち」とは美しい言葉であって、これが抑圧の源であるとは誰も思わない。しかしこういう流れで考えてくると、価値共有の進んだコミュニティは目には見えない排他性を持ちうる。つまり「ともだち」化は「非ともだち」化へのプレッシャーにもなりうるのだ。(p.222-223) ※inclusion/exclusion



    あとがき

    権威ある岩波新書に「欲望のエデュケーション」という怪しいタイトルは採用されず、

    ref.
    暇と退屈の倫理学 http://booklog.jp/users/zerobase/archives/425500613X

  • あまり日本文化や歴史を知らないもんだなぁと感じた。

  • 日本の美意識や文化の中にある物事の見方を、これからの日本発のサービスや製品に生かしていこうという提案と、著者のこれまでの取り組み。刺激が多かった、また読もう

  • ものづくりに必要な資源は「美意識」であるという。それは、「繊細」、「丁寧」、「緻密」、「簡潔」にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。
    床の間におけるしつらえる知恵が急速に失われていくことを感じていますが、日本のデザインの資源もまたヨーロッパのように職人のなかだけに残ることになったとしたら寂しいでしょうね。
    石元泰博の写真集『桂離宮』に言及して日本人の美意識を説明する条がいいなあ。石元が「最初に購入した図形関係の書物が、モホリ=ナギの『ヴィジョン・イン・モーション』」とくれば、2011年7月の京都国立近代美術館で回顧展をやっていたなあ。石元はバウハウス直系の写真家です。桂離宮の踏石の写真がいい。

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著者プロフィール

グラフィック・デザイナー。1958年岡山市生まれ。武蔵野美術大学教授。日本デザインセンター代表。
文化は本質的にローカルなものととらえつつ、日本を資源に世界の文脈に向き合うデザインを展開している。広告、商品、展覧会、空間など、多様なメディアで活動。
著書は『デザインのデザイン』(岩波書店/サントリー学芸賞受賞)、『白』(中央公論新社)ほか多数。

「2014年 『みつばち鈴木先生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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