不死のワンダーランド: 戦争の世紀を超えて (講談社学術文庫 1240)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (323ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061592407

作品紹介・あらすじ

人間にとっての最大の暴力ないし災厄として、不安や恐怖の最後の対象である「死」。著者は、世界大戦による大量死の時代を背景に登場したハイデガー哲学と、それに続くバタイユ、ブランショ、レヴィナスらの「死」に真正面から向き合った思想を考察する。さらに「死の抑止」を旨とする現代医学をも視野に入れ、現代人が直面する未知の状況-「私の死」を死ぬことができぬ状況を的確に照射した画期的論考。

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  • 「死への先駆」が現存在の固有の可能性を開くとハイデガーは考えたが、これは、ヘーゲルの「精神」によって完成された「歴史の終わり」の世界に否定性を持ち込み、世界の「再分割」を要求する〈戦争〉にほかならないのではないだろうか。これに対して、レヴィナス、ブランショ、バタイユらの思想は、主体の死の不可能性を主張するとともに、そこからハイデガー哲学とは別の可能性を切り開こうとする試みだったと著者は言う。

    フッサールは、現象学的還元という操作をおこなうことで、志向性が意識の本質であり、世界と認識主体との関係の可能性はこれによって形作られると主張した。ハイデガーは、フッサールの考える抽象的な意識の志向性の発想を批判して、現存在は世界内に投げ込まれつつみずからの可能性を投企するというあり方をしていると論じた。さらに彼は、自己の死の可能性に向き合うことで、非人称的な「ひと」(das Man)という頽落から脱して、みずからの固有の可能性が開かれると主張する。

    一方レヴィナスは、意識の志向性さえもが宙吊りにされるような還元を遂行した。このとき、いまだ無規定で非人称の「ある」(il y a)が否応なくみずからを押し付けてくることになる。志向性が効力を失う「夜」においては、主体としての〈私〉の死は成り立たない。彼は『実存から実存者へ』の中で、こうしたイリヤの夜から実詞転換による〈私〉の成立のプロセスを解き明かすとともに、そこから〈他者〉へ向けての通路を切り開こうとした。

    ブランショもまた、こうした「死の不可能性」について論じている。生きている者にとって、〈死〉は自己の究極の可能性のように思える。だが、ひとたび〈死〉の支配権に入ると、〈私〉はすべての可能性を失い、〈死〉をも失いながら、〈死〉の中に消えてゆく。そこではもはや、「死」は自己の可能性ではない。むしろ自己は非人称的な「ひと」の中に消え去ってゆく。ブランショの『文学空間』の主題は、こうした「死の不可能性」にほかならない。「作品」もまた、〈死〉と同様の不可能性を帯びている。作家は、作品の完成を志向するが、それが完成に近づけば近づくほど、書くものは作品に対する支配権を失い、自分を失ってむしろ作品によって作者が書かれることになる。だが、〈死〉は一人では完了しないということは、〈他者〉の介入を待って初めて〈死〉が出来事になりうるということを示している。ここに、ブランショの「明かしえぬ共同体」が開かれることになる。

  • [ 内容 ]
    人間にとっての最大の暴力ないし災厄として、不安や恐怖の最後の対象である「死」。
    著者は、世界大戦による大量死の時代を背景に登場したハイデガー哲学と、それに続くバタイユ、ブランショ、レヴィナスらの「死」に真正面から向き合った思想を考察する。
    さらに「死の抑止」を旨とする現代医学をも視野に入れ、現代人が直面する未知の状況―「私の死」を死ぬことができぬ状況を的確に照射した画期的論考。

    [ 目次 ]
    1 「ある」、または「存在」の夜と霧
    2 私の不可能性、または公共化する死
    3 ハイデガーの褐色のシャツ
    4 数と凡庸への否と諾
    5 「不安」から「不気味なもの」へ
    6 「不死」のワンダーランド

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • ハイデガーにとって、死とは人間がその本来性=固有性を掴み取るための鍵であり、まさにその人にしか死ねないものであった。それに対しブランショは言う。死は個人のものではなく死ぬのは<ひと>だと。
    不安とは意識の要件たる志向性がなく、無に曝されている状態。そこから人間は存在忘却に気付き、存在へと耳を傾けることができる。そしてその存在とはドイツの言語である。
    不安を生み出すような人間の世界というのは、ヘーゲル言うところの否定性によってつくられた世界=すなわち歴史。
    しかし、その外側にはハイデガーが言うような楽観的な存在なり「故郷」があるのだろうか。むしろそこは個人が個人としてありえず<ひと>となり、剥き出しの「ある」が襲い掛かってくるような空間ではないか。
    そして、臓器移植などの問題で、人間の死はさらに新しい局面を迎えている。個人が死ねなくなったということが、戦争の後あらためて現実となる。資材としての死体。身体の一部は生きていて役立つがゆえに、精神的に死んでいることにされ、移植されて生き続ける。もはや個体の概念はどこに。単細胞生物が死ぬと言えないように(分裂は死であり同時に誕生なのだ)連続体としての人間。

    こんな感じで死を軸に実存について論じていたのでした。さすがにこの略は雑すぎるのに時期が来たら精読し直し。ということで。

  • 久々のヒット

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著者プロフィール

西谷修(にしたにおさむ)
哲学者。1950年生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。明治学院大学教授、東京外国語大学大学院教授、立教大学大学院特任教授を歴任したのち、東京外国語大学名誉教授、神戸市外国語大学客員教授。フランス文学、哲学の研究をはじめ幅広い分野での研究、思索活動で知られる。主な著書に『不死のワンダーランド』(青土社)、『戦争論』(講談社学術文庫)、『夜の鼓動にふれる――戦争論講義』(ちくま学芸文庫)、『世界史の臨界』(岩波書店)、『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書)、『アメリカ異形の精度空間』(講談社選書メチエ)などがある。

「2020年 『“ニューノーマルな世界”の哲学講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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