超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062880503

感想・レビュー・書評

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  • 『精神現象学』をこれほどわかりやすく解説した本はないと思う。しかし、それだけ著者の解釈が入り込んでいるわけで、本当にこの本を理解したといえるかどうかはまた別問題である。やはり原書に当たるほかない。

  • あきらめましたあなたのことは。

  • 全体のモチーフとしては自由のゆくへの問いだそうです。ヘーゲル自体も文章がヘタクソというのがよくわかったのと、本書の著者も文章はわかりづらくはないが、構成力がないので結局何が言いたいんだか頭にまったく残らない。もともとの精神現象学がそうであったとしても、アウトラインをまず示し、どこに向かって記述しているのかわかるように書くのが超解読と謳っている著者の努めだと思う。

  • 2016.3.22
    第4章"精神"まで読み終わってギブ。超解読でもかなり難しいです。でも、なんとなくでも意味は掴めて、しかもそれが非常におもしろい。特に精神の章の、道徳と良心の話は、人間はいかに生きてきて、そしていかに生きていくべきか、その思想過程、歴史過程が見えてとても参考になった。ヘーゲルは全体的に相反する2つの統一という、弁証法的思索によって話が進んでいく。個と集団という二項において、昔は個はなく、集団のみがあった。近代によって個が誕生したが、それはまた今度は個によりすぎ、集団を、つまり繋がりを失ってしまった。私が日本に関して感じている社会的イメージもこれである。ネット環境の発達、核家族化、繋がりの煩わしさから個別化が進み、それによって繋がりによって育まれるべきものがなくなっている。別の本の言葉を借りれば、命の場所がなくなっている、と言える。そしてこの二項の統合、つまり個体でありながら主体的に繋がりを作っていく、個と集団の統合が今後の歴史的、そして個人的目標となる。これは社会論というか、人類いかにあるべきかの視点でのひとつの答えである。また道徳において、それは彼岸に理想をおき、現実を愚かと否定するものであり、そこには理想と現実との対立がある。これを解消するには、理想つまり道徳の意志から、現実つまり欲望や感情、感性を陶冶するしかない。しかしそれは難しいことである。また道徳とは、理性的なものであり、正しいか否か、という正義の問題である。絶対的正しさを持って作られた道徳的理想があり、それにそぐわないものが現実と考えるものである。そこで登場するのが良心という概念である。これは、自己の確信を拠り所に、何が正しいか、何が正義かなんてのは、そういう道徳的な絶対根拠は持てない、けど私は、確かにこれが正しいと思う、という確信の問題である。この発想は竹田のフッサール論に非常に近いものがあるように思うし、こう考えると我々の知は新たな段階、つまり正しいか否かで考えるのでなく、確信によってものを考えるという認識の方向にパラダイムシフトしていくべきなのかもしれないと考える。なんにせよ良心はそのような感性的な、正しいと思ってるから正しいという確信のことであり、しかしまた道徳との違いとして、その確信を絶対のものとせず、常に変化し進化するものとして他者に開かれたものでなければならない。良心において必要なのは、自己の確信がまた他者の確信であるという確信、俺は正しいと思ってこれをやるし、社会一般もそうだろう、という確信である。そしてそれは他者に自己の確信を言明し、行動し、表明することで批判に晒すことで得られるものである。そして良心には、行動する良心と批評する良心とがいる。行動する良心は自己の確信に則って行動する良心であり、それは自らの感性、正しいと思ってる故に正しいことをやりたいという素朴な感情で動く人である。対して、批評する良心とは自己の確信に限らず人には様々な確信があって、その社会的確信に自らの合わせる人である。そして双方ともに大切なのは、自らを絶対化させないことである。外に開かれていることである。確信が絶対化すると独我論になり、そこにわかりあいの余地はない。こうして、確信に則って、ある人は行動する良心であり、ある人は批評する良心であり、そして彼らが互いに自らを開き、そして認め合う、ここに相互承認という近代における最も大切な社会原理が生まれることになる。私個人に還元するなら、私はまさに批評する良心であり、しかも他者に開かれるどころか、人と人はわかりあえない、ならば分かり合う努力など無駄に等しいと思い無口を貫く人だった。または承認欲求を丸出しにすることが恥ずかしかったのもある。しかし本当の良心的確信は、自己の確信を社会に晒して、他者の確信と擦り合わせなければならないのだ。分かり合う努力を避けるだけでは私は本当の確信を得られず、独我論的世界観で自己満足に浸ることになる。承認欲求によって、認めて欲しいから口を開くのではない、私のこの確信は果たして人に認められるのか、それを試すために口を開こうと、そう思った。正直理解は乏しいのだが、非常に参考になる知がここにはあると確信できた一冊。また読みたい。

  • 難解と言われてる本の解説本も僕には難解だった。でも内容としては分かりやすく丁寧に解説している印象は持ったし、人の批評とか分析って読んだり聞いたりするのは楽しい。

  • 難解で知られる『精神現象学』の筋書きを “表象として” おおまかに把握するのに役立った。

    ヘーゲルが問うたのは、個人と社会、公と私、理想と現実……これらの対立をどうするかということであった。今なお問われ続けている普遍的なイシューである。

    カント倫理学を手厳しく批判した第4章が特に読みごたえがあった。

    “しかし実際には、ここ〔カントの思想〕にあるのは、純粋な「普遍性」(理想)と「個別意識」(現実)とが、いかなる条件で一致するかを洞察する思想ではなく、この統一(徳と幸福の一致)が “存在してほしい” という単なる欲求なのである”(p203)

    “両者〔感性と理性〕の一致あるいは統一と言っても、その内実は、あくまで「感性」が「道徳」に従い、寄り添うことが求められているのだ”(p204)

    “つまるところ、カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、(……)ただそういう〔不道徳な〕人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか”(p214)

    カントの絶対的・普遍的な「道徳」に対して、ヘーゲルは相対的・個別的な「良心」という概念をアンチテーゼとして示す。

    “正しさについての「理想」をもち、したがって何が「正しい」かは明らかであり、自分のみならず他人もそれにしたがうべきだ、と暗黙のうちに考えている人は「道徳の人」である。これに対して、「良心の人」は、世の中の現実はさまざまな事情が複雑にからみあっているので、「何がほんとうに正しいことか」についての絶対的な「知」は存在しえない、ということを自覚している。「社会についての全知はありえないが、それでも自分は自分の信念に則って正しいことを行いたい」と考えるのが「良心の人」なのだ”(p226)

    “「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。つまり自分の「感性」においている”(p227)

    思うに、根源的な理論としてはカントが正しいのだろうけど、現実的な実践としてはヘーゲルが正しいのかと。カント倫理学に共感を寄せる者として、カントのアンチテーゼの代表格であるヘーゲルは、是非とも理解しておきたいのだけど、まだまだ理解が不十分と感じる。別の解説書にも当たってみようと思う。

  • 古書。初ヘーゲルだが、これをそれに含めてしまってよいものかどうか疑問も残る。巡り合わせというのは書物と関わっていく上では意外に重要で、以前読んだハイデッガーの入門書同様、ヘーゲルとの巡り合わせも相当悪い部類に入るようだ。精神の遍歴を逐一記述していくという体裁(多分)の『精神現象学』を平易に読み解くという荒行に挑んだのが本書。懐疑主義、啓蒙に関する部分は大いに唸らされたが、後半(特に終盤の「宗教」辺り)は余りに一面的過ぎるし粗が目立つ。カントを乗り越えようという必死さは十二分に伝わったけど!

  •  
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4062880504
    ── 竹田 青嗣&西 研《超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』20100519 講談社現代新書》
     
    …… 《100分de幸福論 20140120-0125 15:00 NHKe》
    http://blogs.itmedia.co.jp/ten/2014/01/post-4004.html
     
    (20140203)
     

  • ヘーゲルの難解な主著を、「なるべく」本に沿いながら、「なるべく」わかりやすく解説しようと試みた本。もちろん、ヘーゲルについての基本的知識がなかったらわかりやすくもなんともないので、「初めてのヘーゲル」的な本をさがしている人にはまったく不向き。もちろん『精神現象学』を読んだふりをしている僕のような人はこれをこそっと読むべき(笑)

  • ヘーゲルの原著は難しいのだろうなあ、という印象から、とりあえず本書を手に取ってみた。竹田青嗣だし、わかりやすいだろうと期待していたが、なんとか理解できたと思う。人間の成長と人間精神の発展を重ね合わせるという構想だけきくと何とも眉唾であるけれども、本書を読んだ限りでは大いに納得のいく議論になっている。個人と精神の発展において通過する段階の分析は、どれも痛いところをついている。誰もが通過する触れられたくない過去の考えや行動を、これでもかと詳細に解明されてしまうと、赤面せずにはいられない。

    しかしそれよりも、ぼくの短い読書歴の中でも、後の哲学者や思想家が明らかにヘーゲルから影響を受けていたのだということが発見できる箇所がいくつもあって、やっぱりヘーゲルは読まないといけないと痛感させられた。本書を羅針盤代わりに原著に挑戦してみるかな・・・

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著者プロフィール

1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。著書に『「自分」を生きるための思想入門』(ちくま文庫)、『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』(講談社)など。

「2007年 『自由は人間を幸福にするか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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