今を生きるための現代詩 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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感想 : 61
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882095

作品紹介・あらすじ

詩は難解で意味不明? 何を言いたいのかわからない? 
いや、だからこそ、実はおもしろいんです。

そもそも詩とは何か。
詩を読むとはどういうことか。
「技巧」や「作者の思い」などよりももっと奥にある詩の本質とは? 

谷川俊太郎、安東次男から川田絢音、井坂洋子まで、日本語表現の最尖端を紹介しながら、詩を味わうためのヒントを明かす。
初めての人も、どこかで詩とはぐれた人も、ことばの魔法に誘う一冊です。


「詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。」(本文より)

感想・レビュー・書評

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  • 詩の楽しみ方、面白さを教えてくれる本だった。
    そして、詩は難しそうだと思っている人も多いかもしれないが、書いている本人さえ、詩が自分を超えてしまい、完全に理解しているわけではないんだと、だから、「知らない」「わからない」ことを楽しもうと、投げかけてくれた。
    私が大切にしている、「ネガティヴ•ケイパビリティ」に通ずる考え方だ。
    わかってしまうとつまらない、何度でもくりかえし読むことができ、読むたびに新たな発見がある。それこそが、本当に価値のある作品なのだ。

  • 荒木博之さんのブックカフェだったか、超相対性理論だったか、まあどちらかを聴いて興味を持った。

    文章を読むのが人より少しだけ好きなことは自覚しているが、正直に言うと詩について興味関心を持ったことがこのかた一度もなかった。
    短歌や俳句には、ちょっの面白そうだな、と思うぐらいの興味が湧いたこともあったが、散文…ましてや現代詩はどうも読む気にすらなったことがない。

    Podcastでこの本が紹介された時に、その本自体への評判よりも、それが何故なのかなー…ということ、つまり自分自身に対しての長年の問いが先行して、読んでみようと思った。

    そしてその問いの答えは、早々と第1章で明かされる。
    谷川俊太郎さんの生きる、という詩。
    読んだことはあったかもしれないが、まったく覚えていない。
    今回、本書に収録されていて改めて読んだが、とても読みやすかった。
    なかなかいいな、とすら思った。
    子どもにこれを読ませたいという気持ちもわかる。
    ところが、子どもサイドに立ってみれば、少々事情が違うらしい。
    この詩は、人間を生きていくうちに徐々に味わう人生の機微、文脈を知らずしてはなかなか噛み砕くのがむずかしいタイプの詩である、というのだ。
    この詩におけるテクニックやら、教養、知識をただ教え込まれ、正解とされる読み方を単に上から与えられるというのは、読まされて読者になった子どもにとっても作者の谷川俊太郎にとっても悲劇でしかない。

    なるほどなぁ…。

    思い返してみれば、確かにそういうところ躓いた気もする。
    今読むといいんだけどな。

    長年の問いがあっさり明かされた後に読んだ第2章以降は恥ずかしながらどの詩人のお名前も知らなくて、収録されている、詩はまさにいままで興味すらなく読んでみたこともないようなthe現代詩。

    …え、全然わからない…。

    いや、第1章で現代詩に興味がなかった原因がわかって克服したはずでは?!

    結論を言うと、2章以降の詩はどれもわたしにとっては不可解で、
    読んでこなかった本当の理由は「わからない」を不快なものとして刷り込んできたからだ、ということがよくわかった。
    (特に音読ができない詩、というのはわたしにとってとても大きいハードルだと気がついた)

    そもそも味わい方を知らない。
    どうしても作者の意図を読もうとする。
    わからないものをわからないまま棚上げにできなくて、わからないものは自分にとって意味のないもの、意味のないものは良くないもの、という刷り込みが働いている。

    著者である渡邉さんの解説を読みながら、そうやって読むのか!
    と、再びチャレンジした、私にとって不可解で意味のない言葉たち。
    それが、わからないなりの違った見え方でにじり寄ってくるような感覚になった。

    この感覚は、去年からハマった絵画鑑賞に近い。

    意味はわからないけど、わからないことは悪いことではない。
    もやもやとわからない不快感を胸に置きながら、それが未来に伏線となってスパークする日も、もしかしたら来るのかもしれない。
    少なくとも、こんなにも不可解で、物事のぼんやりとした輪郭や、世界にはびこる言葉にしようがない気配、みたいなものを言語化するなんて、意味はわからないけどなんだか凄い技術だ、ということはわかった。

    それにしても著者である渡邉さんの、詩を嗜む、味わうための方法について論じる文章が本当にわかりやすく際立っていて、目から鱗が落ちまくる。
    わからなさを愉しむ作法をわかりやすく言語化している本書。
    これまた凄い技術だ。

    いやぁ…2024年、一発目の本としては、かなり相応しい良書。

    今年は詩集を読んでみよう。



  • 詩人が詩を書き推敲する中で見つける美しいフレーズは、数学者が難問に取り組む中見つける非常にシンプルで美しい数式のようなものとい説明が腑に落ちて印象に残っている。

  • 現代詩の世界に入りたいんだけど、多分まだ経験が浅くて言葉の上を滑ってばかりいる。この本は渡辺さんが一緒に声をかけてくれながら並走してくれる。速度感とかどこを使って読めばいいかとか真似させてくれるので今まで無感覚だった所に沁みてきながら、詩に関わることができたら。

  • 某ポッドキャストでおすすめされてたので手に取った。

    『第2章 わからなさの価値』や『終章』で語られている「理解できないものたちへの向き合い方」は、自身の今後の学びにおいて、立ち止まってじっくりと迷う勇気をもらえた気がする。

  • 現代詩と和解する。
    「解説」を目指さずに、現代詩と触れ合う場に誘ってくれる。

    「わからなさ」を受け止め、向き合い、未来と響き合うことを期待する。

    ◯「実感の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去に置いている。
    ◯それに対して、自らの表現が未来と響き合うことを期待している。

    ◯一般に人は、実力が足りないときには、対照を否定することしかできない。

    ◯詩は、「伝えたい内容があらかじめあってそれを表現する」ものではなく、「表現がさきにあって、結果的になにごとかが伝わる可能性を未来にむけて確保している」

    ◯なぜ、この詩がここで書かれたかを問うことも、この詩を書くことによって詩人がなにをなそうとしたのかを問うことも、無意味のように思われた。わたしにはただ、強くあざやかな「わからなさ」の感触だけがあった。そしてそれは、ふるえるほど魅力的だった。

    ◯「接近しようとするこころみの途上」にあるとき、人はじつにいろいろなことを知り、感じ、考える。あらたなアイディアをもってその詩の謎に向かうとき、あらたな自分がうまれる。

    ◯音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、という点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊な言語である。
    ・音読不可能性

    ◯だれにでも通じることばは、深みというものをもたない。「通じる」度合いが高ければ高いほど、そのことばは記号化し、符牒のようなものになっていく。
    詩のことばは、そうしたことばの対局にある、孤独のためのことばだ。

  • 501

    人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。

    渡邊十絲子(わたなべ としこ)
    1964年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科在学中、鈴木志郎康ゼミで詩を書きはじめる。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞受賞。詩集『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)、『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。書評集『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)。エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)。ことばによる自己表現の入門書『ことばを深呼吸』(川口晴美との共著、東京書籍)。本を読み書評を書くこと、スポーツ観戦、公営ギャンブルに人生の時間と情熱をささげる。月刊専門誌「競艇マクール」のコラムは連載14年め。

    歌もそうだ。一分の隙もなく楽譜に指示されているとおりに歌を歌えたとしても、 それが人のこころを動かすことに直接はつながらない。たとえ技巧はへたであっても、楽譜どおりに歌えていなくても、その「理想とのずれ」には意味がある。息継ぎやため息のようなノイズにさえ魅力はある。歌っているのはたしかに人間であって、 「こう歌おうというプランの機械的な遠成」ではないことを感じとらせるからだ。

    人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。

    失敗は失敗だけれども「こんなところまで攻めることができた」。それを感じて、 われわれ人間は芸術に感動するのではないか。その感動は、一流のスポーツ競技者を 見るときの感動とまったくおなじものであると、わたしには感じられる。 詩もそんな試みであってほしかった。あらかじめ伝えたい内容が決まっていて、それを過不足なく読む人にわからせるのは、詩の使命ではないと思った。

    ある詩が、そのときその人にとって「わかりやすい」ということはつまり、あたまやこころのなかの既知の番地に整理しやすいということである。

    なるべく道を一直線にして、寄り道や袋小路を排除し、誰でもおなじ道をまちがいなくたどれるようにマニュアル化する。そういう行為を、われわれは詩の外であまりにもたくさんこなしてきた。ビジネスの場でも、教育の場でも、あるいは家事のようなことにおいてさえ、効率を目標にしてきた。それは一見、むだをはぶいて経済的でもあり、人間に余暇をもたらすようにも見えたかもしれない。しかし、いまやわれわれは効率のあじけなさを知り、効率を最優先にした行動がいかに人間的なこころをだめにするかも知っている。

    わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。

    詩とは、あらすじを言うことのできないもの。詩とは、伝遠のためのことばではないもの。「なにかでないもの」という言い方ならばできそうだが、「詩とはこれだ」とひとことで言うことはむずかしい。 詩は、雨上がりの路面にできた水たまりや、ベランダから見える鉄塔や、すがたは 見えないけれどもとおくから重い音だけひびかせてくる飛行機や、あした切ろうと 思って台所に置いてあるフランスパンや、そういうものと似ている。

    数学者が難問にとりくんでいる最中に、非常にシンプルで美しい式を得たら、かれはその正しさを確信するにちがいない。 おなじように詩人は、詩を書き、推敲し、詩句をひねりまわしている最中に思いが けない美しいことばを得たら、その詩の正しさを確信するのである。

  • 読みはじめる前、とても不安だった。
    詩というものがわからない自分がここに書かれてあるものをちゃんと理解できるのか。
    国語が嫌いだった自分に、ここから意味が見出せるのか。
    最初の数十ページで、そんな不安に寄り添ってもらったような感覚になった。
    自分の世界を広げる意味で普段手にとらないような本をたまに手にとって読んでみる。今回は大成功だった。自分の中にある詩の概念がまるっきり変わった。そもそも定義や概念自体曖昧なものだったことに気付かされた。単なる詩の解説本でも、紹介のたぐいでもない。深く思考して言葉を味わうスキルがなくても、ある程度のところまで連れていってくれる。詩はこんなにも自由で壮大だったのかと、この歳になってもまだ新しい感覚があったのかとワクワクさせられた。人の心に関わる仕事をしている自分にとって、新たな視点がもらえた。自分の好きな詩を探してみようと思う。まずは作者の方の詩から。
    死ぬまでにあと何回かは確実に読むだろう本に出会えて感謝。

  • 詩を書くものにとってよき道標となる良書だ。何より作者自身が詩人であるため、具体的な例を上げて解説しており、分かりやすい。現代詩の妙味を次の五つの切り口で語っている。
    1.教科書のなかの詩
    2.わからなさの価値
    3.日本語の詩の可能性
    4.たちあらわれる異郷
    5.生を読みかえる

  • 何度か読み直しているのだが、とても素晴らしい名著。
    以前読んだときはちょうど詩に興味を持ち始めた頃だったのだが、ある程度読んだ今読んでもやはりこの本は良いなあ、と思う。
    詩に触れるときにその余白の広さや飛躍から、わけのわからないところに連れて行かれたような気持ちになって戸惑うことがある。その戸惑いを楽しめるか、わからないものとして拒絶するのか。その戸惑いや疑問もわからないものとして受け入れることが出来れば、詩をもっと楽しむことが出来る、自分が何に疑問を持つのか、それすらも発見になるというようなことが本著に書かれている。
    自分は映画が好きで人の数倍も映画を観ているのだが、同じことを映画を観ていても思う。意味のわからなさやどこに連れて行かれるのかという飛躍、解釈することの難しさや余白の広さはそれ自体が映画を豊かにしていると思うのだが、多くの人はそのわからなさをわからないものとして拒絶してしまう。
    自分が詩や俳句、短歌に惹かれるのはそのわからなさに惹かれるからだな、とこの本を読んでわかった。

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著者プロフィール

渡邊十絲子(わたなべ としこ)
1964年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科在学中、鈴木志郎康ゼミで詩を書きはじめる。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞受賞。詩集『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)、『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。書評集『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)。エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)。ことばによる自己表現の入門書『ことばを深呼吸』(川口晴美との共著、東京書籍)。本を読み書評を書くこと、スポーツ観戦、公営ギャンブルに人生の時間と情熱をささげる。月刊専門誌「競艇マクール」のコラムは連載14年め。

「2013年 『今を生きるための現代詩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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