- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062882576
作品紹介・あらすじ
【目次】
第1章 歴史をどうとらえるか
第2章 揺らぐ国家
第3章 非国家的存在の台頭
第4章 伝統的な「国際関係」はもはや存在しない
第5章 普遍的な「人間」の発見
第6章 環地球的結合という不可逆の流れ
結 語 現代の歴史と記憶
感想・レビュー・書評
-
アメリカ歴史学会会長を務めた入江昭。
1990年以降、
歴史研究に枠組みが変化。従来は国家単位。いまはより広範囲、太平洋とか大西洋、世界全体に広がった著述が増えている。グローバルとかトランスナショナル。
背景はそれまでの歴史研究が欧米中心だったのでは?世界の欧米以外の地位の高まりと合わせて。西洋をディセンターする試み。ジャレドダイヤモンド、ブローデル、そういう本が増えている。
そもそも国家とは何か?地理(境界線)と歴史(過去)によって定義された人間集団である。長い歴史の記憶を共有すること。
EUの本質は「記憶を共有するコミュニティ」。
アジアで日本を中心にこれが作れるだろうか?欧州にはもともとヨーロッパという概念がありがアジアにはなかった。今からはアジアから太平洋という枠組み。パシフィック・リム。
過去をどう共有するか。経済面ではアジア太平洋地域は巨大。世界貿易の5割以上。
しかし記憶の共有が難しいのでEUのようにまとまりがたい。むしろ日本は特別な国な回顧の動きも。
我が国、l我が民族最高的な偏狭なナショナリズム史観は世界から孤立する。
19世紀のグローバル化は西欧諸国の世界進出。帝国主義。
20世域後半から全てに国が、ヒトモノカネの移動が拡大。さらに国を超えたセクターでのグローバルなつながりが拡大。
例えばSNS、NGO、環境問題、パラリンピック、LBGTなど国家を超えた世界的ネットワークが生まれている。国家間の関わりを示す外交という言葉が時代遅れに。各国の国内の勢力同士が国を跨いで繋がる内交の現象が出現。それが目立ってきている。
グレタさん現象などは典型。
国家の繁栄を目指す国家主義と地球(グローブ)の繁栄を希求するグローバリズムは違う。ナショナリズムの対局。地球全体で考えるとそこに生存する全生命を視野に。プラネット意識、ぷらねたりずむという言葉も出ている。
例えば人権。戦前は人種毎に人権が違って見える普通だった。肌の色で人権み違った。
いまは、すべての人間は健康な生活を営む権利を与えられるべきだというが人権。
例えば医療。
誰でもどんな人でも医学サービスを受けれるというには最近のことでつい最近まで乳幼児死亡率は高い地域が多数。20世期末に15%が21世紀初頭は6%。
例えばハンディキャップのある人たちも包摂する取り組み。今では区別せずに包摂する方向。
ますます国単位ではないグローバル化が広がる。
20世期末に頭に世界人口は16億人。ww2の直後、世界人口は25億人。87年に50億人。いま80億人。2050年で96億人、2100年で110億人。難民ではなく労働力として移動する人が増えている。さらに十人に一人が海外旅行する時代に。留学生も増加。SNSの人口も爆発。
2019年、世界のインターネットユーザー数は43億8,800万人、SNSのユーザー数は34億8,400万人(普及率45%)
そしてトランスナショナルの動きが加速。あらゆるものが混血化していく。これは不可逆の流れ。食事やアートやスポーツも世界からハイブリッド化は身近に進んでいく。
その先にあるのは?
地球は宇宙の一部に過ぎないという惑星意識、プラネタリティが高まるのも現代史の特徴。発見そのものはガリレオだけど全てに生命の共同体意識は最近。「一人の人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩だ」のアポロ の言葉があるがそれが実態をもち始める時代に。
環境意識もトランススナショナルな意識加速から生まれてきた。経済か環境か?で70年代から議論してるが、自然環境保全可能な枠組み内での経済発展というlサステナビリティという概念が誕生。
これから現代史を考える上で大切なこと。
歴史認識と解釈は違う。解釈は多様でも認識は一つであるべき。ファクト。
ごっちゃにしないことだ。
現代になってすべての国や人種を超えた人権意識、健常者と障害者、人と他の生命を優劣ではなく多様性を持って捉える動きが広がる。現代とは多様性の拡張ではないか。近代とは国家単位。
人類的記憶として可能性を感じるのは気候変動の克服。こも大変な経験は共通の記憶になり得るのではと考えさせられた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
現代哲学の流れにおいても、人間中心主義や西洋的理性中心主義の反省から、脱中心化的な動きがあった。歴史学のなかでも、国家間の「インターナショナル」の歴史から、国家の枠を超えた「トランスナショナル」、地球規模で環境などにも焦点を当てた「グローバル」な視点からの歴史認識への変遷が最近の動きという。また、軍事・経済面中心のハード・パワーから、文化や技術の影響力といったソフト・パワーに焦点を当てる流れにもなってきているらしい。
そうした中で、「歴史解釈」にはいろいろあれど、歴史自体は不変であり、歴史の事実について国家の枠を超えた人類の「記憶の共同体」の構築が必要である。
これを支えるのは、地球人としての認識であり、国家や民族という意識だけではなく、ジェンダーや障がいの有無などを超えた、人権意識の構築の重要性について語られていた。
近代から現代に至る歴史の流れの中で、情勢は着実に前進しているとの指摘はその通りだと思う。しかし、日本や世界の現状を見るに、そう安堵できるものではなく、これらの課題の解決に向けた言及がないところに物足りなさを感じた。 -
現代とは何か。世界の歴史はいつから「現代」に入ったのか。現代と近代は何が違うのか。歴史学の泰斗が歴史のとらえ方と今を考えるためのヒントを平易に語る。【「TRC MARC」の商品解説】
関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB40205381 -
209-I
小論文・進路コーナー -
2014.11記。
入江昭氏の(新旧)「日本の外交」と言えば、外交官試験のスタンダードな教科書。著者の作品はもちろんこれだけではないが、同じ新書でもあり、本書は事実上「三部作の最終作品」の位置づけに見える。
企業やNGOなど、国家という存在を乗り越えるアクター(Non State Actors)の動きなしに世界を語ることは不可能な現在、「『国益』の固守と発展という、伝統的な国際関係の概念が作り出した『パワーゲーム』はほとんど意味を持たなくなっている」(P.131)、と著者は問う。
国家というフィルターを通さない最新の歴史学では、地域間の人や物の移動をダイナミックに捉え直すのがトレンドだ。国家の役割を低く観ることに抵抗を覚える人もいると思うが、著者の主張が、こうした動きから目をそらせば日本が取り残されてしまう、との危機感を背景にしていることも同時に理解する必要があるだろう。
国家とは、「各自の地理と歴史とをとおしてのつながりがあるのだ、という原則」(P.56)に基づいて成立した。私自身は日本の「地理と歴史とをとおしてのつながり」に強い愛着と帰属意識を持っているが、同時にこの共同体がどのように変容していくのかについては、常に最新の知見を取り入れていきたいと願っている。 -
【由来】
・講談社のメルマガ
【要約】
・
【ノート】
・ニーモシネ
・歴史研究においては、もう、国家単位での把握ではなく、様々な主体による関係論から、ひいては環境も含めた全地球的な視野で捉えるようになっているらしい。グローバリズムが進むことによって、国家が相対的に弱体化し、また同時に、欧米のポジションも相対化していった。この結果、国家以外(例えばNGO)や新興国など、プレーヤーが増えていった。このため、世界史観が国単位から、よりそのスコープを拡張していった。
・これは、歴史研究において、目新しいパラダイムではないらしいのだが、自分は全く知らなかったので、興味深く読み進めることができた。また、「国家」の枠が問い直されているなと感じる場面は、インターネットをはじめとして、色々な分野であるのだが、歴史研究においても同様なのだと知った。
・「歴史家」というのが、どのような役割を果たしている存在なのか、これまで今ひとつ、よく理解できなかったのだけど、本書で自分なりのイメージができた。
【目次】
第1章 歴史をどうとらえるか
第2章 揺らぐ国家
第3章 非国家的存在の台頭
第4章 伝統的な「国際関係」はもはや存在しない
第5章 普遍的な「人間」の発見
第6章 環地球的結合という不可逆の流れ
結 語 現代の歴史と記憶 -
歴史学者として評価の高い入江昭の新書。
ただし「歴史学者ってこういういい加減な内容の本を書く人なんだっけ?」と感じざるを得ない。
まず前書きで「どこまでが近代で、いつから現代になったのか」という問題に取り組むように見せて、その結論なく終わってしまうのがかなり違和感を感じた。ただ違和感はそれだけに止まらない。
「ソ連の崩壊を予測したものは誰もいなかった」という事実と異なる点、「言語、種族、血縁関係」などによるつながりを、「倒錯したつながり」とする点もかなり疑問。「父母を想う人は倒錯している」との指摘は、単に共産主義的なイデオロギーを「グローバル化」に置き換えて繰り返しているに他ならないのではないか? 血縁関係の重視を「倒錯している」とするのであれば、その根拠をしめしておくべき。
そもそも日韓の「歴史認識の問題」は、「歴史の事実の曲解」であって「認識の問題」とは異なるのだと思うけど。
例えば「大国と小国」という捉え方を「二項対立だ」と批判しておきながら、「現実主義とグローバリズム」の二項対立で話を進めるなど、もう途中で読むのやめたくなった。
あと「混血を進めていくべき」といった感じで、グローバリズムに軸足をおいて「べき論」で語られると読んでるこっちはかなりキツイ。極端な話「民族浄化を肯定しているのか」とも読めてしまう。つまりは「グローバル化が正しいのであれば、それは暴力を持って進めて良いのか」という問題があるのは当然なのだと思うが、それについては何も語らず。おそらくは著者がバカなので気がつかないだけだと思うと悲しくなる。
https://twitter.com/prigt23/status/1033247574113701889 -
米国に半世紀以上住んでいる日本人歴史家による、来るべき歴史のあり方のようなもの。グローバル・ヒストリーであるとかトランスナショナル世界主義、国際主義という言葉で説明しようとしている。トラディショナルな歴史感覚から見れば眉唾だが国家の枠組み、西洋的進歩観、大国の枠組みそういった枠組みで歴史の事実を解釈している時に生じる知の空白、国家という枠組みを越えたネットワークのもたらす新しい変動。国家という枠組みと連動している文化や風習宗教もそれに入ってくる。そういったものも考慮しながらの普遍的な人類像。グローバルといえば今は、米国の都合のことと思われているし実際そうなのだろう。しかし、ここに書いていることは踏まえるに値する。世界市民的感覚をどう共有するかそれを最上位に持って行って現状を転覆するようなことはナンセンスだけれどだからといって人として大切なことを国の枠組みにとらわれず見つめる視点も大切だと思う。