人外

著者 :
  • 講談社
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感想 : 16
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  • Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065147245

作品紹介・あらすじ

神か、けだものか。アラカシの枝の股から滲みだし、四足獣のかたちをとった「それ」は、予知と記憶のあいだで引き裂かれながら、荒廃した世界の風景を横切ってゆく。死体を満載した列車、空虚な哄笑があふれるカジノ、書き割りのような街、ひとけのない病院、廃墟化した遊園地。ゆくてに待ち受けるのは、いったい何か?世界のへりをめぐるよるべない魂の旅を描く傑作小説。

感想・レビュー・書評

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  • カワウソのような人外が、人間以上に意識を持って終末の世界を横断して行く。

    何とも不思議で美しくて難しい本。
    小説というより、詩を読んでる感じだった。

  • 木の股から滲み出るようにして生まれ落ち、かつて人間だった頃の記憶を持つ「わたしたち」は、やがて四足の猫ともかわうそともつかないような形状の生物のカタチをとるようになる。「わたしたち」は、人情を解さない自分のことを「ひとでなし=人外(にんがい)」であると考える。人外は川を流れ、「かれ」と呼んでいるものを探す旅に出る。

    一種のロードノベルのようでもあるし、なんとも説明しがたい不思議な物語。序盤は輪廻転生ものかとも思ったけれど、どうやらそういうわけでもなく…というのは、特定の個人の物語ではなく、あくまでこれは「わたしたち」の物語であるからで、強いていうなら、輪廻というよりは「生生流転」がテーマという感じだろうか。円や螺旋のモチーフが沢山出てくる。

    もともと慣用句で「木の股から生まれる」というと、人情を解さない、木石のように心の動きのない人間を差して言ったりするものだが、本作の「人外」はまさにその言葉通り木の股から生まれる。

    人外が生まれ落ちた世界では、ヒトはすでに滅びかけているようだ。どうやら疫病らしきもので亡くなった子供の死体が無残に投げ捨てられていたりする。人外は見張り小屋の老人や、眼帯の女性タクシー運転手、伝染病で死んだ人たちを積んだ列車で乗り合わせた偽哲学者、地下カジノでルーレットを回すクルピエ、チンパンジーと暮らす元図書館司書、迷宮のような廃墟の病院に隠れ住む病院長、廃遊園地のロボットゴンドラ漕ぎらと出会いながら、ついにある水族館へと辿り着く。

    廃遊園地のゴンドラ漕ぎの場面が妙に好きだった。まるでギリシャ神話の冥界の川の渡し守カロンのようで。ある意味、人外はここで三途の川的なものを渡ってしまったのかもしれない。そうして辿りついた水族館で、人外は、自分以外の新しい人外が生れる場面を目撃することになる。それ以降の旅は、もはやとりとめもなく目的もない。

    最後に人外は、川を遡り、自分が生まれたと思しき場所へと還ってゆく。物語もここで円を閉じ、あるいは閉じたように見せかけて実は螺旋を描いてまた繰り返していくのかもしれない。「かれ」とは結局なんだったのか、それは「死」のことだったのだろうか。寓話的でとても美しい物語だった。

  • 「人外(にんがい)」(松浦寿輝)を読んだ。
    
面白い!
    
アラカシの枝の股から滲みだした(神ともけだものともつかない)「それ」が、(何故か過去の記憶に囚われ)探し求める「かれ」とはたして出会えるのかどうか。
    
そして「世界」は滅びようとしている。
    
少し難解なところもあるけれどしだいに物語に惹きつけられていく。
    
印象深い文章をひとつだけ抜きだす。
    
『世界と世界ならざるものとの境界に身を置きその両方に魅了され引っ張られ、しかしどちら側にも身を落ち着けられずにいるものだけが知るせつなさでありやるせなさであるようにおもわれた。』(本文より)
    
〈あゝ、われわれの世界も滅びようとしているのかもしれないな〉と、思う。

  • 『暖かな血がまたふたたびからだのなかを循環しはじめようと野ねずみの肉を喰らい血をすすって恍惚としようとわたしたちはあくまでもつめたかった』―『1 発端』

    松浦寿司の闇の深さは、普段きれい事で問題を片付けようとする自分の志向を激しく揺さぶる。その救いの無さが返って潔い。それでもこのスノビッシユな文章は一々鼻につく。この作家はそれを露悪的に書くことを意図しているので意地が悪いとしか言いようが無い。それでも何故かそんな文章を求めてしまう気持ちがある。

    何かを当て擦っているのか、そうではなく単に作家のボキャブラリーなのか、それが判然としない言葉の並びに馴れて文脈を気に掛けなくなってしまうと、この作家の文章は急に底が浅く思えてしまうこともある。しかし何か人間が根源的に抱く違和感をこの作家ほど端的に書き表す作家を他に知らない。それ故、強い拒絶感を押し付けられているのを感じながら、何故か読み続けてしまう。

    惹かれながらも、何処かで受け入れたくはないという気持ちにもなる。深読みするべきと思いながら、レトリックに嵌りたくないという思いにも囚われる。人外をわざわざ「にんがい」と読ませる意図は何なのか。そんなことを考えていると、松浦寿司の皮肉な冷笑がイメージされてしまい、前にも後ろにも進むことが出来なくなる。難読の漢字をまぶしながら、平仮名を読みにくい程に連ねる文章で閉口させることにはどんな意図が隠されているのか。そんな事ばかり気にしていると、言葉の意味が立ち上がらせるべき心象を何も再構築出来ぬまま頁だけが進んでしまう。

    一つだけはっきりしているのは、老いが作家を回顧的な気分にしているであろうということ。その境地に至った時でも、人は諦観というある意味到達点とも言える感慨に中々に至ることは出来ない、ということがひょっとするとこの作家が言いたいことの全てなのか。そんな思いを抱きながら読了する。

  • アラカシの巨木の大枝が幹と分かれる股のあたりで、樹皮からずるりと滲み出るようにして地上に落ちた「わたしたち」は、意識が明るみ、言葉が点滅し、過去が響きやにおいや色合いを伝えてくるなか、なにやら四足獣のごとき形の「わたし」、つまり「人外(にんがい)」になっていた――。

    無縁、それが人外だった。だれともなにとも無縁、この世のいかなる縁ももっていないひとでなし。それは、だれもなにも、愛さない。

    不気味に不可解に、物語ははじまる。「人外」は、やがて「かれ」を探して川を下る。しかし「かれ」とはいったいだれのことだろう?
    川岸には人間の住む集落がある。けれど、そこには死が蔓延し、人口は激減。街は寂れつつあった。

    乗客がみな死んでいる列車、虚しく賑わうカジノ、図書館の跡地、廃病院、誰もいない遊園地。世界のうちにとどまりながらなかばそのそとにはみ出して生きざるをえないことのせつなさ、やるせなさを抱きながら、「人外」は黄昏の世界のさびしい風景のなかを彷徨う。そこで出会う人びとはみな死んでいる。死にかけている。酒に酔っている。おびえている。そんなふうに茫洋とたたずむ人間たちに、「人外」は語りかける。あなたはだれ、と。

    「人外」は彼らと出会い、別れることであわれみやおもしろさやさびしさの意味を知り、時間は流れ――または流れなかったのか――やがて終わりの時が来る。過去と未来、生と死は螺旋を描きながら永遠にめぐりつづける――。


    過去ではたぶん人であったものが人でないもの、猫ともアナグマともつかないけものに化身して、長いながい旅をしてまたその生を終えて溶けてゆく。はじめは気味が悪いこの存在は、寂寥感あふれる彷徨いのなかで、どんどん可愛くみえてくる。だってひとでなしの「人外」というくせに、このこの一生はまるで人間そのものじゃないの。
    わたしは自分がこの物語を本当に理解しているとは思わないが、さびしい「人外」の、つめたさとあたたかさのあいだにゆれる心が愛おしくて大好きだ。

    人外に出会って、「あなたはだれ?」と問いかけられてみたい。そのときわたしは、自分をなにものだと答えることができるだろう。

    「……わたしは――」

  • みんなそうなのだ。
    意思を持たず、重力にしたがって物が落下するように生まれてくる。
    世界と自分を区別し、自分の姿があきらかになっていく。
    やがて世界と自分の区別はなくなってしまう。
    みんなそうなのだ。人外も、人も、世界の様相も。
    人外のように、自分の言葉と想いはいつもどこかで滑り落ちて形を成しているのかもしれない。

  • 読んでいて、小説ではない一つの世界を紐解いている感覚。
    極端に句点の少ない長文がだんだんと心地良く、ずっと読んでいたいけれども、世界はうつろい、物語も終焉を迎える。
    らせんと円、私・わたしたちと彼、存在と不在、意識と世界。
    これから何度も読み続けたい。

  • 人外、人でなし、死者、アウトサイダー、動物、あるいは神…わたしたちという一人称複数で語られる本書の主人公は、そのいずれでもなく、そのいずれでもある。

    本書はいわば、そんな人外が地獄めぐり=煉獄めぐりをするロードムービー小説。

    文体はときに、古井由吉を彷彿とさせる。でも古井氏と違うのは、サービス精神が旺盛なんだな。

    かれ=死を求めて

  • 人外とは?と思いつつ読み進めていくと、どうやらこれはすっきり出来ない物語であるのだな、ということに気づく。
    人あらざるものを通して生きるということを表現してるのかな?

  • “わたしたち”の起源はどうやら無機物で、無機化合物の水がアカシアの木の根に吸いあげられ、やがて樹液と混ざって有機化合物となり、木の外皮の外へ出て“わたし”に変じたようだ。言葉を解するも、人間ではないので人外(にんがい)などと、なんだか好ましからざる呼び名で表される。ときに人外自身が“ひとでなし”とも称するが、ひとでなしは人心を持たない人間のことであり、人間でない人外はひとでなしではない。人外が旅する途上で接した人間の多くは、どうにも虚しく拠り所のない荒廃した世界に生きている。結局、人外の旅の目的をはっきり理解するにはいたらぬながら、人間だろうが人外だろうが万物は流転し、“わたし"は天寿をもって“わたしたち”へと回帰するってこと、だろうか。

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著者プロフィール

1954年生れ。詩人、作家、評論家。
1988年に詩集『冬の本』で高見順賞、95年に評論『エッフェル塔試論』で吉田秀和賞、2000年に小説『花腐し』で芥川賞、05年に小説『半島』で読売文学賞を受賞するなど、縦横の活躍を続けている。
2012年3月まで、東京大学大学院総合文化研究科教授を務めた。

「2013年 『波打ち際に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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