眠れる美女 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001203

感想・レビュー・書評

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  • 「生」も「正」も「性」も超越してしまった。生命も正義も道徳も美も、すべては尊いのだろう。それでも、全てを取り払いむき出しにされた、性(さが)は、ヒトと言わずケモノと言わず、老人も赤子も男も女も等しい気がする。愚かでちっぽけでおぞましくも美しい。行き着く先は全て平等で、白骨をみても、男か女かくらいしかわからないだろう。それでも命や生活の動きは細やかで尊い。細やかに人の外観を描き内面を見透かすような、川端康成の眼力はすごい。解説の三島由紀夫の読み方が高尚で、同じ小説を読んだのだろうかと、訝しんでしまった。

  • 確かこの本の中に「片腕」という話が収録されてて、それが好き

  • 眠れる美女たちをそれぞれ際立たせる描写技術に感服。

    ただ、宿の女描写が1番の好みだった。

  • 全然意味が分からんかった
    でも描写がめちゃくちゃ的確で綺麗だった

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/730199

  • 生命とは、死体であっても良い、
    存在それ自体として精神に対して屹立しているもの。
    三島由紀夫

  • 自分にはよく分からなかった

  • 好みじゃなかった。エロティックかと言われればそんな風にも感じられず、ただひとりで面白くもないことを延々と考えているだけで表現の面白さも特になく、私には魅力を感じられない3編だった。

  • 川端康成の自身を投影したかのような初老の男の欲望、人形の様に眠る少女と一夜をともにできる宿を舞台に展開する倒錯した世界。
    あまりにも男のエゴの世界観でもあるように思える。この小説の時代性だと思えるが・・

  • 『眠れる美女』
    齢67の江口は、世間でいえば老人の部類に属するが、その心には未だ男としての矜持が、残滓とまでならないほどには備わっていた。そんな彼は老人仲間である、男の矜持をほぼ失った木賀によりある面妖な宿の情報を聞き、本作はその宿の中から物語が始まる。そこでは「眠れる美女」達と夜を共にできるということだった。何をしても起きない深い眠りの娘達と同衾していく内、江口の心は、性、そして生という主題に懊悩することになる。
    娘が眠る寂寞と狭隘と暗雲の空間の中、男を奮い起こす官能的な若い肉体を前にし、江口老人は長い間忘れられていた渺茫かつ明瞭な過去を彷彿する。
    この作品では、「女」と「生」がほぼ同じ役割を持っている。江口老人が娘の体を眺め、触れる時は、自身の人生の軌跡を眺めている。かつての女との過去を辿り、自身の生の根元を知る。この作業は江口が認めたくない衰弱からくるものであり、娘達との夜に彼は男の瑞々しく生々しい人生の追憶にうっとりすると同時に、自身の老いについて実感する。
    彼はめっぽう女に生かされていた人生だった。そして彼の中で未だ老いというものを身に沁みて実感することも、この宿に来るまではなかったもので、江口老人が宿に通っている間、彼は真の意味での若さも、真の意味での老いも理解できていなかった。年齢としての事実ではない、老いの苦味を知らなかった。夜を共にした六人の眠れる美女達から香る生の匂いや生きる力を目の前に、彼自身の生きる力である男の目覚めは猛ったり静まったりを繰り返す。そしてそんな女達を見ることで、生を目の当たりにすると同時に、生の先の不穏を悟ってしまう。悪魔の声が聞こえた時、江口老人は他の老人達がこの宿で「きむすめ」を求める理由がおそらく浮かんだであろう。男は色恋沙汰で、優位な位置に居座りたいと願う。これは当時なら尚更ではないか。過去の経験しか持たぬ衰退した老人は、きむすめのまえに立ってのみでしか優位性を発揮できない。男の残滓をきむすめに向ける虚しさは江口にはわからぬが、それは彼にとっても遠いことではない。しかし、まさか頓死することもまたそうそうないと思っていた矢先、生に満ちた女が突如命を落とす。彼よりも遥かに生に満ちた女の死は江口老人にとって、死が迎えに来るような恐怖があった。彼は揺り籠から墓場まで、女に生かされてこその人生であり、その終焉の近い知らせも、また女が行わなければならなかった。ここはリアリティというよりも、江口老人の性質が現象化しているように思える。それにしても、江口老人がこの宿に来なかったとしたら、あの娘は死んだだろうか。こんな事は判るわけはないが、彼は「安心できるお客様」ではない外来種のため、宿の生態系が崩壊したと捉える事はできないか。この宿の中で、老人が死ぬ事は摂理だが、娘が死ぬ事は異常な事だろう。江口老人の持つ不必要な生が凄惨な最期を呼んだように私には映った。何故なら彼はこの追憶の酩酊の果てに、最初の女は母であったことにまで行き着く。本来、この宿の老人達は禁制の掟を犯す危険性もなく、娘達に対しては仏を拝むような罪を洗い流してくれる存在という認識である。しかし江口老人は罪を犯しにこの宿へ来、悔恨や羞恥などはあるにしろ生をたぎらせてしまう。老いの実感はできても、罪の実感には至らない。やがて自身の母体への愛情を持つことで彼はこれからの死から心がどんどん遠ざかってゆく。まるで眠る娘の生を吸い取るかのように。彼の中で、罪というものを憎みつつも捨てきれない。それは彼自身の罪が多すぎた人生だったからか、老いを受け入れられないからか、美しい眠れる仏の美女たちに対する失敬により、彼の罪の洗い流す場はもうないのかもしれない。自身の境遇や年齢のどうにもならなさを見事にこの宿と女たちで表現し、舞台設置の妙であると思った。しかしそれも幻想のような宿での出来事であり、現実の自身でいえば彼ら全員が罪人には違いないが。

    『片腕』
    現実とは明らかにかけ離れた作品であった。「私」である男が娘から外した片腕を借りて家に持ち帰り、会話をし、共に寝るという珍妙な物語。しかしただ奇を衒った作品というわけではなく孤独の哀愁の匂いとその稚拙にも写る滑稽な様がむんむんと漂っている。
    冒頭、娘からもらった片腕を持ち帰る道のり、靄で目が霞む幻想のような中、腕を誰にも盗まれまいとおどおどする。彼の中で、この片腕に対して持ち主である娘からさえも独立した溺愛を持っている。そんな片腕との時間の最中、聴こえてくる世間の出来事を知らせるラジオの音というのは、彼の存在と世間を悉く隔てる作用を持っている。そして彼が作中で過ごす一晩は劇的な情念が焚けているのだが、その光景がより虚無的な喪失感を際立たせているようである。その重たる原因は一つ一つのあまりに稚拙な振る舞いや御伽噺のような現実からの乖離がそうさせている。例えば、この片腕は作中会話をするのだが、取り外した時に娘がキスをすることで命を宿している。魔法のような力が当たり前に出てきている。また、娘と眠る際に電気を消す描写で、「私」は片腕をスイッチまで運んで押させようとする。ここの初々しさは学生であれば微笑ましくもあるだろうが、この世界では異質にも程がある。この卑屈な内容にはあまりにそぐわない子どもじみたものがこの作品が奇怪且つ滑稽でありながで魅惑的な雰囲気をもたらしている。
    この滑稽な魅惑、つまり妙な初々しさというのは、おそらく「私」の片腕(もしくは娘か)に対する処女というの憧憬があるからではと感じた。悲劇の露(作中で処女をこう喩えている)がまもられている女の存在こそが、自身の悲劇である孤独という傷を癒すものと捉えているのではないか。しかし傷を癒すためと思う「私」でも、悲劇の露を啜りたい男として欲望がないわけではない。片腕の肘の内側の光りのかげを吸う描写は娘(の腕)の生命に対する恍惚や蠱惑であり、悲劇である彼女を喜劇にしてしまいたい邪がある。若しくは、「私」は老いていることも考えられる。『眠れる美女』と違い、作中での男の年齢が明かされていない。しかし江口老人と同じくらいの年齢であるとしたら、性への憧憬に加えて生へのそれもあるであろう。その場合、テーマは前作と同じで、老いの苦痛からの安らぎと猛る男としての官能の狭間を揺れ動いている。「私」が自分のを外して娘の片腕を付ける時、これは情事の暗示であって、「私」の妄念が形作ったものであるとみていいか。しかし、この妄念は「私」の一方的な犯行とはなかなか思いづらい。何故なら娘は聖書の引用で、「女よ、誰をさがしているのか”というの、ごぞんじ?」と云っている。ここから片腕を通してではあるが、女が喜劇を求めているのは確かではないか。女が本当にこう思っているのか、果たして「私」の妄想の中のエゴではないのかという疑問もあるが、この作品の中で、娘と「私」の関係がどのようなものでいつからの間柄なのかは明かされていないのも事実で、少なくとも親密であることは窺える。また、片腕のこの科白には、母体のことに関してであるという記述もある。それに165頁の片腕は、「あたし」という母体として自身を語り、つつしみやはにかみを忘れた雰囲気が描かれている。そしてその直後に、合体した片腕と「私」の血が通い始め一体化する。彼らの中にあっな磁石のような斥力は期待と魅惑という電磁波により引力となった。それは刺激により移ろいやすい気持ちである。しかしどちらも彼ら自身であることには変わらない。彼らは語らずとも互いに求め合い、情事のようなアレゴリーが腕と体の合体により表されている。初めは「私」の男のエゴが見え隠れするところが難点だと感じていたが、恥じらいのある娘の気持ちを表すために片腕を通しての真実を語らせているという手法であると仮定するなら、この話は娘の話でもあるのかもしれない。悲劇と喜劇という言葉は、「私」の妄想だけということではないのかもしれない。
    しかし最後はまるで夢から覚めるように腕を外す。長い間の妄想から冷めたような急降下は、悲劇を楽しむ次元を超えて喜劇を貪る人間に成り下がってしまっているのか。若しくは、付け替えられた彼の片腕が、身体と入れ替わり、生命の希薄なものになり、今度は自身の腕に対して即物的な憐れみを感じたのかもしれない。再び外された彼女の片腕から、守られていた悲劇の露が滴るのを摂取するために咥える姿は、もはや孤独の化け物に変わりつつあるかのようであった。

    『散りぬるを』
    ミステリーのようでありながら、自己の小説であり、本来ミステリーが探求しないところを探求している。しかし妄想的で自虐的。小説家という性分の嘲笑や、自身のうわついた年齢不相応な浮気気質、満たされない孤独や、生と死という恍惚。
    五年前、目にかけていた滝子と蔦子という若い女らが山辺三郎という男に殺害された。動機ははっきりしないものだった。しかし語り手である「私」はその兇行に対する憎悪や二人の死への哀惜というものは無く、事件の渦中にいた三人への好奇心が五年経っても抜けないでいる。そこで訴訟記録や彼の証言の資料を熟読して精査することで彼ら三人の心理や兇行の動機などを探究していく。
    しかし我々読者が気になるのは、その事件の真相に加え、この語り手の心理である。そして語り手自身も、おそらく自身が何故ここまで恍惚としてこの事件が気にかかるのかを知りたがっているような、若しくは認め難い印象であった。
    若い女にうつつを抜かす分不相応な欲望を持つ虚しい作家の男心が、女二人の生命の輝きを尊んで、見知らぬ男に生命を奪われたという、欣羨の意味での口惜しい気持ちを誤魔化すために、起こった事件に意味付けをしている。それがなんとも滑稽に思える。

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著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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