世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)新装版 (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101001586

感想・レビュー・書評

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  • 春樹作品の中でも特に文学的要素が強いというか、設定や世界観が抽象的で難解だった。

    組織(システム)に所属する計算士である私。組織と敵対し、情報を盗み取ろうとする工場(ファクトリー)の記号士たち。

    一方で「世界の終わり」では壁で囲われた町に入れられた僕が影を切り取られる。そこの町で夢読みとして図書館で古い夢を読まされる。

    最後、私は限られた時間を大切に過ごす。コインランドリーで洗濯をし、煙草を吸い、音楽を聴く。

    ---

    memo

    上巻

    90
    私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだと――またこれはたぶん偏見だと思うが――確信している。

    94
    私はソファーに対するのと同じようにサンドウィッチに対してもかなり評価の辛い方だと思うが、そのサンドウィッチは私の定めた基準線を軽くクリアしていた。パンは新鮮ではりがあり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。

    145
    「車とは本来こういうもんなんです」

    193
    私の生活は性欲よりむしろ食欲を中心にまわっているようなものだから、それはそれでかまわないの。セックスというのは、私にとってよくできたデザート程度のものなの。


    下巻

    258
    俺はこの前君と会ったときに、この街は不自然で間違っていると言った。そして自然で間違っているなりに完結しているとね。

    300
    たとえ何であるにせよ、何かを信じるというのははっきりとした心の作用だ。

  • BSフジ「原宿ブックカフェ」のコーナー“文壇レシピ”で登場。
    http://harajukubookcafe.com/archives/985


    本の中に登場するあの美味しそうな一品を
    実際に再現してみよう!というこのコーナー。

    第77回目に紹介されたのは、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる「最後の朝ごはん」

    ―人生をひきはらうには 悪くない1日になりそうだった。

    ―「でもおいしかったわ。こんなに手のこんだ朝ごはんって久しぶり」


    原宿ブックカフェ公式サイト
    http://harajukubookcafe.com/
    http://nestle.jp/entertain/bookcafe/

  • 1Q84はハマりませんでしたが、これはスイスイ読めました。ストーリーを楽しむというよりは、文体や言い回しを味わって楽しみました。一つの芸術作品という雰囲気です。

  •  昨日『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(以下『世界の終わり』)を読了し、「春の熊」の興奮とはまた別に、またこの小説が他の一般読者に与えたであろう衝撃とは別に、いかにも個人の秘密めいた範囲でひそひそと発見をした。

     まず前置きとして『世界の終わり』は認識の内部で時を想像することによる、認識外の「時の凍結」を幕引きとしている。こういう言い方をすれば、小説の大団円を語っても差し支えはないと思う。

     主人公は「眠りがきた」と言い人生の幕を降ろすのであるが、この様子と、彼の認識内部の世界としての「世界の終わり」が、私に一点の発見を思わせる。「世界の終わり」というからには忘却と崩壊の最後かと思いきや、そこは完全の均衡が保たれた、永遠の「場」なのだった。

     終末におとずれる、永遠かつ完全なる均衡の一点。この瞬間の描写のために、幾人もの芸術家が人生を削った。彼らが今、その一点にたどり着いたのか、僕は知らない。ただ、イギリスの詩人・小説家D.H.Lawrenceがその完全なる一点を描写するために「死の舟」という詩を創作したことは知っている。

     ロレンスはその詩のなかで、死出の旅としての航海を物語り、そのなかに「眠り、夢、忘却、目覚め」という、永遠の一点に到達するまでの道程を描いた。見逃せないことに彼は永遠の一点を、完全なる均衡のとれた瞬間だと述べている。

     以上はロレンスの詩集、手記、論考を勘案したうえで総合的に導きだした一案だということを加え書きさせていただきたい。ともかく大事なことはデュラン・デュランでもなく魂のルフランでもなく、死生観を語るうえで、完全なる一点かつ永遠の瞬間、というものを持ち出す芸術家がその他大勢いるということである。

     しかし問題は「そんなのありえませんが」という冷ややかな目線と、このディジタル・ストーム社会では役に立たないものを見るような、生の世界に充足する人々の態度である。死の世界などない。そう言い切ることのほうが、我々「現実」の認識に生きるものとしては確実な合理性をもっているし、「目の前のガラスを叩けば割れる」などという意識がある以上、それはまさしく必要な認識ルールなのである。

     そんな現実、ハードボイルド・ワンダーランドにおいて村上は、完全なる一点としての永遠の瞬間にたどり着くための「デバイス」そして道程を、あくまでクールに描いたのである。ロレンスがエトルリア文明の墳墓に完全の瞬間を背負わせたのと正反対に、村上はそれを「ダニー・ボーイ」であるとか、ピンクの豊満な女の子であるとか、腕輪とかにのせたのである。

     もっと言えば「リアル」を精密に受容している(であろう)機関である脳をその仕掛けの根幹として、そして肉体の永遠保存をマジックのタネとして、あくまで足取りは軽く、その一点にたどり着いた、いやむしろ最初からその情景をたたえた「場」を提示していたのである。

     そして村上の「完全」は、限定された「場」のうちでの永遠性であったという点において、ある種の固着であると言える。つまり完全であり均衡を保っているからには静謐な停滞状態が保たれねばならず、その条件を「世界の終わり」はそなえている。そういった意味でも、一点の停滞状態でありながら、永遠性をもっているということが描かれた世界なのだ。

     僕はロレンスの完全なる瞬間を「夢のなかでの目覚め」、それも元の世界とは異なる場所への目覚め、というように考えていた。『世界の終わり』の主人公は「眠りがきた」と言い「世界の終わり」へ進入した(と思われる)が、これもまた日常の眠りとは違う眠りへの確信、そして日常の夢とは異なる夢、すなわち認識内部の世界への確信、という点において、フェーズの高まった夢であると言えよう。夢だろうが現実だろうが、それは認識の問題なのである。

     村上はこういうように、死後に永遠があるという時の概念への勝利の可能性を、あくまでストラテジックに、あくまでフィジカルに導いたのである。その点で僕はこれまでになく勇気づけられた思いがして、ウェスト・エッグのあの語りやさんに、バシリと背中を叩かれた思いである。もちろん、主人公の肉体ありきでの認識が作り出す「世界の終わり」であるからには、世界---いやここは便宜的に地球と言おう---が本当に終わってしまったなら、その認識も消し飛んでしまうことになる、はずである。

     ことは今、肉体としての脳による認識の存在への疑念が問題となっている。あまりにも強力すぎるこの脳認識によって、我々はその喪失を恐れざるをえないのである。脳がなくても、すなわち死んじまっても認識が残るのならば(それを人は魂という)、時との争いなど古今東西ありえないはずなのだから・・・




    追記的に申し上げると、この小説を読んでいる間、僕が小説に呼応し、小説が僕に呼応している、そんな感覚をおぼえた。実は小説を読みながらメモをとるのが僕の癖なのだが、僕が『世界の終わり』に対して疑問を抱いたとして、それをメモする。すると2、3行後にはもう答えが用意されている、といった具合である。また、僕が文章を読んでいくなかで思いついた概念をメモしていると、次のページに全く同じ概念が、あたかも引き出されたかのように登場する。
    こうした身震いものの体験も、小説を読むなかでの楽しみであった。是非、メモをとりながら物を読むことを、僭越ながらオススメしたい。




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  • 研究者を助けに地下に潜った計算士。研究者の語る計算士の秘密。世界で一人実験に耐えた計算士の秘密。
    影との再開。壁に囲まれた世界からの脱出を試みる僕と影。楽器を求める僕。森の近くに住む男。影との協力で世界の終わりからの脱出に成功しそうな僕。

  • 中欧旅行のお供‥ほぼ帰ってから読んだけど。新刊に影響されたわけでもないけど、久しぶりの村上春樹。
    あー、ちくしょー、面白かったぜ‥ 悔しいけど5かなー、なんで悔しいのかわかんないが。
    んーとー、なんつーか、いちいち額縁に入れて飾っておきたいような絶妙にセンスのある描写と、他の作品にはあんまりない(と記憶している)何なのどうなるのってストーリーの緊張感、両方あったところかな。この、感想に何を書いても蛇足になるあたり、やっぱこの人すごいや でも素直に心からファンです!ってなれないのはよくわかんないけどやっぱちょっとキザっぽいからかな
    きっとアレがアレを暗示してて、とか色々あるんだろーけど、でもそんなんより読んでる時の‥ んー、心がしんとする感じがいい。最後、「えっ!」ってなったけど笑
    悔しいから上巻は4で。

  • クリフトファーノーランは村上春樹のこの20年以上前の小説の影響を受けたんじゃないかと思ってしまう被り方。こっちが後になっちゃったけど。
    シャフリングその他の理屈が全く訳がわからないのに妙に納得して受け入れてしまう。ほんで、ほおー!とか思っちゃう。


    小説はふるければふるいほど良い。
    村上春樹のなかでは1番かな。

  • 10年以上前の欧州一人旅のお供に。車窓からの景色と世界の終わりの景色が重なり、現実と本の世界が繋がった感覚を今でも覚えている。

  • 「君を失うのはとてもつらい。しかし僕は君を愛しているし、大事なのはその心のありようなんだ。それを不自然なものに変形させてまでして、君を手に入れたいとは思わない。それくらいならこの心を抱いたまま君を失う方がまだ耐えることができる」という言葉がすき。愛することは心の作用そのもので、心を失っては、なんら意味を為さない。率直な言葉で、胸に残った。
    読後すぐの感想は、理想的な死って、こういうものかもしれない、ということ。完全な世界を永遠にさまよいながらも、博士の孫娘に解凍してもらえる可能性があるなんて、ロマンがある。
    世界の終わり、という精神世界は、理想的で美しく、哀愁があっていい。弱いものを犠牲にした完全性を受け入れるかどうか、ということを、もっと突き詰めるかと思いきや、そうはならなかった。
    ハードボイルド・ワンダーランドでの冒険はワクワクして読めるし、最期を迎えるまでの過ごし方はとても素敵。人生最後の日がこういうのも、なかなか悪くない。
    世界の終わりで、心を持った僕が、心をなくした図書館の女の子を愛してしまうところも好き。愛しても、心のない彼女が報いてくれることはないというのが切ない。だから、僕が彼女の心を探しあてたところは、ちょっと物足りなかった。
    全体を通して、男の人のロマンが詰まった話だと思った。冒険があり、大人のライフスタイルがあり、魅力的な女性が出てくる。
    また、飲食物やファッション、比喩など、全てが洒落ていて、いい音楽を聴いているみたいな上質な気持ちになることができた。読み終えるのがもったいなかった。面白かったです。

  • 10年以上ぶりに読み直した。春樹すごすぎ。言うまでもなく彼の最高傑作の一つだと思う。

  • 村上春樹さんがみてる世界は私がみてる世界よりも何世紀先を見ているんでしょうか・・・・・。良い作品だということは解ります。これから買いに行って、何回も読んでもっと理解を深めていきたいです。

  • え、そっちに残るの?

    それぞれがベストな選択をしてるんだろうけど、読者としては俯瞰で見てるから残念な気分になる。

  • 読み終わって2ヶ月くらいたつ。

    「世界の終わり」と「ハードボールドワンダーランド」の2つの世界が同時進行していて。
    ハードボイルドワンダーランドの僕の脳の中が
    世界の終わりなのかな?と思った。
    一角獣の頭骨とか、影とはなされて影が死んで心がなくなった平和な人たち。いろいろと問題提起がありそうだなあってことしか
    わからないけど、「自分の今いるせかいや価値観をうたがってみる必要があるなあ」とは感じた。そして、心の静寂や幸せはけして現実の欲望にまみれていては味わえないものなんじゃないかなと。

  • 設定が現実離れしてる割には内容がスラスラ頭に入りました。
    ハードボイルド側の主人公はやっぱりかっこいいし、とても好きです。
    比喩も独特で、ギザのピラミッドのくだりは特に好きです。
    久しぶりに一冊読み終わって頭の中が空っぽになる気分が味わえました。

  • 身に覚えのないトラブルに巻き込まれた「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公。
    身を隠した科学者を探し出し、その身に人体実験を施されたという事実を告げられます。
    科学者の好奇心は往々にして残酷で迷惑。
    自身の研究欲に周りを巻き込むものです。
    おのおのの持つ道理が異なると、社会の常識は機能しないという世の複雑さへの具体的な描写。

    スタンダールやツルゲーネフの作品をドストエフスキーと比較して語っているところに、著者の文学的好みが表れており、興味深いです。
    しかし下巻も、暴力性を感じさせる表現が目につきます。
    また、彼と一緒に科学者の元へと向かう娘が、逃げ道を不自然に詳しすぎ。
    学校に行かなかったため、世間知らずながら、祖父である科学者に英才教育を受け、馬に乗れ銃を使いこなせるというスーパーガールです。

    あまり人付き合いをしない、友人のいない主人公と関わるのは、毎回女性。
    村上作品の常なるパターンです。
    これを男性にしてみるような挑戦はしないのだろうかと考えます。
    真実を求める逃避行の相手を少女ではなく少年に。
    すると、必ずもれなくついてくる性的色合いがなくなると思うのですが、そうすると著者独特のカラーが消えてしまうのでしょうか。

    科学者と会ったのちには、あれほど恐れていた組織はほとんど登場せず、話の流れにも関係なくなっています。
    やみくろも危害は加えず、その存在で主人公たちを脅すだけ。
    思ったより恐怖は尻つぼみでした。
    主人公が自分の消滅を諦めて受け入れたことで、生き抜くために恐怖との闘いをする必要が無くなったということかもしれません。

    現実世界での死が、彼のもとに訪れますが、その描写は悲しくはありません。
    巻き込まれ型の完全な被害者なのに、死を受け入れるという点は八方塞がりのようではありますが、現実的なエンディングであり、自主的に逃避行を行ったところから、完全なる受け身の存在ではなかったという人生意義が生まれています。
    死を受け入れ、終わりを迎えるにあたり、ドタバタだった彼の生活がようやく静けさに満ちてきます。
    ゆったりとした落ち着いた終焉。

    下巻での、2つの世界を結ぶキーワードは、手風琴と「ダニーボーイ」の歌でした。
    「世界の終り」の主人公は、切り離された自分の人格=影に、互いが生き延びる方法を持ちかけられ、秘密裏のうちに逃避へ向けて動きだします。
    影と切り離され、徐々に記憶が薄れていく主人公。
    自分の分身と切り離されるというところで『ライラの冒険』のダイモンを連想しました。

    心を手放したことで、感情にかき乱されることなく、穏やかに淡々と暮らす人々。
    もはや失われつつある心を手繰り寄せたきっかけは、音楽でした。
    手風琴とはアコーディオンのことだったんですね。
    手風琴をつまびきながら、忘れかけていた「ダニー・ボーイ」を思い出し歌ったシーンは感動的です。
    音楽が存在しない街、何が欠けているのか分からない住民、という設定に、伊坂幸太郎の『オーデュボンの祈り』を思い出します。

    ラストシーンが不可解で、しばらく頭を悩ませました。
    主人公「僕」は影と一緒に町から逃げ出すことをやめ、影だけ壁の外へ逃がします。
    僕の選択は本当に正しかったのでしょうか?
    「自分が作った世界なので、ここに残って責任を果たす」という残る理由が、的を得ていません。

    影を生かしたことで、僕の心は死なずに済みます。
    しかし、心を持った人が街の中(正確には追放されるため、森の中)で暮らすのは、かなりつらいことではないでしょうか。
    心を失った図書館の女性と、どこまで愛を育めるものでしょうか。

    しかも、これまでの自分の記憶は失われるのです。
    それは、今までの過去からの決別ということになるのかもしれません。
    新規の再生なのか、過去の放棄なのか。

    『街と、その不確かな壁』という作品は、この作品の別エンディングとなっているとのこと。気になります。
    影は、主と離れたままで生きられるのか?というのが一番の謎でしたが、もしかすると影は、「ハードボイルド・ワンダーランド」で眠りに着いた主人公の意識に戻って、目覚めるのかもしれないと考えると、息苦しいような物語の結末が、一筋の希望を含んだものに思えてきます。

    なるほど。脳の回路の操作で、自我が「無意識界」と「現実界」の2つに分裂してしまった主人公が、心を必要としない「無意識界」から、心を失って死に直面している「現実界」に影(=心)を移動させることで、それぞれの二つの世界の主人公たちが生き続けられるという結果を示唆しているものかもしれません。

    結末に至ってもすべての謎が解けたわけではありませんでした。
    モヤモヤが残りますが、これまた村上作品の常ですし、別の物語に引き継がれ、展開されていくことも考えうるでしょう。

    そして、話の収集のつけ方が、なんだか鮮やかではないといった印象を受けました。
    初期作品だからでしょうか。自己完結的で、この文章では読者を納得させきれないのでは?
    やはり、作家の作品は、出版年ごとに読み進んでいく方がよさそうだと思いました。

  • 2つのまったく別のものに見えていた世界が最後に(なんとなくだけど)つながって、面白かった。
    結局ハッピーエンドだったのか、なんなのか・・。
    結末が見たい。
    影がかわいそうだった。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「結末が見たい。」
      何年かしてから再読されたら、また違うイメージを持たれるかも、、、その時々のご自身の「心」の状態が反映される作品ですから。...
      「結末が見たい。」
      何年かしてから再読されたら、また違うイメージを持たれるかも、、、その時々のご自身の「心」の状態が反映される作品ですから。。。
      2013/02/25
  • 個人的村上春樹唯一無二の傑作。

  • これだけの大作を、頭の中で巡らせることができる人が日本にはいるのか…ということに、素直に感動しました。
    緻密な設定で、的確な表現で、しかし堅苦しくはない。

    村上春樹の作品は音楽を重要なものとして扱うことが多い。
    この作品においては、音楽の無い世界「世界の終り」で、初めて音楽が奏でられるシーンがある。唄でつながる二つの世界…なんと素敵な設定だろう。

    また一つ冒険を終えたような気分。

  • ご存知、春樹の代表的な作品。
    「世界の終り」という物語と「ハードボイルド・ワンダーランド」という物語が同時進行していく。奇数章がハードボイルドで、偶数章が世界の終わり。
    「ハードボイルドワンダーランド」の主人公は「私」で計算士という仕事をしている。

    「世界の終わり」の主人公は「僕」。僕と僕の影は引き離され、壁に囲まれた世界で生活している。影が死んでしまうことで、人は心をなくし、「完全」となる。(影=心なのかな?)
    「ハードボイルド」の私は死を覚悟し、それに向かって動くが、
    僕と影は「世界の終わり」の街から脱出を試みて、
    出口であろう、川にとびこもうとする。
    しかし、ぎりぎりのところで僕は森に残ることを決め、影と別離する。
    そしてワンダーランドの私の意識は消失してしまう。

    もし、僕が森に残らずに、影(心)とともに脱出を成功させていたら、「私」は死ななかったのだろうか?
    「世界の終わり」と『ハードボイルドワンダーランド」が
    『ダニー・ボーイ』でリンクしたときはぞくっとした。
    忘れた頃にまた読み返したい。

    村上春樹の小説はあれこれ理由など考えずにフィーリングで読むのや一番だと思う。

  • 再読。

    ここまで美しさを感じる著作に触れたことはない、そう思わせる程秀逸な作品。二層構造が重なり合う文学、アニメ、映画は様々あるが、これが一番良い。

    まごう事なき神作品。

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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