- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101007083
作品紹介・あらすじ
有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。
感想・レビュー・書評
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【読もうと思った理由】
実はこの本は、数年前から本屋でふと気になる度に立ち読みしていた本だった。当時読んでいても、理解できる部分がかなり限られており、自分にとって、かなり難解な本だった。ただ何故だろう、理由は分からないが、何故か本屋に行けば、立ち読み読みしたくなる。そんな不思議な魅力がある本だった。いつしかこの本に書かれていることを、理解したいという欲求が、徐々に増大していた。そこから、本書でピックアップされている、ドストエフスキーやプラトン、哲学書や仏教書に興味を持ち始め、読み始めることになる。上記に書いてある本を読めば読むほどに、本書に書いてあることが、徐々にではあるが理解できてくる。こんな数年に渡って興味を失わなかった書籍は稀である。そして遂に数年越しに本書を購入し、読み始めた。
【岡潔(きよし)氏ってどんな人?】
明治34年(1901)、現在の大阪市に生まれる。4歳から紀見村(現:橋本市)の父の実家で育ち、粉河中学校時代に「クリフォードの定理」で数学に興味を持ち始める。大正14年(1925)に京都帝国大学理学部を卒業、その後、同大学の助教授を勤めていたときに、フランスのパリにあるソルボンヌ大学に文部省(現:文部科学省)の海外研究員として留学した。そこで、生涯の研究分野を「多変数函数論」と心に決めて、昭和7(1932)年に帰国した。
この研究は、「山にたとえれば、いかにも登りにくそうな山だと分かったので、敢えて登ろうとするようなものであった。」と後に語っている。昭和9年(1934)、この分野に関する詳しい文献が載せられた本を入手、中心となる三つの問題が解決されていないことが分かり、この問題解決にとりかかる決意を固め研究を開始する。しかし、残されている問題だけに、手も足も出ないほど難しいものであった。夜昼関係なく没頭した研究生活を送っていたある日の朝、いつものように椅子に腰を掛けていると、突然目の前にひらめきが起こって問題解決の第一着手である「上空移行の原理」を発見、その後、約20年を費やしてその理論の骨格を一人で完成した。
岡の研究した分野「多変数函数論」についての問題は、20世紀の初めに注目され始めていたが、あまりに難しいため世界の数学者は手をつけられずにいた。岡のためにとっておかれたようなこの問題の解として、岡は10編の論文を書き上げる。生涯で10編の論文というと非常に少ない数だが、補足的な1編を除き、9編すべてが珠玉の傑作と言われている。あまりに素晴らしい論文のため、一人の人間が書き上げたとは信じられない程である。日本の数学者が神様のように尊敬するドイツの数学者ジーゲルは、『オカとはニコラ・ブルバキのように数学者の団体の名前だと思っていた』と語ったそう。ジーゲル本人やブルバキの主要メンバーのヴェイユ、カルタンらは、はるばる奈良まで岡潔を訪ねた。
この研究の業績は、世界の数学界で高く評価され、昭和26年(1951)50歳という若さで「日本学士院賞」を、昭和35年(1960)には「文化勲章」を受章した。世界の誰もが手に負えなかった難問を解き明かした岡潔は、昭和53年(1978)76歳で生涯の幕を閉じた。
【小林秀雄氏って、どんな人?】
(1902-1983)東京生れ。東京帝大仏文科卒。1929(昭和4)年、「様々なる意匠」が「改造」誌の懸賞評論二席入選。以後、「アシルと亀の子」はじめ、独創的な批評活動に入り、『私小説論』『ドストエフスキイの生活』等を刊行。戦中は「無常という事」以下、古典に関する随想を手がけ、終戦の翌年「モオツァルト」を発表。1967年、文化勲章受章。連載11年に及ぶ晩年の大作『本居宣長』(1977年刊)で日本文学大賞受賞。2002(平成14)年から2005年にかけて、新字体新かなづかい、脚注付きの全集『小林秀雄全作品』(全28集、別巻4 )が刊行された。
【本書概要】
有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性……主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。
【感想】
「人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っている」(岡潔氏談)
僕がこの本でもっとも感銘を受けた言葉だ。
実はここ数年でずっと自分の中で解決したい問題があった。上記に上げたこの言葉が、数年にも渡り悩み続け課題を、あっけなく解決してくれた言葉だ。その課題とは、僕が好きな養老孟司氏から感銘を受けた言葉が、発端となる。
「好きなことをやりたかったら、やらなくちゃいけないことを好きになるしかない。」
(以下、養老孟司氏談)
解剖学を成り立たせるためには、死んだ人が必要ですから、まず遺体を探してこなければいけない。「亡くなったら、いつでも引き取りに伺います」と献体をお願いしておいて、そういう人が出たら受け取りに行くわけです。でも、「今日は元旦だからやめといてくれ」とか、「死ぬときは勤務時間中にしてください」っていうわけにはいかない。私も、好きなことはなんなのかということについて、結論を出すまでにはかなり時間がかかりました。10年以上かかったかもしれない。
で、出た結論は、「好きなことをやりたかったら、やらなきゃならないことを好きになるしかない」ということです。つまり、仕事を変えるのと自分を変えるのとでは、どっちが楽なのかという話。だったら自分を変えちゃって、「俺はこれが好きなんだ」って思い込んだほうがいいんです。
上記を読んで、もちろん理解できたし、何なら実践しようと、自分の苦手な業務で試みてみたりもした。理屈では分かっていても、なかなか継続できなかった。しかし、今回上記に上げた岡潔氏の「極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っている」という言葉が、僕の救いになったことは間違いない。
自分が携わる仕事で、必ずどんな仕事であろうと付随業務がある。それこそ上記に上げた解剖学でいう、遺体を日時を問わず、引き取りに行く業務などだ。自分の苦手であり、どうしても好きになれない業務は、極端に誰よりも熱心に取り組むしかないんだと。そうすれば苦手な業務からも、色々な気づきを得れる。色々な気づきを得られる業務は、気づけば好きな業務に変わっているイメージが、初めて持てた。
養老孟司氏の「好きなことをやりたかったら、やらなきゃいけないことを好きになるしかない」という言葉を、解決する考え方はないかと、ずっと諦めずに探し続けた自分が、間違っていなかったんだと思えたことが、本書から得た最大の収穫です。
また本書から得られた気づきは、沢山ある。以下、忘れないうちに備忘録として記載しておく。
(まずはその人物に興味を持つ)
私は人というものが分からないと、つまらないのです。誰の文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でも面白くなります。(小林秀雄氏談)
小林秀雄氏の言葉で、もっとも腑に落ちた言葉が上記だ。そういえば僕も最近好きになった作家は、全て作品からではなく、作者本人に興味を持ち、作者自身を好きになるところから始まっている。ドストエフスキーも、村上春樹氏も、五木寛之氏も、ニーチェも、三島由紀夫氏ですら、みんなそうだったと今回改めて気づいた。
作者自身に興味を持てれば、たとえ読んでいる作品が難解であろうと、少し無理をしてでも、分かりたい、理解したいという気持ちが上回る。そして読了すれば、僕が興味を持つ作品は、基本名著と言われる作品が多いので、何かしら感銘を受ける箇所がある。そうすると、自然とその作者のことをもっと知りたくなる。知りたくなれば、別の作品を読んでいる。別の作品から新たな気づきを得られると、気づいた時にはその作者を今までよりもよりも好きになる…。という好循環で回っていく。改めて再認識したことは、その作者自身のことに興味を持てるかどうかが、全てなんだなと改めて思った。
(ドストエフスキーとトルストイの違い)
小林秀雄氏は、トルストイの「コサック」という作品が、その後のトルストイの方向性を決めたという。コサックの鮮やかさというものは、正直な目から出てくるものだという。ああいう文章は、ドストエフスキーには書けないという。ドストエフスキーには、ああいう正直にものを見る目がないのだという。トルストイの目には、健康で明瞭で、廻り道や裏道が一つもないのだという。それが美しいんだと。
また別の視点から二人を比べている。
ドストエフスキーは無明の達人だと。無明の極がトルストイよりもよほど濃いんだと。だからトルストイは「懺悔録」なんてものを書いているが、ドストエフスキーには懺悔録なんかないのだと。トルストイには、痛烈な後悔があるが、ドストエフスキーに言わせれば、自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではないと言う。そういうところが、ドストエフスキーとトルストイの違いなんだと。だからトルストイは生きるか死ぬかのはっきりとした戦闘をして、最後にやられるのだという。ドストエフスキーはそれを看破していたのだと。
宗教の問題に、あんたみたいに猪武者みたいなやり方をしていては駄目だぞということを、「アンナカレーニナ」を書いた頃のトルストイに言っている。ドストエフスキーは宗教体系に関して、もっと複雑で、うろうろ、ふらふら、行ったり来たりしている。トルストイは、合理的といえば合理的だが、懺悔録などというものを書くタイプの男は、大体そうなんだと。だから遂に、がたっとくるのだという。ドストエフスキーには、そういう要素はない。苦労の質が全く違うんだと。あの人は政治犯で、青年期に一旦死んで、また生まれてきたような人間だから。
上記の二人の違いを読んで、まだ一度も読んだことがないトルストイに興味が出てきた。次に海外文学を読むとすると、トルストイを読むだろうなと。元々「アンナカレーニナ」と「戦争と平和」の2作品は、遅かれ早かれ読もうと思っていたのだが、小林秀雄氏のドストエフスキーとトルストイの対比は、忖度なくめっちゃ面白い。この部分を読むだけで、文学好きの方は、この本を読む価値があるのではと、思ってしまった。
(岡潔氏のいう情緒の理想)
私が環境にこだわったのは、家庭に子供が育つということは、その家庭の雰囲気が非常に子供に影響すると思ったからなんだ。「愛と信頼と向上する意志」大体その三つが人の中心になると思う。それが人の骨格を形成する。しかし、生まれて自分の中心を作ろうとする時期に、家庭にそういう雰囲気が欠けていたら、恐ろしい結果になるであろうと、脅かしているのだという。そこで、私が言う情緒とは、人が生まれて育つ有様を見ていて、それがわかると、人というものもかなりわかるのではないかと言う。
赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。その頃では、まだ自他の区別がない。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかしながら、親子の情というものはすでにある。あると仮定する。既に母親は別格なのだ。自他の別はないが、親子の情はあるのだという。そして時間というものがわかってくるのが、生後32ヶ月過ぎてから後なんだという。
そうすると、赤ん坊にはまだ時間というものがない。だから、そうして抱かれている有様は、自他の別なく、時間の概念すらない、これが本当の“のどか“というものだ。それを仏教では「涅槃(ねはん)」という。世界の始まりというのは、そういう状態なのではないか。
そののち人の心の中には、時というものが生まれ、自他の区別ができていき、森羅万象ができていく。それが一個の世界が出来上がることだと思う。そうすると、“のどか“というものは、これが平和の内容だろうと思うが、自他の別なく、時間の概念がない状態だろう。それが何かというと、「情緒」なのだ。だから時間、空間が最初にあるという、キリスト教などの説明の仕方では分からないが、情緒が最初に育つんだという。自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんだと。矛盾ではなく、初めにちゃんとあるのだと。そういうのを情緒と言っている。私の世界観は、つまり、最初に情緒ができるということだ。
→この一連の文章を読んで、多分このことが、岡潔氏がこの本で最も訴えたかったことなんだろうと思った。正直このことを、心理学者や自己啓発本なんかで言っていることであれば、半信半疑でしか受け止められなかったであろう。だがこのことを話しているのは、「多変数函数論」という難しすぎて、世界中の数学者が匙を投げた難問を、たった一人で解き明かした、数学の天才が話していることに、妙な信憑性を感じてしまう。そう、数学と正反対である情緒に、ここまでこだわるのは、何かよっぽど岡氏を惹きつける魅力があるのであろう。少しでも岡氏の頭の中を覗いてみたくなった。なので、次は予定通り岡潔氏の「春宵十話」を読みます! -
異分野の二人の知の巨人の対話集。
批評家の小林秀雄(高校の教科書でお会いしました)
数学者の岡潔(日本数学史上最大の数学者・文庫の紹介文より。「数学する身体」の森田さん敬愛する数学者ですね。)というお二人。
ページ数は150ページくらい程。時間をかけて(かかってしまったのだけど)言葉を追いました。
ピカソやゴッホ等芸術について、ドストエフスキーやトルストイ等文学について、日本の教育、果ては日本酒のお話まで多岐に渡る雑談集。高尚な会話を楽しむには力量が足りず。ただ、お二人とも決して難解な言葉を使わず、ご自身の思想を柔らかく語り合っています。
岡潔先生は、日本民族としての性質を大切にされているようです。そして情緒という感性を重要視されており、ご自身の数学的世界を情緒に基づいて創造したと言われています。西洋的な自我、自己を中心とした自己について、又、理論や体系について否定的のようです。現状の積木細工の様な研究に危機感をお持ちでした。
情緒が先に育つ。満足には感情が必要。など、数学の世界に止まらない、知ることへの楽しさを示唆されているようです。
小林先生は、批評家の仕事を、考えるより言葉を探している。言葉に力があり、言葉が言葉を産む。それが文章になると。とても、正確な表現と思います。
お二人の著作を読んで、もう少し理解を深める事ができればと思います。
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二度挫折して、三度目の正直で読み切りました。
150Pくらいの薄い本なのですが、体力使いました。
「難しい」とは何か?
「わからない」とは何か?
これらを考えさせられました。
世の中の事を大体わかった気でいましたが、全然そんなことはなかったですね。
この本は読んでいるうちに(100P超えたあたりから)癖になるところがあります。体力ある時にもう一度読み返したいと思います。
お二人(小林氏、岡氏)は文系と理系とで全く異なる世界で生きてきたのに、波長が合っている様子がうかがえます。とても不思議。
お二人の住んでいる世界感が同じだからなんだと思います。
反対に、私は「住む世界が違う」って、こういう事を言うんだなぁ、と感じました。
まず、二人の会話に登場する共通言語について行けないのです。
結構得意ジャンルと思っていた文学・美術の話が登場しますが、ついて行けない。
例えていうなら、富士山の麓から頂上にいる二人の会話を聞いている感じ。自分の文化教養度の低さを感じました。
例えば、文中にトルストイ・ドフトエスキー・ピカソ、と言った名だたる巨匠の作品が登場します。
彼らが創った作品がどんなものか、ざっくりとした知識はあります。
しかし、彼ら(小林氏、岡氏)のように時代背景や作者の思いまでくみ取り、作者がどんな状況下にいて、何を訴えたくてその作品を創ったのか。作者についてとことん調べ、作品と作者を紐づけたうえで一つの作品として見ているんです。そのうえで、「これは好き」「これは嫌い」と判断している。
物事を深堀りするっていうのはこういう事なんだな、と勉強になりました。
(私は作品単体としか見てないよ。。。「薄っぺらいな、自分」と思っていたけど、そういう事なんだと思う)
文学に至っては、実際に読んでいるか、も会話の肝となります。
”「白痴」のムイシキン公爵とか…”
普段、こんな話しますか?笑
この会話について行くためには、「白痴」を読んでムイシキン公爵がどんな人物なのか、ストーリーで彼はどういう役目なのか、本を読んでいることが必要なのです。
普段から何を見てどう感じているのか。
対象物が私とは全く違う。笑(住む世界が違うって、ここの違いだと思う)
「わからない」って純粋に思ったのですが、そりゃそうなのです。読んでいないのですから。
この本を読んで、久しぶりに「わからない」って感覚を抱きました。
同じ日本語を話しているのに、知識がない故に理解できない。共通言語について行けないって、こういう事を言いたいのです。
”わかるということはわからないなと思うことだと思いますね”(抜粋)
ものすごく考えさせられる言葉です。
こちらの書籍は「わからないな」だらけでした。。。
私も「わかる」に一歩近づけたということでしょうか。-
こんばんは。(^^)
教養の深さと広さが異次元ですね。
私も、出来るだけ昨今のファスト教養みたいな風潮に抗いたいと思います。笑こんばんは。(^^)
教養の深さと広さが異次元ですね。
私も、出来るだけ昨今のファスト教養みたいな風潮に抗いたいと思います。笑2023/12/21 -
Tomoyukiさん
こんばんは。
コメントありがとうございます。
「教養の深さと広さが異次元」
そう、これが言いたかったんです...Tomoyukiさん
こんばんは。
コメントありがとうございます。
「教養の深さと広さが異次元」
そう、これが言いたかったんです!
ありがとうございます。
私もこの本を読んで、消化のいい本ばかり読んでいたと反省しました。
年末年始の休暇で、トルストイ、挑戦してみるかなーと考え中です。笑
2023/12/22
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50年以上も前の対談なので彼らが生きていたらいまの日本をどう見るのか気になる 神風特攻隊を挙げて日本人は小我を自分だとおもわない民族といっているが、いまではあれはヒロポンで覚醒状態だったというのが定説である 難しい話も多いがこの本も考えるヒントになることも多い
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日本を代表する数字者と批評家の対談。150ページほどで読みやすいように思うのだが、あれって改めてどういう意味なんだろう?と再読したくなる一冊。
扱うテーマごとに広さと深さが感じられる。ドストエフスキーとトルストイのやりとりはその象徴。
①数学を扱う岡潔が人間理解についてとても執着している点、②批評家の小林秀雄がアインシュタインを批判的に考察している点、③お互いを尊重し違いを認めつつ情緒という点で2人が合意する点などは興味深い。
あと、釈迦の無明のくだりはじわりと良さが染み込んでくる。岡潔いわく、「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。」
自己中心に考えた自己を西洋では自我、仏教では小我と呼ぶとしたうえで、「小我からくるものは醜悪さだけ」という。デカルトに代表される西洋近代の考え方を批判するあたりはふむふむとなる。
2人とも言葉をとても大事にしている。小林秀雄の以下の言葉が象徴的でした。
ある言葉がひょっと浮かぶでしょう。そうすると言葉には力がありまして、それがまた言葉を産むんです。私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ひょっと言葉が出てきて、その言葉が子供を産むんです。そうすると文章になっていく。文士はみんな、そういうやり方をしているのだろうと私は思いますかね。それくらい言葉と言うものは文士には親しいのですね。 -
背表紙に「文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談」とあるが、天才すぎて何言ってるか全然分からず、途中で断念…
ちーん…(−_−;)
したがっていつものように評価なしです。
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おびのりさん、こんばんは。
いつもわかりやすくて暖かいレビュー、楽しく読ませていただいております♪
おびのりさんは読破されたのですごいと思...おびのりさん、こんばんは。
いつもわかりやすくて暖かいレビュー、楽しく読ませていただいております♪
おびのりさんは読破されたのですごいと思います。
私、あまり好きではない時、途端にペースが落ちます。(YouTubeに逃げ始めます…)
1週間で読めなかったので、断念しました。
おびのりさんのコメントで救われました。
なんか読めないと罪悪感があるんです。2022/12/03 -
これは、岡さんが難解な先生でしたね。
読むことは読みましたけれど、hibuさんの言う通り、評価させていただけるほど、理解出来なかったですよね...これは、岡さんが難解な先生でしたね。
読むことは読みましたけれど、hibuさんの言う通り、評価させていただけるほど、理解出来なかったですよね。
また、お邪魔します。2022/12/03 -
2022/12/03
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数学者の岡潔さん、批評家の小林秀雄さんの対談集。対談だから、読みやすいかな、とも思ったのですが、やはり難しいです。情緒とは、学問とは、アインシュタインから哲学まで、話題は多岐に渡ります。図書館の本だったので最後は流し読みしてしまった。再読したい。
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今年の新潮100冊、最後の4冊め。
今年は日本の近代作品ばかり選んだおかげで、さすがにハズレなしでした。
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もっと置いていかれるかと思ったのですが、お二人ともとても丁寧にわかりやすく話してくれていました。
特に岡氏。
大事なことは情緒なのです!
ということを一貫して何度も主張されていて、さすがのわたしにも理解できました。
もっと数学の証明のように合理的で論理的で端的な話し方をされるのかと思ったら…
どちらかというと住持さんのようなお話ぶりで、良い意味で裏切られました。
日本への深い愛情にも、胸をうたれました。
また、職場の効率至上主義に個人的に辟易していたので、彼の情緒主義に単純に救われもしました。
小林氏が、彼から深く話を聞き出そうとせっせと水を向けているのも、なかなか印象的でした。-
あかねさん、こんばんは。
おびのりです。
私も、密かに?新潮文庫の100冊を制覇しているのです。お気づきでした?
この本もそろそろ読もう思っ...あかねさん、こんばんは。
おびのりです。
私も、密かに?新潮文庫の100冊を制覇しているのです。お気づきでした?
この本もそろそろ読もう思っていたんです。
良さそうな内容で楽しみです。2022/07/31 -
わ、おびのりさん こんばんは。
コメントありがとうございます。
おびのりさんの 新潮100冊タグを拝見して気づきました。
制覇とかスゴイで...わ、おびのりさん こんばんは。
コメントありがとうございます。
おびのりさんの 新潮100冊タグを拝見して気づきました。
制覇とかスゴイです、夢です。
わたしはあと何年かかるやら…2022/08/01 -
地味な本も多いので、新潮の100冊を読んでそうな方は少なく、同志を見つけて嬉しいです。
暑い日が続きます、お身体ご自愛して、そして、読みまし...地味な本も多いので、新潮の100冊を読んでそうな方は少なく、同志を見つけて嬉しいです。
暑い日が続きます、お身体ご自愛して、そして、読みましょうね。2022/08/01
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知や意思はいかに説明しても、情は納得しない。直観(感情の満足・不満足)なしに情熱は持てない。裏打ちのないのを抽象的という。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない。
欧米人の指導層には小我をもって自己と考える欠点がある。日本人の長所の一つは神風のごとく死ねること。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできない。無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直観がはたらかない。欧米人の特徴は目は見えないが、からだを使うことができる。目を閉じて、からだはむやみに動きまわっている。いつ谷底に落ちるかわからない。日本がすべきことはからだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないこと。
奈良の博物館。正倉院。破れたきれの展示を丹念に長い間見た後に、外へ出てみると、どの松を見てもいい枝ぶりをしている。自然は何を見ても美しい。
自然科学の世界(例:相対性理論の時間・空間)は自然言語では説明できない。言葉にならない。数学言語が必要になる。
数学は印象でやるもので記憶はかえって邪魔になる。
おか・きよし 岡潔
『人間の建設』1965 -
神本!
数学者と批評家という一見すると全く違う分野を進んだ方々の対談なのに、こんなにも共通点がある。
何かを極めようとするとき、深く、広く、色々なことがつながっていくのだろうか。
夢を追おうとすると孤独を味わうのと同時に、先人偉人が通った道を所々に見つけて「こっちでいいのかも」と次の一歩を踏み出す勇気をもらえることがある。
読んで良かった!
ゆうだいさんのレビューでこの本の意味がよくわかりました!
それと難解本に向かう姿勢も学ばせてもらいました。
おびさんの...
ゆうだいさんのレビューでこの本の意味がよくわかりました!
それと難解本に向かう姿勢も学ばせてもらいました。
おびさんのコメントにもありましたが、まさに果敢!素晴らしいです!