ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102057018

感想・レビュー・書評

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  • サリンジャーは本当に意地悪なひとだと思う。かなり、変わっている。
    バナナフィッシュからはじまる一連の物語の不可解さ、不思議さ。なのにでも、どこかひきつけられた暖かい。
    始めは、出来事の順序や時間といった因果関係がつながっているようで壊れていて、困惑した。出来事と行動を結びつけることが拒まれている。なんだこれは。
    テディまで読んでようやくわかった。出来事に因果関係など、はじめから彼は持たせていなかったのだ。彼はことば以前に立ち戻って語ろうとするために、因果関係を拒絶するような飛躍をしているのだ。テディのことばを借りれば、エデンのリンゴを吐き出して、ということだろう。
    どうしても理由や意味をもとめたがってしまう。シーモアはなぜ自殺したのか、とか。今目の前にいる愛らしい口元の目は緑の奴は何者か、とか。なぜコネティカットのひょこひょこおじさんはあんなにも涙したのか、とか。ド・ドーミエ=スミスはあの晩何を見たのか、とか。はっきりいってそういったことを求めるのはナンセンスだと思う。わかるわけないのだ。はじめから意味や理由を持たせていないのだもの。ただ、在るようにしかない。バナナフィッシュはバナナフィッシュであって、それ以上の何者でもない。どんな形でどういう色でとか、海にバナナって何なのか、そんなものない。そうとしか、言えない。そうとしか言えないように、しているのだ。たぶんプラトンへの敬愛が彼にあるんだと思う。
    そうすると、バナナフィッシュになったり、眼鏡を頬にこすり付けて泣いたり、脱腸帯を締めてるマネキンになったりするのだ。こういう意図的にナンセンセンスなものが書けてしまうというところが、ものすごく変わっている。哲学者ではこうはできない。
    そして、そのことを最後に10歳の少年に堂々と語らせて、見事に落ちまでつけて幕引きさせるのだから。まるで今までの8編での取り組みのほどを確認するかのように。相当イケズだと思う。
    解説によると、彼は自分の略歴や作品への解説を許可していないようだ。戦争がどうとか、家庭がどうとか、人物像や彼の表す象徴の解釈を作品に持ち込んでもらいたくないのだ。そんなものなくても、彼の書いたものを自力で理解できなければ、リンゴを吐き出してものを言えない。いや、理解というよりはもはや体感といった方がいいかもしれない。
    彼の作品に登場するのは若いひとだと言うが、年齢というよりは根源的というところなんだと思う。いくら年がいっていても、根源をいつでも見出せるひと、それが若さなんだと。10歳でも何歳でもいいのだ。常に古く、常に新しく、ひとは根源に至ることのできる可能性を持っている。

  • あまり人気はないようだが、『小舟のほとりで』が好きでなんども読み返してしまう。あの二人の会話が、何気なくて、小さなことで、それでいてとても大きな問題で、優しい。『バナナフィッシュにうってつけの日』などがサリンジャーの真骨頂ではと思うが、それと同じくらい心の僅かなゆらぎを描ける作家としての実力(野崎先生の力含め)が『小舟のほとりで』にはあると思う。

  • 大学の読書レポート用に書いたもの(2019年2月)を転載。

    ~~~~~
     「バナナフィッシュにうってつけの日」というサリンジャーの短篇について知ったのは、吉田秋生作の漫画『BANANA FISH』がきっかけだった。この漫画のタイトルはサリンジャーの短篇から取られている。漫画の中で「バナナフィッシュ」とは、その姿を見ると死にたくなる「死を招く魚」であると説明されている。自殺を誘うという不気味な設定に、「バナナフィッシュ」が原作ではどのように描かれているのか、興味をそそられた。さらに、シーモアを中心とする「グラース一家」を描く一連の作品が存在することを知り、本作を手に取った。本作に収録されている短篇の一つ、「小舟のほとりで」も「グラース一家」シリーズの一編だ。

     「バナナフィッシュにうってつけの日」は、主に三つのシーンに分かれている。シーモアの妻ミュリエルがホテルで母親と電話をするシーン(このシーンでシーモアが精神的に不安定であることが間接的に明かされる)。シビルという少女がシーモアとビーチで話をするシーン。そして、シビルと別れたシーモアがホテルの部屋に戻り自殺するシーンだ。これらのうち、「バナナフィッシュ」の名前が登場するのは二つ目のシーンのみである。
     バナナフィッシュが、シーモアの自殺にどのような関わりがあったのか考察してみる。
     二つ目のシーンにおいて、シーモアはシビル(おそらく3,4歳ほどの女児)に海でバナナフィッシュをつかまえようと提案する。バナナフィッシュについてシーモアは、「実に悲劇的な生活を送るんだ」(P.29)と語る。バナナフィッシュは、バナナがどっさり入った穴に泳いでいき、バナナを食べすぎて穴から出られなくなる。そして、最後には「バナナ熱」に罹って死んでしまうという。
     このシーンで不可解な描写は、シビルがバナナフィッシュを見たと言った途端に、シーモアが驚き、急いでシビルの足に接吻をして海から上がらせたことだ。バナナフィッシュを探すことを提案したのはシーモアの方であるにも拘わらず、まるでシビルをバナナフィッシュから遠ざけようとしているように読み取れる。
     では、バナナフィッシュとはどういった存在なのだろうか。上記のバナナフィッシュの性質は、強欲とその結果としての破滅を端的に表している。また、シビルとの会話の中でシーモアがスノビズムにも触れていることから(P.30)、彼が俗世や俗物根性を意識していることが伺われる。
     シーモアはシビルに、「きみも若いころにはずいぶんバナナフィッシュを見たことがあるだろう?」(P.26)と問いかけるが、シビルは否定する。すると、二人の会話は要領を得ないものとなる。さらに、シビルがシャロン・リプシャツという別の少女のことを話題にすると、シーモアはシャロンの純粋な優しさを褒めて「ぼくはあの子が大好きなのさ」(P.28)と贔屓するような発言をする。これらのことから、シーモアは、幼いシビルが強欲にまみれた俗世を意識しないほど純粋なのか、もしくは既に俗世に染まってしまったために、無関心であるのかを見極めようとしていたことが考えられる。バナナフィッシュを見たことがないと発言したシビルが、シーモアと海に入り、今度はバナナフィッシュを見たと言ったことがそのどちらを意味していたのかは定かではない。しかし、この出来事が、直後に起こるシーモアの自殺のきっかけになったとすると、シビルのような幼い子どもが、強欲の象徴であるバナナフィッシュに気付いてしまっていることに彼が絶望した、と考えることができるだろう。

     次に、「バナナフィッシュにうってつけの日」を「小舟のほとりで」と比較してみる。
     「小舟のほとりで」は、ブーブー・タンネンバウム、「旧姓グラース」(P.127)が、一人で小舟に「家出」をした息子ライオネルを説得するシーンを描いた短篇だ。ブーブーは、ライオネルの小舟遊びに付き合うように海軍の提督を演じるが、「ママは提督じゃない。ママはいつだってただの奥さんじゃないか」(P.127)と拒絶される。しかし、彼女は設定を守って独特の口調を続け、「秘密のラッパ」だという口笛を吹いて息子の興味を引こうとする。ライオネルは、二歳のころから家出をしていた繊細な子どもとして描写されている。繊細である彼は、母親は「ただの奥さん」だという現実を突きつける父親や、家族を侮辱するメイドといった大人の言葉に傷ついていた。そんな幼い息子に寄り添うことで、ブーブーが彼の純粋な心を守ろうとしていることが、彼女の行為から読み取れる。それは、シビルが波にさらわれないよう足を抑え、バナナフィッシュに目を光らせていたシーモアに通じる姿勢である。

     「バナナフィッシュにうってつけの日」において、シーモアはバナナフィッシュに象徴された強欲というものに嫌悪を抱いていた。最後には人間の強欲に絶望して自殺に至ってしまうが、彼はシビルやシャロン・リプシャツのような純粋な幼子たちと触れ合いながら、彼女たちを、現実の危険と、精神的なものの両方から守ろうとしていた。彼の妹であるブーブーも息子を大人たちの世界から守ろうとしていた。
     同じくサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは、自分より純粋な子どもたちを大人の世界から守る存在になることを漠然と希望している、と大学の講義で学んだが、この二つの短篇にも同じテーマが根底に流れていると言えるだろう。

  • アメリカ文学を代表する名作。

    サリンジャー作品の「グラース・サーガ」にまつわる物語を絡めつつ、精緻で美しい短編が綴られている。

    個人的には「エズミに捧ぐ」がとても美しく好きだ。
    サリンジャーの描く「若者たち」の姿がとても綺麗に描かれている。

    ボロボロになっても終生本棚へ立てておく価値のある文学作品だ。

  • はじめて読んだときから、たぶんしぬまでずっと好き。
    以前読んだとき、意味がよくわからず「????」となり、今回読み直してもまた意味がよくわからなかった。しかし理解しようと内容についてたくさん考えるのが楽しかった。
    どのお話しも印象にのこった。
    「バナナフィッシュにうってつけの日」「コネティカットのひょこひょこおじさん」「笑い男」「エズミに捧ぐ」「テディ」がとても好き。

    「バナナフィッシュにうってつけの日」にてシーモアが話す寓話が昔からお気に入り。最後はびっくりした。
    この短編を読むたびに都合よく記憶が消せたらいいのにと思う。記憶を消して、もう一度はじめて読んだときの衝撃を味わいたい。

  • 全体としては先に読んだ『ライ麦畑でつかまえて』の方が好きなのですが、
    その理由は長編と短編の違いと、「君」に向けて書かれた文章か
    普通の小説の文体かどうか、人称の違いなのかなあという気がします。

    長編『ライ麦畑』の場合、いちど作品世界に入っていけたら
    後はすらすらと読めましたが、『ナイン・ストーリーズ』の場合は
    各登場人物・人間関係の把握に時間がかかり、
    のめり込めたかと思うと後半で、すぐ終わってしまう。
    二回目の方が面白いのかもしれません。

    把握するのに時間がかかるので、こちらの方が読み難かった。
    読み終わるまですごく時間がかかりました。
    短編だと、一日一本のつもりで読むのですが、話の途中で諦めて
    次の日に持ち越すことも多く・・・そのせいで『愛らしき口もと目は緑』は
    ちゃんと読解できていませんでした。残念。
    序盤の「深い青」=海の貝殻みたいな目=緑じゃない という描写を
    見逃してしまうと、これは意味がさっぱりわかりませんね。

    そんなわけで全体としては★4ぐらいだけど、
    『エズミに捧ぐ』が突出して大好き・・・これだけ10回は読み返したいぐらい。
    前半後半等、違う話を合体させているパターンも、この短編集ではかなり多いです。
    『笑い男』もそうだし、『テディ』なんかも。
    『エズミに捧ぐ』も、前半と後半・・・参戦前後で違う話。構成がすごい。

    『バナナフィッシュにうってつけの日』はシーモアの話ですが
    『僕は狂ってる』の後の、『ライ麦畑』の原型のような感じ。
    『ナイン・ストーリーズ』全体を通して戦争後遺症、PTSDが影を落としてる。
    PTSDと、サリンジャーは無垢なものに対する憧れ云々と言われますが
    早い話が重度のロリコン・ショタコンなんじゃないかと・・・。
    あまりに純粋なロリコンですよね。
    そこの部分の描写があまりにも巧みすぎます。
    なにかを描写するのに、直接的ではなくて
    周りから細かく描写している。周囲の雰囲気込みで。そしてその観察眼の鋭さ。
    だから、読むのに時間がかかるのかもしれません。

    『笑い男』はそのまま『ダークナイト』の世界観、
    ジョーカーや乱歩の『黄金仮面』のようなイメージ。

    『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』も、地味に好きです。
    何かの芸術作品を介在させて、女性に惹かれていく。
    まあそれは文章でも絵でもなんでもよくて、その人のセンス。
    これ、すごくよくわかりますよ。魂の部分で惹かれるところが。
    勝手に妄想するとこは青くさいんだけど(笑)。

    『テディ』で終わるんですけど、また『バナナフィッシュ』に還ってくる、
    アルバムの最後の曲が終わると、また一曲目に戻ってくる
    そんな印象を受けました。
    とにかく『エズミに捧ぐ』が大好き。★100個。


    「あなたもわたしをひどく冷たい女だとお思いになって?」

    • kwosaさん
      ああ、GMNTさん!

      また『ナイン・ストーリーズ』が読みたくなりましたよ。
      僕は『エズミに捧ぐ』が強烈に好きだったということは覚えているく...
      ああ、GMNTさん!

      また『ナイン・ストーリーズ』が読みたくなりましたよ。
      僕は『エズミに捧ぐ』が強烈に好きだったということは覚えているくせに、内容はすっかり忘れているんですよ。
      でも、ものすごく良かったってことだけ覚えているんです。なんなんでしょうね。

      サリンジャーは、これと『ライ麦畑』しか読んでいないんですが、『ナイン・ストーリーズ』は折に触れ読み返しますね(そのくせすぐ忘れるんですが)。

      柴田元幸の新訳も買ったのですが、これに関しては野崎訳が好きなようです。
      『バナナフィッシュにうってつけの日』は柴田訳では『バナナフィッシュ日和』になっていて。
      でも「うってつけの日」ってのがいいんですよね。
      GMNTさんがどこかのコメント欄に書いていらした『ライ麦畑でつかまえて』の「つかまえて」感みたいなものですかね。

      『バナナフィッシュにうってつけの日』の、死に至るまでの不条理感(けっして不条理ではないのですが)が心を締めつけ、油断すると涙がこぼれそうになります。

      よく推理物のドラマなんかで、自殺に見せかけた殺人事件というシチュエーションで、探偵役が「これから死のうとする人間がビデオの録画予約をするでしょうか」みたいなセリフがでてきますが、そういうことあるとおもうんですよね(ミステリなので推理のとっかかりとしては問題ないのですが)。

      慢性的に死に思いを馳せていて、そのギリギリのラインで毎日をなんとか生きている人。
      毎日、それなりに楽しく生きているけれど、ビデオの録画予約をした後に死にたくなっちゃったとか。

      サリンジャーの、特に『ナイン・ストーリーズ』は、そのギリギリのライン、人間の心の境界の不可解な部分を不可解なままにごろっと提示しているのが凄いと思います。
      作品を媒介してサリンジャーからテレパシーを送られているような不思議な感覚です。
      2013/10/01
    • GMNTさん
      『エズミに捧ぐ』は、主人公(サリンジャーの分身)がWWII時に渡英して、諜報部隊かなんかの訓練を受けてるときに女の子(エズミ)と出会う話です...
      『エズミに捧ぐ』は、主人公(サリンジャーの分身)がWWII時に渡英して、諜報部隊かなんかの訓練を受けてるときに女の子(エズミ)と出会う話ですね。
      エズミに書いてとせがまれた「愛と汚辱」についての小説が入れ子、メタ的構造になってて前半が愛、後半が汚辱=戦争終結直後のPTSDの話・・・と言ったら思い出されるんじゃないですかね?
      『スローターハウス5』もそうでしたけど、結局こういうのが自分のツボなのかも。
      『エズミ』は前半の描写や話してる内容も全部ツボなんですよね・・・。

      『ナイン・ストーリーズ』に関しては、地の文が話し言葉じゃないので
      野崎さんの訳でも全然古くささを感じませんでしたねー。
      『バナナフィッシュ日和』だと『ギャグマンガ日和』とか、
      あとなんとなく俵万智っぽくないですか?(笑)
      『サラダ記念日』とか『チョコレート革命』とか・・・
      カタカナ+漢字の組み合わせの。

      「つかまえて」感、あそこに思惑や意思が篭ってる気がします。
      野崎さんの単語選びは濃い気がするんで、やっぱりそこ含めてファンになってしまいますね。

      >死に至るまでの不条理感
      それはよくわかります。
      というか・・・『ライ麦畑』のオチの解釈も有名なのでネタバレしてて、
      新潮文庫の『ナイン・ストーリーズ』はカバーの裏表紙に「自殺」って思いっきりネタバレしててw
      これひどいなあwwwww

      『ライ麦畑』と『バナナフィッシュにうってつけの日』と『テディ』は
      全部つながってますねー。
      それぞれ形は違うんだけど、あとの2本は死が唐突に来ますから。

      『ライ麦畑』よりも『ナイン・ストーリーズ』の方が
      若い頃に読んだ方がいい本だな、って思いました。
      2013/10/01
  • いかつい
    うおおって声が出た最後の数行

    2話目も、最後の数行で急にフォーカスされるというか、話が着陸する感じ。それまで読んだところの意味合いも違って見えるというか

    3話目 対エスキモー戦争
    現代文の教科書に載ってそうな。
    私は結構好きだった。雰囲気が。
    女の子同士の、自己主張していく過程でお互いに傷つけあって意地っ張りになっていく様子が身に覚えあったからかな。でもあの年代特有の?強さというか勇ましさというか。ちょっとの親近感とちょっとの懐かしさを覚えた私は今過渡期にいるのかもしれない。

    4話目 笑い男
    よくわからない。味わうという意味ではその世界に触れたかもしれないが、読み取れたことは決して多くはないのですぐ忘れてしまいそうな気がする。メタファーに富んだ笑い男の話だけでも充分読み応えがある(忘れられた巨人を思い出した)が、それが入れ子構造になっているのが不思議だし、難しさの所以か。

    5話目 小舟のほとりで
    すっごい。すっごいすき。これまでの流れで、こんなにほんわかした読後感を得るとは思ってなかったから拍子抜けしている。理不尽が織り込まれた社会の中に、こんなにも幸せな世界を作れるのは母と子の成せるわざか。それとも親は一般にこうなのだろうか。私はライオネルの目でも、バーバー?の目でもこのほとりの景色を見て、どちらでもすごく満たされたと感じた。また読み返したい。

    6話目 エズミ
    つらい
    情景描写がすごい。読むのを中断している時私はカフェに座っていた

    7話目 愛らしき口元眼は緑
    おつかれってなる話


    8話目 ド・ドーミエ・スミスの青の時代
    ニヤニヤしながら読んじゃった。友達にはなりたくないけど文章で読むのは最高


    9話目 テディ
    テディ! 最高だ。フラニーとズーイ感。
    描写や形容の美しさ溢れる船の世界から(舷窓という語彙は私にはなかった)、一息で思考へ。(ゆる言語学ラジオ、ソシュール回第3回にリンク)
    最後にここまで濃い論がぶち込まれることに感嘆。
    俳句も良かった。



    ・サリンジャーの、子供への目線は目を見張るものがある。どこで培われたんだろう

  • エズミに捧ぐが世界で一番好きな短編。
    サリンジャーの描く人物は素敵な人ばかりなのにバナナフィッシュが有名すぎてブラックなイメージがついてて悲しい。シーモアは「大工よ···」を読んでれば実際はめちゃくちゃ最高の人間だってわかるのに···いや、いかれてるのは変わらないけども。

  • どう解釈したらいいか迷うのがだんだん楽しくなっていく本だなと。不思議と読んだあとはほっこりするというか…なんか和みます。

  • J.D.サリンジャー生誕100周年。この作品は初期の短編集です。子供を主人公にした作品が目立つます。『ライ麦畑でつかまえて』を想起させるような子供の内面描写がいくつもあり良い。中でも「笑い男」が好きで、この物語はコマンチ団という少年たちと団長の大学生の物語で、団長が彼らに話す物語が笑い男のストーリーなんですよ。この少年たちと団長の間に大人の女性が入ってきて不協和音を生み出し、どうやら二人は付き合っていて、でも、団長と女は別れるのかな。その団長の気持ちが笑い男のストーリーに影響し、子供たちにまで伝わるのです

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