シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114025

感想・レビュー・書評

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  • 表題作はたった6ページだが、とても力強い。人生の不条理の一端に触れることができた身として、私も言おう、「すべてよし」と。

  • 凄くよい。不条理について。

  • 小説かと思いきや完全な哲学論考でかなり難解。
    途中でいきなり挿入されてるドストエフスキー論が面白い。
    カフカ好きな人には終章のカフカ論も。
    『異邦人』読んでカミュの言う「不条理」についてもっと深く知りたいと強く思った人向け。

  • 「すべてよし」
    不条理について様々な観点から行われる試論。

    わたし自信どこまで理解できたかはわからないが、自分自身が時折感じる不条理さについての出口(というと少し大げさだが)、いや出口を見付け出す必要がなく、向き合うことが、意識することが必要であると感じた。

    意識的な姿勢で人生を生きなければ経験などなんの意味ももたない。時に量は質を生むことがある。

    意識するということ、それが重要だ。

    この本に登場する、数々の不条理な作品や、人物についての考察、それらについて触れたのちにまた読んでみたいと思う。

    なので評価はつけずにおこうと思う。

  • 神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押し上げる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。――本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追求したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。

  • 小説だと踏んで買ったら、論説文とか哲学エッセイの類いでした。「不条理」についての論考を諸哲学者・文豪を引きつつ展開しています。
    最後に付録として「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」という項が加えられていました。カフカファンとしては嬉しい。得した気分。
    またドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」についての言及がありました。未読の本についてしゃべられるとそれを読んでみたくなりますな。

  • 生きることそのものが不条理。でも、それを認めて、いつか来る死と現実に相対峙しながら生きるしかない。しかも、長く、多く。

  • 読んだのは1年も前だけど感想書いてなかった。まとめないと忘れる。

    不条理と自殺との関係についての本。
    曰く、「不条理」とは”この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態”、或いは“欲望する精神とそれを裏切る世界とのあいだのあの背反状態”、或いは”人間と世界とを結ぶ唯一の絆”。
    実存哲学者達は人の理解を超えたものを神と呼び、不条理を生きる苦しみから逃れようとする。世界の不思議を全て神様の仕業にして受け入れてしまう。が、カミュは「不条理=神」とするのは飛躍だ、逃避だと批判する。
    “シェストフにとっては、理性はむなしい、が、理性を超えたかなたになにものかが存在する。不条理な精神にとっては、理性はむなしい、しかも、理性を超えたかなたにはなにもないのだ。”

    この絶望の中で、生きるべきか、死ぬべきか。カミュは生きるべきだと言ってる。
    不条理は人間と世界との関係、対立のなかにあるから、対立の一方の項を否定すること(自殺)もまた不条理から逃げ出すことになる。神を信じることも自殺することも拒むとき、残った選択肢、“筋道の通った数少ない哲学的姿勢のひとつは反抗である”。

    “反抗とは、人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要請だ。”
    “この反抗とは、圧倒的にのしかかってくる運命の確信―ただし普通ならそれに伴う諦めを切り捨てた確信―それ以外のなにものでもない。”

    “意識的であり続け、反抗を貫く―こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で情熱的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に立ち向かわせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のことだ、なぜなら、このように日々意識的でありつづけ、反抗を貫くことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。”

    生きる。具体的には、より多くを生きる。
    “同じ年数を生きたふたりの人間に対して、世界は常に同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受取るぼくらの側の問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。”



    こんな感じだったと思うけど、腑に落ちない点もある。
    全てを知りたいって欲求はめちゃめちゃ大きいし、どこまでも理性的でありたいって気持ちも理解できるけど、神(どんな神かにもよるけど)を信じるからといって、そこで思考停止に陥る人ばかりでもないと思うけどなぁ。

    それから不条理=神とすることを拒むのは、どこまでも理性的であるって前提で納得できるけど、自殺によって不条理から逃げちゃいけない理由、反抗しながら生きなきゃいけない理由が、“偏見のない人間にとっては、知力が自分の力をはるかに超える現実と格闘している姿ほど素晴らしい光景はない”、つまり「抗ってる自分かっけぇ!」だけなのはすごく弱い気がする。人生の意義は意義などない人生を生き抜くことだ、それを生き抜くのがカッコイイんだと言われても、そう思えない人には自殺を思いとどまらせることができない。

    あと、“重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ”っていう具体的な生き方に関して。“生の意義を信じることは、つねに、一連の価値の階梯、ある選択、ぼくらの好みを前提としている。不条理を信じることは、これまで定義したところにしたがえば、それとは反対のことを教える。”ってことで、不条理を生きる人間には良いも悪いもない、”どの行為の結果も等価値”だと言ってる(これは犯罪を勧めるものではないとも言ってる)けど、何だかあらゆるものから自由でいることにこだわりすぎてるんじゃないかって気がする。“自分の人生に何か一つの目的を思い描いている限り、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。”なんてことも言ってるし。なにものからも自由でありたいがためにこの論理をつくり上げたんじゃないかって気もしなくもない。



    ただ語り口はやたらかっこいいのでぐいぐい読ませる。以下は一年前の自分が付箋貼った箇所の一部。

    “おのれを殺す、これはある意味で、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。”

    “ごまかしをしない人間なら、真実だと信じていることがその行動を規定するはずだということを、原則と認めることができる。”

    “ひとりの人間にとって世界を理解するとは、世界を人間的なものへと還元すること、世界に人間の印を刻みつけることだ。”

    “まったく道徳的だと思えるひとつの明々白々たる事実がある。人間は常に自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。”

    他にも印象的な言葉がたくさんあるよ。

  • ざっくりと読んだ。はっきり言ってわかるようなわからないような。
    最後のおまけ?に載ってたカフカ批評が意外にも面白かった。カミュさん思考のレベルが高すぎます。カフカもまた読み直そうかなって気になる。

  • む、難しい。

    けれども、
    彼の「不条理」「反抗」という姿勢は、
    絶えず変化する、という信念は変化しない、
    というわたしの考えに近くて、
    なるほどと得心する部分が多々ある。

    理性に依るのでもなく、
    神性に依るのでもなく、
    両者を相対峙させたままの状態(不条理)に置いておくこと。

    ガリアニ神父がデピネ夫人に言った
    「重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」
    という言葉を引いているが、
    おそらくそれが「反抗」なのだろう。

    「確実なものはなにもない」という確実性。
    その中に身を置くこと。

    なんともしんどい生き方であるが、
    わたしはこういう生き方を望んでいる。

    本書で特筆すべきは、
    たったの6ページしかない、
    表題の「シーシュポスの神話」。

    短い小論にもかかわらず、
    表題になる理由も読めば納得である。

    彼は神々がシーシュポスに課した刑罰から、
    「不条理な人間」を説明している。

    その刑罰とは、
    休みなく岩を転がして、
    ある山の頂まで運びあげるというもの。

    けれど、
    ひとたび山頂まで達すると、
    岩はそれ自体の重さでいつも転げ落ちてしまう。
    無益で希望のない労働を課したのである。

    この話から、
    「無益で希望のない労働」をする自分の悲惨な在り方を認め、
    その上でまた労働を繰り返すシーシュポスは、
    自らの運命をその手中に収めたということだと言っている。

    つまり、
    人生が無意味であることを意識し、
    なおそれでも「すべてよし」と言える、
    それが「不条理な人間」なのである。

    賽の河原の石積みも同じことが言えるだろう。

    「すべては等しく意味がない」

    カミュの哲学はここから始まり、
    意味がない故に何者にも縛られない「自由」が立ち上がる。

    これはややもすると自殺へと行きかねないが、
    彼は「反抗」という言葉でそれを退け、
    多く生きることに重きを置いている(カミュの夭折は皮肉としか言いようがない)。

    なんだかんだで、
    けっこう実存主義的な感じがするので、
    サルトルとの違いを確かめてみようかしら。

    ちなみに、
    「99.9%は仮説」という本に、
    「科学はすべて仮説であるが、
    科学はすべて仮説である、という説だけは仮説ではない」
    というようなことが書いてあったけれど、
    こういう科学的な態度もこれに近い気がする。

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