- Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102114025
作品紹介・あらすじ
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。-本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である"不条理の哲学"を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。
感想・レビュー・書評
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「異邦人」や「ペスト」より読みやすく感じた。全編カミュならではの不条理論。不条理からは逃げることができない、ならば逃げずに受け入れて冷静に生きて行こう、ただし虚無的な態度で、という要旨かしらん。所々こじらせていて、明らかにサルトルのことなのに「どこかの作家の」みたいな言い回しをするのが時代考証的にも面白い。
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難しい本でした。
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『シーシュポスの神話』を読んでみた。
……。
ペストよりも複雑。訳のせいなのか、原文もやはり複雑なのか。
カミュの思考の断片を読む…みたいな目的があるなら楽しいかも知れない。けど、個人的には回りくどく延々と同じ事を違う言葉で言ってるだけにしか見えなかった。
この辺りの思考が『ペスト』のあのあたりに反映されてるんだな。という部分もあったけど。
知らなくてもペストはペストで十分、疲れる物語だった。私には『ペスト』で意味が分からず疲れた部分を、ぐっと深堀してもっと疲れるため作品でしかない。
頑張って読んでみたけど、何を読んでるのか分からなくなる。
物語ではなくて、エッセイなのでなおさら、『個人の思考』の話。個人的すぎて、分かるケド……分かるケド、そんなのを長々と綴られたらこっちが発狂するわ。と思った。
不条理がどうのこうのと書いてあったけど、こんなのを読んでると『この本を読む事が不条理である』という思考に行きつきそう。
タイトルにある『シーシュポスの神話』とは、岩を山の上まで運ぶと、その岩が転がって再び山の上まで運ばなければいけないという地獄の物語らしい。
この本の事だろうか? 一度読んだと思える部分が再び繰り返される。
……で?何の本だった?と聞かれると、
『意味の分からないモノを延々と繰り返す本』と言ってしまいそう。
もちろん、繰り返して読む気はない。本棚の奥深くに眠らせてしまいたい一冊。本棚の奥深くから引っ張り出したけど、再び戻そうと思う。 -
難解な本だった。おそらく、まだ内容を理解できてはいないだろう。
世界に「永遠なるもの」の存在を否定した結果、本能的に世界に真理を求めようとする人間の生は、無意味なものとなる。我々は、何の希望を持つことも許されず、無基準の「自由」で不条理な生活を強いられる。それでは、今ここで自殺することは、不条理な生に直面した人間にとって、優位な選択となりうるだろうか。
いや、違う。なぜならば、自殺は不条理を不条理でなくそうとするものだからだ。不条理に対する人間にとってそれは、一種の欺瞞である。
それでは、どうやって我々は生きるのか。それは、不条理な運命に対する反抗であるとカミュは述べている。その反抗を通じて、我々はこの無意味な世界とその人生に満足感を得ることができるのだ。
時期的にもナチスへのレジスタンス精神の影響を感じる内容だった(もちろん、元からそのような人物であった可能性もあるが)。
個人的には、彼の考えに同調できない部分があることも事実である。
まず、反抗により得られる幸福は、明晰な見解のもとでは空虚なものとなりうるのではないか。つまり、不条理に対する反抗を通じて満足感を得ようとする試み自体が、その幸福を、たとえ自己欺瞞的なものであれ、希望と化することにつながるのではないかということである。
こうしたことからも私は、彼らは不条理な人間というよりも、反抗する人間と呼んだ方が正しいのではないかと思われた。彼らは不条理な世界で存在しない意味を見出すべく反抗しているのではなく、ただ単に反抗したいから反抗しているのではないかと考えたのだ。手段と目的が混同されているように感じたのだ。
不条理な世界や運命に対する反抗とは、つまるところ自由の回復である。そして、彼らは自由であるために悲劇的なのだが、そこに自己陶酔的な満足感を感じているのだ。それこそまさに、哲学的自殺ではないのだろうか。 -
[シシュポスはゼウスの秘事をあばいたという、あまり明確ではない理由によって黄泉の国に送られたのであったが、その刑罰は山に大きな岩石を押し上げ、頂上まで届くとその石は転げ落ち、またそれを押し上げなければいけない。永遠にこの無償の努力を繰り返すのが彼の受けた罰であった。
フランスの作家アルベール・カミュは、この逸話をもとにしてて哲学的エッセイ『シシュポスの神話』を書いた。
ーカミュの哲学を簡単に要約するのはむつかしいが、あえてそれをおこなうならば、カミュは従来の神話では無償の労苦と考えられていたシシュポスの行為を肯定的なものとして捉え、「人間のおこないはどれもこれも突きつめて考えればシシュポスの行為同様に無償のものではないか。その無償性に向かって無償と知りつつ努力を続けることが、人間の尊厳さを保つことだ」と解明したわけである。
平たく言えば、この世界は矛盾だらけに作られている。そうである以上、人間のやることなんか、どれが善でどれが悪かわからない。どの道シシュポスが岩を山へ運ぶのと同様に意味のないことだ。ただ、努力そのものの中に人間の価値がある、と、まぁあ、こう言いきっても当たらずとも遠くはあるまい。]
(『ギリシャ神話を知っていますか』阿刀田高 p.108より) -
シューシポスとはギリシア伝承で言うところのシジフォスである。石を山の上に運び上げる重篤で虚無的な刑罰に処せられた悲劇の男である。そんな虚しさ空しさに就いてを徹底的に語り尽くしたアルベール・カミュの代表的な評論。シューシポスの神話を読んだらぜひとも旧約聖書の伝道の書またはコヘレトの言葉を読んでみよう。此の世の空しさが痛いほどに理解できることだろう。
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最近良くある自殺の話題に、参考というかある意味ひとつの見方だな。と思うことが書いてあった。不条理なことについて特に、入念に書かれていて、『生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない』のようなことが印象に残った。また、ドフトエフスキーやカフカについても触れており、参考になった。
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何をグダグダ書いてるのだ?と最初は思ったが、読めば読むほど染みる。人間は皆、死という運命から逃れられない。平和に暮らしていると忘れがちだが、80歳90歳まで生きられる保証もない。では何のために生きるのか?
本書は、異邦人の著者として有名なカミュによる、哲学、小説評論のエッセイである。短いのだが、他の哲学、小説の知識が前提なところもあって全ての文意を理解するのは難しいが、全体として言いたいことは一貫しているので、分かったような気になれる。人生への態度として共感できたので、手元で時々読み返したい。 -
人生の不条理について、自殺、人物像、小説、神話を軸に説いた本。
刊行から半世紀が経っているのでしかたないが、absurde =「不条理」という訳語のせいで深遠な雰囲気が先行してしまい、言葉だけがひとり歩きしていないか。たとえば「ばかばかしい」という訳語に刷新するだけでずいぶん印象が違うはず。
ともあれ『幸福な死』のMersault←mer(海)+soleil(太陽)、『異邦人』のMeursault←meurs(死ぬ)+soleil、海と太陽と死はカミュがくり返し語った3つの主題、という解説がおもしろかった。
【引用】
●哲学上の自殺
ガリアニ神父がデピネ夫人に語ったように、重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ。キルケゴールは病から癒えることをのぞむ。病から癒えること、これがかれの懸命な願い、かれの日記を終始つらぬいて流れている願いである。(70-71頁)
●征服
ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。ぼくは多くのことを口には出さずにおくだろう。(151頁)
観想と行動とのどちらかをえらばねばならぬときが、かならずやってくる。こういう選択、それが人間になるということだ。(153頁)
そう、人間自体が人間の目的である。そしてまた、それが唯一の目的でもある。人間がなにものかであろうと欲するのは、この生においてだ。いまやぼくにはそのことが充分すぎるほどよくわかる。(156頁)
●哲学と小説
大切なのは、不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体のかたちで見いだすことである。こう考えた場合、最高度に不条理な悦びは芸術創造である。ニーチェはいっている、「芸術、ただ芸術だけだ、われわれは芸術をもっているからこそ、真理ゆえに死ぬということがなくてすむのである」。(166-7頁)
創造するとは二度生きることだ。プルーストの、不安におののきながら、手さぐりで進むような探求、花々や綴織りや苦悩の細心な蒐集は、二度生きるということ以外のなにものも意味しない。(167頁)
真の芸術作品は、つねに、人間の尺度に釣合っている。それは本質的に、《よりすくなく》語るものだ。芸術家の経験の全体とそれを反映する作品とのあいだには、『ヴィルヘルム・マイスター』とゲーテの成熟とのあいだには、ある関係が存するのだが、作品が説明的文学の花文字で飾られた仰々しいページのなかに全経験をもりこんでいると自負している場合、それは悪い関係である。作品が経験のなかから切りとられた一片、いわばダイヤモンドの一切子面──ダイヤモンドの内部の輝きがみずからにすこしも制限を加えずにそこへと集約されているような一切子面──にほかならぬ場合、それはよい関係である。前者の場合、そこに見られるのは経験の詰めこみすぎ、そして永遠への意図だ。後者の場合、作品のなかに直接もりこまれていない経験が言外に匂わされており、その豊かさが推測できる、──したがってそれは豊饒な作品だ。(173-4頁)
●キリーロフ
ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題によって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。(185頁)
●フランツ・カフカの作品における希望と不条理
カフカの芸術のすべては、読者に再読を強いるというところにある。カフカの作品における物語の解決のされ方、というかむしろ解決の欠如を読むと、読者はさまざまな説明を思いつくが、そうした説明はどれもはっきりとしたかたちで浮びあがってはこないので、それを根拠のある説明たらしめるためには、どうしても物語を新しい角度から読み直さざるをえなくなるのだ。(221頁)
【目次】
不条理な論証
不条理と自殺
不条理な壁
哲学上の自殺
不条理な自由
不条理な人間
ドン・ファンの生き方
劇
征服
不条理な創造
哲学と小説
キリーロフ
明日をもたぬ創造
シーシュポスの神話
《付録》フランツ・カフカの作品における希望と不条理