花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103185321

作品紹介・あらすじ

戦後最大の国民雑誌『暮しの手帖』はなぜ、創刊されたのか!? 「これからは絶対だまされない。だまされない人たちをふやしていく」―― 敗戦から三年後の一九四八年創刊。新しいライフスタイルの提案、徹底した商品テスト、圧倒的にモダンなデザインで、百万部にとどく国民雑誌となった『暮しの手帖』。花森安治が生涯語らなかった、創刊の真の理由とは? 希代の編集者の決定版評伝。

感想・レビュー・書評

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  • 大切な言葉がいっぱい!

  • 私は 花森さんの写真で LGBTの人だとばかり思っていた・・・・・ 

  • ノンフィクション
    雑誌

  • 著者の津野氏、花森氏の人生を振り返って「人間はかならずまちがう。まちがって終わりというわけではない。まちがったあとをとう生きるか。そこに人間の生地があらわれる。」

  • 文句なく面白い人物評伝である。戦後の雑誌を語る上でもっとも重要な雑誌『暮しの手帖』を立ち上げ、活動してきた花森安治の思想と行動(やや奇矯なそれも含む)が活き活きと描かれ、読むものを引き込む。

    また戦時中、「ぜいたくは敵だ」のコピーライターとしてもよく知られている花森の戦時の翼賛会での活動と戦後の活動の連続と断絶についての考察も興味深い。

    ちなみに著者の津野海太郎氏も『本とコンピュータ』などの編集で知られた名物編集者である。名物編集者による名物編集者の評伝。面白くないはずがない。

  •  一人でも始める。一人でも辞める。
     かつて小田実さんの講演会で聞いた言葉を思い出した。

  • 津野海太郎が書いた花森安治の評伝。津野自身が編集者として多くの仕事をしてきた人だ。その津野が花森に関する資料を読みこんで書いている。

    ▼…こんど酒井寛の『花森安治の仕事』をはじめとする関連資料をまとめて読んで、あらためておどろいたのだが、『暮しの手帖』というのは、じつは偶然のきっかけからはじまった雑誌だったのである。最初に思いついたのも花森ではない。たまたま知りあった大橋鎮子という女性で、まだ二十代だった彼女の提案をうけて、女性むけの生活雑誌をだすという計画が花森の頭にはじめて根をおろしたようなのだ。(p.11)

    花森安治は、1911年、神戸にうまれ、敗戦時は33歳だった。私の祖母と一つ違いだ。祖母も、同じ時代にこういう歳だったのだと思いながら読む。大学まで出た花森と、敗戦時には学校にあがる前の子どもが3人いた祖母とは、同世代といっても、だいぶ違うのだろうけれど。

    "東大の美学を専攻せず、美術学校へ進んだならば、ひとかどの画家として大成した人物であろう"という人物評もあった花森は、しかし、その道を選ばなかった。

    ▼おそらく花森にあったのは、少年時代にアヴァンギャルド芸術運動のコラージュ理論などをつうじて身につけた、ゼロからの創造だけが創造ではない、既成のなにかとなにかを組み合わせて別の阿他らしい意味をつくりだすのも創造のうちなのだ、という確信のごときものだったのだろう。好きなモノやカタチやコトバをあつめ、えらび、それらをつないで、これまでだれも気づかなかった新しい美しさや力を浮かびあがらせる。純粋芸術家として「大成」するよりも、じぶんの能力の使い道はそちら側にあるような気がする。だいいち、そっちのほうがずっと面白そうじゃないか。(pp.82-83)

    戦中のことについて花森が語ったものに、『中央公論』の1952年11月号での池島信平、扇谷正造との鼎談「元一等兵の再軍備観」があるという(p.107、『花森安治集(いくさ・台所・まつりゴト篇)』に再録)。そこには、「読みたい本があるならおれが許可の判を押してやる」と花森に言った、ハンパな人間への思いやりのあった老大尉が兵隊あがりだったことが語られている。

    「いま」という時点から「わかったような」つもりで過去を見ると、見まちがうことがある。「いま」は批判されるようなことも、その時代には新鮮なものとして受けとめられていたりする。

    ▼…いま大政翼賛会ときくと、私たちは反射的に、一国一党のナチス型全体主義国家による強力な統制機関を思い浮かべる。つまり暗いイメージ。しかし、かさねていうと、発足時のイメージはかならずしもそうではなかった。1936年の2.26事件、翌37年の盧溝橋事件と、先の見えない閉塞感のうちに閉じ込められていた日本人の多くは、大政翼賛会による「新体制」実現を旗印にかかげた第二次近衛内閣の登場を、どちらかというと熱狂的に迎えたらしい。
     花森安治も例外ではなかった。「清新」とか「颯爽」という煽りことばがジャーナリズムにとびかうなかで、かれのうちにもいつしか、あそこに行けば時代の最先端をその中心にいて体験できそうだという期待が生じていたのだ。その根のところには「とにかく、日本という国を守らんならん」という愛国心があった。いまこの国を守るには軍部や政党や官庁をはじめとする既存のしくみをまるごと変えてしまうしかない。それがやれるのは近衛公爵ひきいる新体制(日本型ニューディール)運動しかないだろう。(pp.144-145)

    大政翼賛会の宣伝部で、花森は、「欲しがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ!」という、「いま」の時代にも伝えられている標語にも関わったらしい。

    そんな過去について、1971年、『週刊朝日』誌上で、花森はこう語る。「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている。」(p.178、引用)

    そして、衣裳研究所を発足し、そこでの暮らしの研究の成果を、雑誌のかたちで発表してゆこうと、若い大橋の希望に、いちどは中途半端に終わった自分の計画を合流させようと、花森はそう考えたのではないかと、津野は書く。

    ▼─以前、私は「日本人の生活を変える」というじぶんの夢を、大政翼賛会という官製の国民運動のなかで実現しようとこころみた。しかし、それはあきらかなまちがいだった。これからは政党や官庁や企業や大学など、他人がつくった組織には一切かかわらない。支援ももとめない。すべてをじぶんと少数の仲間だけでやる。
     したがって、こんどの仲間は政治家でも役人でも企業人でも学者でもない。日本人の暮らしを実質的に支えてきた女性たちである。もちろん男性がいてもいいが、とにかく中心は女性。(p.180)

    『暮しの手帖』発刊の辞に関して。
    ▼1948年(昭和23年)の日本で「あなたの暮し方を変えてしまう」と花森がしるすとき、その「暮し」は、まずは戦争直後の、住む場所どころか食うものも着るものもない、貧困のどん底にまで落ちた日本の社会と、追いつめられた人びとの生活を意味していた。
     あとにつづく「変えてしまう」も同様である。日本人が廃墟の街から新しい一歩を踏みだすには、戦前戦中の日常を支配していた神がかり的な精神主義をしりぞけ、めいめいの生活に明快な合理性を大胆にとりこんでゆく必要がある。(pp.186-187)

    花森へのインタビュー「僕らにとって8月15日とは何であったか」
    ▼そのとき[戦争が終わって最初の2、3年=幻の時代]、おぼろげながら思いついたことは、戦争を起こそうというものが出てきたときに、それはいやだ、反対するというには反対する側に守るに足るものがなくちゃいかんのじゃないか。つまりぼくを含めてですよ。(略)一般のわれわれは、それがなかったから簡単にゴボウ抜きだ。抜く必要もない。浮いておるんだから、こっちへこっちへ寄せてくれば、すくいとられてしまう。風呂のアカみたいなものだった。
     それでぼくは考えた。天皇紙御一人とか、神国だとか、大和民族だとか、そういうことにすがって生きる以外になにかないか。ぼくら一人一人の暮らし、これはどうか。暮らしというものをもっとみんなが大事にしたら、その暮らしを破壊するものに対しては戦うんじゃないか。つまり反対するんじゃないかと。(p.212、引用)

    1968年8月刊行の『暮しの手帖』96号は、大特集「戦争中の暮しの記録」を組んだ(のち、『戦争中の暮しの記録―保存版』の単行本となる)。

    この特集の編集が終盤にさしかかったころ、ある通信社のインタビュアーが、これほどの戦争体験をなぜこれまで若い人たちに伝えることができなかったのかと問うた。それに対する花森の答え。

    ▼それは自分たちの体験が罪の意識に変わってしまったからです。私にしても戦争中は三十代だったが、自分のしていることは最も崇高なことだと信じていたし、それだからあの時代に生き抜いてこられたわけです。ところが戦争が終わったとたんに、すべての価値はひっくり返ってしまった。戦争に行ったのが悪であり、隣組の班長をしたことが、いやな目で見られた。(略)しかし多くの人たちは、ハラの底ではお国のために尽くしたのがなぜいけないのかと思っている。しかし世の中は民主主義の時代であり、そんなことはいえない。(略)また戦争に負けたというショックも大きいし、自分の生き方がどこまでが正しく、どこが悪いのか価値判断もつかない。そこで男はだまってしまったのです。(略)ところが女性は違う。自分の体験は間違っていなかったという強い自信がありますね。(「二十二年目の"戦争体験"」)  (p.275、引用)

    「あとがき」で、津野はこう記す。
    ▼まちがったあとも人は生きる。生きるしかない、そこでなにをやるか。日本人の暮らしを内や外からこわしてしまう力、具体的にいえば戦争と公害には決して加担しない。できるかぎり抵抗する。それがいちどまちがった花森のあらためてえらんだ道すじだった。(p.301)

    「まちがったあとも人は生きる」というのは、戦時のことに限らない、どんな人の生にもいつもあることだと思う。まちがったあとにどう生きるか、何をやるか。その点で花森のえらんだ「暮し」にフォーカスした生き方は、偶然もあるとはいえ、反省とか抵抗のあり方のひとつなんやなと思う。

    (2/2了)

  • 大政翼賛会から暮らしの手帖へ至る心持ちに、どれだけ深い悔恨と決意があったのかと思う。ワンマンな編集姿勢は、元々の性質だけでなく、戦争へ関わった自分への悔い、脆い世の中への不安があったのだろう。得難い雑誌であったのだなぁ。

  • 神戸と松江の反映
    大政翼賛会宣伝部での仕事=自分は戦争犯罪人で執行猶予中
    p224 縦組みの活版印刷から乱雑な重苦しさが消え、ガチガチの升目空間に明るく軽快な風が流れ始めた。いまになってやっとわかる。かつて、少年の私が受けた「明るい雑誌」という印象は、うたがいようもなく、この花森と『暮らしの手帖』の「アイデンティティ」から生まれたものだったのである。

    1971年 一戔五厘の旗発刊
        新潟水俣病第一次訴訟原告勝利

  • あらためて
    こんな人がいてくれたのだ
    を 感じた

    どんな時代にも
    どんなところにも
    存在するべくして
    存在する人がいる

    その人がいたからこそ
    生まれ出たもの
    その時代だからこそ
    生まれ出たもの
    その人がいなくなって
    無くなっていくもの

    私たちの すぐそばにも
    そんなものが あるはずだ
    それが なにであるのか
    じっくり考えさせてくれる
    一冊です

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著者プロフィール

1938年、福岡県生まれ。評論家・元編集者。早稲田大学文学部を卒業後、演劇と出版の両分野で活動。劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任する。植草甚一やリチャード・ブローティガンらの著作の刊行、雑誌『ワンダーランド』やミニコミ『水牛』『水牛通信』への参加、本とコンピュータ文化の関係性の模索など、編集者として多くの功績を残す。2003年『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』で新田次郎文学賞、09年『ジェローム・ロビンスが死んだ』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『最後の読書』で読売文学賞を受賞。他の著書に、『したくないことはしない 植草甚一の青春』『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』など。

「2022年 『編集の提案』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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