あなたを選んでくれるもの (Shinchosha CREST BOOKS)
- 新潮社 (2015年8月27日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105901196
作品紹介・あらすじ
アメリカの片隅で同じ時代を生きる、ひとりひとりの、忘れがたい輝き。映画の脚本執筆に行き詰まった著者は、フリーペーパーに売買広告を出す人々を訪ね、話を聞いてみた。革ジャン。オタマジャクシ。手製のアート作品。見知らぬ人の家族写真。それぞれの「もの」が、ひとりひとりの生活が、訴えかけてきたこととは。カラー写真満載、『いちばんここに似合う人』の著者による胸を打つインタビュー集。
感想・レビュー・書評
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映画監督、パフォーマー、小説家といろんな顔を持つミランダ・ジュライのフォト・ドキュメンタリー。
フリーペーパーの売買広告で出逢った人々にいろいろインタビューしていく。
ミランダの正直さ、観察眼と洞察力、そして独特のユーモアのセンスに感銘を受けつつ、人々のかけがえのない、他には過去にも現在にも未来にも存在しないたったひとつの人生に愛しさを覚えた。
ラストの章が特に感動的。
最後のある人物の言葉のあたたかさと切なさに胸がきゅうっとなった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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にゃんこまるさん、りまの 少し、ヤバそう。今日、男女2人に長く優しく 釘をさされました。私 ヒモ付きはイヤです。鳥頭ながら、何か 考えてい...にゃんこまるさん、りまの 少し、ヤバそう。今日、男女2人に長く優しく 釘をさされました。私 ヒモ付きはイヤです。鳥頭ながら、何か 考えています…2020/08/07
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2020/08/08
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映画監督であり、女優であり、作家でもあるミランダ・ジュライの不思議なインタビュー集。
ミランダの家には毎週火曜日にフリーペーパーの『ペニーセイバー』が届けられる。脚本執筆のスランプに陥っていたミランダは、その小冊子を熟読するうちに、ふとここに売買広告を出すのは一体どんな人たちなのかと興味を覚える。そして、とうとう手当たり次第に彼らに電話して、インタビューのアポイントを取り始める。
本書にはその12人との邂逅が、たくさんの写真とともに掲載されている。売り物も、革ジャケットからオタマジャクシ、赤の他人のアルバムと買い手がつきそうにないものばかり。当然、売り手自身も個性的で、小銭をセイブするために広告を出している人ばかりではない。
本書はまた、ミランダの映画『ザ・フューチャー』ができるまでを描いている。そこには、クリスマスカードの表紙部分を『ペニーセイバー』で売りに出していた老人ジョーとの、あまりに忘れ難い出会いがあった。
実のところ、読書中はミランダの上から目線がひたすら鼻についた。結婚や子どもをつくることが、人生を物語るに足るものにするという言葉にも反発を覚えた。インタビュー相手へのあまりに辛辣なコメントには、ここに載っている人たちは自分がどう描かれているのか知っているのだろうかと心配になるほどだった。
ただ、よく考えてみると、ミランダは己の感覚を飾らずに表現しているだけなのだ(もしかすると、飾らない風に飾っているのかも知れないが…)。おそらく、あのインタビューの場にいたなら、私も同じような嫌悪感や恐怖を感じるだろう。それを書く勇気がないだけで。
結局、読み終えた後も消化し切れずに、また取り出しては何度も読み返している。なぜこのタイトルにしたのかも気になる。最近ではあまりしたことのない不思議な読書体験が続いている。 -
ミランダ・ジュライは映画の脚本に煮詰まっている時、定期的に届くフリーペーパー「ペニーセイバー」に片っ端から目を通して現実から逃避していた。ペニーセイバーは「売ります!」のコーナーがあり、ふと皮のジャケット10ドルを売りに出している、この人がどんな風に日々を過ごしているのか、何を夢見て、何を恐れるのか知りたいと思った。
そこからインタビューが始まった。
そんな風にしていろいろな人に話を聞く。家の庭でウシガエルのオタマジャクシを育ててる高校生男子、他人の写真アルバムを買うギリシャ移民の主婦、足首にGPSをつけられた、子供向けの本を売る男。フリーペーパーに記事を出すということは、今時ネットやSNSに繋がることをしない人、できない人。そこ、に行かないと会えない人たちだ。
いろいろな人と会う中で、ミランダの人生も流れている。この何人かへのインタビューは時系列になっている。それにはきちんと出会う順番があるからだ。うまくいかなかった脚本、夫との生活、子供はいつ作るのか。次の映画はできるのか。
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「5年経ったら、わたしたち40よ」
「40なんてほとんど50だ。50を過ぎたら、あとはもう小銭だ」
「小銭?」
「本当に欲しいものを手に入れるには足りないってことだよ」
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ひとりひとりが自分の人生の主役で、その人生にはいろいろなことがあって。当たり前だけど、わき役として生まれてきた人はいない。
40を過ぎたら人生は小銭だと思っていた彼女が、こつこつと未来を作り上げる。ぜんぜん人生に小銭の時間なんて無いんじゃないか。
この時に作り上げた映画「ザ・フューチャー」が観たい!できれば劇場で観たかった。
人に会って話を聞きたくなる本です。あなたの人生で一番幸せだったのはいつですか? -
『世界の端っこをめくって中をのぞきこみ、その下にある何かを現行犯でつかまえようとしつているーーその、"何か"は神ではなく(「神」という言葉は問いであると同時に答えでもあって、だから想像をふくらませる余地がない)、それに似た何かべつのものだ』ー『 アンドルー 』
岸本佐知子フォロワーでいることとは、一風変わった作家と付き合うということ。ニコルソン・ベイカーしかり、ジュディ・バドニッツしかり。ポール・オースターは柴田元幸翻訳であるべきだと思うけれど、少し薄暗いところのある作家を柴田さんが翻訳するとスマートに柔らかくなり過ぎる。例えばミランダ・ジュライのような。
ミランダ・ジュライは翻訳が待ち切れずに苦労しながら原文で読み始めてしまいたくなる作家。もちろん読解力に問題はあり、ニュアンスを掴み損ねてしまうことは承知の上で。「It choose you」も一応読み通したし、それなりに楽しめた筈と信じたい。けれどやはり掴み損ねているものは大きくて、例えばタイトルのニュアンスだって、原文では少し宗教的なニュアンスを感じていたのだけれど「あなたを選んでくるるもの」と訳出されるとミランダ・ジュライ的存在論の響きがきちんと伝わる。岸本さんの訳はホントにいいね。
『なぜならドミンゴは今まで会った誰よりも貧乏だったから。もっと不幸だったりもっと悲惨だったりする人は他にもいたけれど、いっしょにいて、彼ほどいやらしい優越感をかき立てる人はいなかった。わたしたちはわたしのプリウスに乗って帰った』ー『マチルダとドミンゴ』
ミランダ・ジュライのどこがそんなにいいのか、他人に伝わるように説明するのは難しい。何故ならば、読みながら自分自身が混乱してしまうから。そしてその混乱した感じが楽しいから。でもそれは単なる混沌ではなくて、自分が知らない何かを納得しようとするためのじたばたとした足掻き。自分自身の中にはそれを説明出来る言葉を持たないのに、何とか自分の知っている概念を組み合わせてそいつを一つ処に納めようとする努力。足掻いている内にはっきりと答えが出る訳ではないけれど、何となく今までとは違う理解が急に湧いてくる。そのことにとても共感できるから楽しいのだと思う。もちろん本書はドキュメンタリーなので、映画「君とボクの虹色の世界」のように直接的にミランダ・ジュライの精神性が見え易く、そういうじたばたした有り様は直接的に言葉に置き換えられているけれど、彼女の短篇集「no one belongs here more than you」はフィクションだけれど、やはり同じような感慨は湧いてくる。例えばそれは保坂和志の面白さや、柴崎友香を読む楽しさと通じるところがあると自分は思う。但し、繰り返しになるけれど他の人が同じように面白がるのかどうか、自分には分からない。
その頭がぐるぐるする感じは原文で読んでも同じように感じるのだけれども、その後に付いてくる自分自身の悩みに落ち込むスパイラルは、岸本佐知子の翻訳を読むと一層深くなる。日本語だと読む行為と考える行為がある程度同時平行的に進むので、目線だけか先へ先へと進んでしまって頭が置き去りにされ何度も戻って読み直すということになる。それは自分にとって最も楽しい読書の在り方なのだ。早く「My first bad man」も訳して下さい! -
35歳のミランダ・ジュライに「失敗したり、訳もわからず何かをしたりする時間は、今のわたしにはもうないのだ」とか、彼女の脚本の中の人物に「50を過ぎたら、あとはもう小銭だ」「本当に欲しいものを手に入れるには足りないってことだよ」などと言われると、まさにその小銭の年代の私はドキッとする。グサリと刺されて、何を言う〜というイヤな汁が出る。
しかしその彼女の映画のキーマン…救い主と言ってもいいかもね…になったのが81歳のおじいさん、というところが、なんというか、先の読めない人生という脚本にぴったりの、面白い皮肉だ。 -
『ザ・フューチャー』と同時期に読みたかった!
2013年の公開時に観たきりなので、ディティールを忘れてしまっている。ところどころ印象に残った場面を自分の都合のいいように勝手に解釈して、「好きな映画」としてカテゴライズし、しまい込んでいた。「生みの苦しみ」のようなものを強く感じたことを覚えている。作品発表の翌年、2012年にミランダが出産していたことを知って、意味もなく(これまた勝手に)納得したことも覚えている。
ミランダ・ジュライの長編第2作目となる映画『ザ・フューチャー』。脚本があともう一歩でできあがるという段階になって「ぐずぐず」に陥ってしまったミランダは、ふと誰に課されたわけでもなく、好奇心に押されて自らに「ミッション」を与える。本書はそれを追ったフォト・ドキュメンタリーなのだ。その「ミッション」とは、『ペニーセイバー』というポピュラーなフリーペーパーに「売ります」広告を出している人たちに片っ端から電話をかけ、インタヴューを依頼するというものだった。怪しさ全開!な依頼だけど、OKしてくれる人がいるんですね。それで、彼らに会いに行くんだけども、この人たちがまたとても濃ゆい。
「わたしがこの映画に手こずっているあいだに、好景気は塵と消えてしまった。一年前には大乗り気でわたしと会ってくれていたスポンサーが、どこも急に、ナタリー・ポートマンが主役でなければ金は出せないと言いだしていた。それがわたしの中のライオット・ガール魂に火をつけた。わたしはビバリーヒルズでのお行儀のいい話し合いを終えて会議室を出ながら考えた ーー素っ裸で、お腹に黒マジックで完璧なメッセージを書いて、もう一度ここに戻ってきてやろうじゃないの。でも彼らの理路整然とした、隙のない冷たさに対抗できる完璧なメッセージとはいったい何だろう。わからなかった。だからわたしは服を脱ぐのを思いとどまり、彼らとはちがってわたしの申し出を無条件でOKしてくれた人の家に車を走らせた。インドの衣装を一つ五ドルで売り出している女の人の家に。」(p28)
普通に暮らしていたら、きっと交わることのない人たち。パソコンを持たずインターネットをしない。彼らの共通項は、@のついたもう一つの名前を持っていない、ということ。「自分の名前をググって、わたしがいかにウザいかについて書かれたブログの中に暗号化されて埋め込まれているかもしれない答えを探しつづけ」ている、ネットの世界にどっぷり浸かった著者とは、まったく異なる世界に暮らす人たちなのだ。自意識過剰なネット住民であるミランダ(と、自分で明かしているところがまた愛らしいというか、面白いんだけど)とは対称的に、彼らはみなどこか無防備で、あけすけだ。
ネットというフィクションの世界を出て、「巨大で不可解な本物の現実世界」にガッツリ向き合っていくミランダ。映画とは一見何の関連もない、それどころかむしろ「映画からの逃避」でしかなかったインタヴューが、結果的に様々なひらめきをもたらし、エピソードを生む。ミランダは脚本を完成させ、スポンサーを見つけ、撮影に入る。
私はといえば、インタヴューを読みながら、彼らの物語の中に引きずり込まれそうになる。写真の使い方がまた効果的で、彼らがより「リアル」に迫ってくるのだ。彼らはみんな、なんだかせつなくて、哀しくて、小さな存在で、そして時に目を背けたくなるほどの「生の過剰さ」を露呈させる。私も同じだよ。彼らと一緒に濁流にのみ込まれて、「自」も「他」もない混沌の中へと押し流されそうになる。「行ってはだめ」という本能の声に引き戻され、かろうじて踏みとどまるも、疲労感と安心感、そしてなんだか自己嫌悪。だって「私」と「彼ら」は「同じ」ではないという分別をつけることで、小さな自分を守っているのだもの。自分以外愛せない、私の強大なエゴ。
「この世界には無数の物語が同時に存在していて、ジョーとキャロリンもその一つに過ぎないのだと思えば胸が苦しかった。きっと、だから人は結婚するのだろう ーー物語るに足るフィクションを作るために。登場人物を誰もかれも入れることができないのは、なにも映画にかぎったことではない。他ならぬわたしたちがそうなのだ。人はみな自分の人生をふるいにかけて、愛情と優しさを注ぐ先を定める。そしてそれは美しい、素敵なことなのだ。でも独りだろうと二人だろうと、わたしたちが残酷なまでに多種多様な、回りつづける万華鏡に嵌めこまれたピースであることに変わりはなく、それは最後の最後の瞬間までずっと続いていく。きっとわたしは一時間のうちに何度でもそのことを忘れ、思い出し、また忘れ、また思い出すのだろう。思い出すたびにそれは一つの小さな奇跡で、忘れることもまた同じくらい重要だ ーーだってわたしはわたしの物語を信じていかなければならないのだから。たぶんわたしは人生の最後の独りの時間を、自分の小さな穴ぐらで、スープを飲んで黒い服を着て過ごしたりはしないだろう。夫なしで、夫といっしょに作りあげたものに囲まれて生きていくだろう。悲しくないわけではないけれど、ただ不幸なだけでもなく。」(p230)
さいごにジョーとキャロリンに出会えてよかった。いや、みんな出会えてよかったんだけど、ジョーとキャロリンとの出会いは、とくに奇跡的なものがある。ミランダは「現実に」彼らに出会い、私はミランダをとおして彼らに出会った。哀しいのだけれど、救われた気持ち。
映画の中のジョーのことは、忘れてしまっていた。本書を読んで、ぼんやりと、ああ、そうだった、と思い出して、映画の場面を自分の記憶の中でまた都合のいいように思い描いていた。
やっぱりもう一度『ザ・フューチャー』を観なくては。 -
人に歴史あり、という言葉は良い意味で使われるけど、ここに出てくる人たちの歴史は暗くて重くて過剰で、それなのに悲惨なほど地味で、読んでいるうちだんだんと胸が苦しくなってくる。何よりも、自分の人生がまた誰かから見ればそうなのだという事実が迫ってくる。
それでも全員が自分の過ごした時間を信じている。それが惨めで切なくて、この世界の多くの人の真実。
突飛なインタビューをやり遂げた著者の行動力と観察力がすごい。パソコンの前から立ち上がり、身をもって体験することでしか得られないもの。「ググればわかる」という危うい思い込みを粉砕する「生身」の底力。 -
人に歴史あり。人生は語ることに満ちている。
"わたしが記者でも何者でもないのを知っていながら、まるでこのインタビューがとても大きな意味をもつかのように、自分について語りはじめるのだ。でも、とわたしは気づいた。誰でも自分の物語は、その人にとってはとても大きな意味をもっているのだ。"(p.36)
あらすじは、私物売買の案内広告などを掲載する無料情報誌『ペニーセイバー』を見たミランダ・ジュライが、広告を載せた売り手に電話をかけてインタビューを申しこみ、相手の許可が出れば自宅を訪問して話を聞いていく、というもの。
著者がインタビューするのは、概して社会の主流ではない人たちだ。ネットに均されずに環境や習慣に強化された、強烈な個性の持ち主でもある(とはいえ自覚がないだけで、われわれ一人ひとりにもきっとそういう側面があるのだろう)。そんな生(なま)の生(せい)の生々しさに、引きつつも惹きつけられ、惹きつけられつつも引きながら、話は進んでいく。
作中では「エア家族」なるものが登場する。
"ティーンエイジャーのダイナは、雑誌の黒人女性の写真をスクラップブックに貼りつけていた。それはみんな彼女の空想上のお姉さんなのだった。わたしが会う人会う人、なぜだかみんな紙の上のエア家族を持っているようだった。"(p.174)
そこでふと、ある言葉を思いだしたりもした。
"人には誰か相手が必要だ。自分のまわりに誰もいないのなら、誰かをでっちあげて、あたかも実在する人物のようにしてしまえばいい。それはまやかしでもなければ、ごまかしでもない。むしろその反対のほうが、まやかしでごまかしだ。彼のような男が身近にいることもなく、人生を生きていくことのほうが。"(チャールズ・ブコウスキー『くそったれ! 少年時代』p.191、訳:中川五郎)
読みすすめながら貧しさや孤独に同情したりするけれど、そうは言っても遠方に住む赤の他人であり、じっさいに助けようとするわけでもなければ助けられるわけでもない。この同情も結局は一時の感傷にすぎず、そう考えると何やら悪趣味な気もしてくる。
著者は言う。
"何かの埋め合わせのように、わたしはふだんより多めの金額を彼に払ってしまった。なぜならドミンゴは今まで会った誰よりも貧乏だったから。もっと不幸だったりもっと悲惨だったりする人は他にもいたけれど、いっしょにいて、彼ほどいやらしい優越感をかき立てる人はいなかった。わたしたちはわたしのプリウスに乗って帰った。もし自分と似たような人たちとだけ交流すれば、このいやらしさも消えて、また元どおりの気分になれるのだろう。でもそれも何かちがう気がした。結局わたしは、いやらしくたって仕方がないしそれでいいんだ、と思うことに決めた。だってわたしは本当にちょっといやらしいんだから。ただしそう感じるだけではぜんぜん足りないという気もした。他に気づくべきことは山のようにある。"(p.161)
相手との断絶や非対称な関係、自分のいやらしさを認めつつ、それでも「自分と似たような人たちとだけ交流す」ることに安住するのをよしとはしない。
インタビューをするたびに、こうしたさまざまなことが次第しだいに浮き彫りになっていく。表出するのはむしろ著者自身のことだ。他人と向き合うことで自分と向き合うという構図である以上、必然的にそうなるのだろう。それを読んで考えをめぐらすうちに、読者も自分自身と向き合うことになる。
私はといえば、「わかる」と思いながら読んでいたものの、一方で「簡単にわかった気になってはいけない」とも感じていた。人類はわかりやすいとしても、個人はあまりにはかりがたいからだ。
そもそもコミュニケーションは、どこまでいっても推測でしかない。それぞれに想像力を駆使して、「わかった」「わからない」「わかってくれた」「わかってくれない」などと勝手に合点しつつ、喜んだり嘆いたりしているにすぎないのだ。その最たる例がこの感想だろう。
うんざりするほど月並な表現ながら、個人はもともと理解不能なものだという前提で、それでもできるだけ理解しようとするのが大切なのだと思う。わかった気にならないことと、わかろうとすることが。人間に与えられた時間や能力は有限であり、知りうることなどたかが知れていると知ったうえで、それでも知ろうとするように。
それは人生に打ちのめされて諦観へとたどりつき、そこからなんとか立て直して再出発することにも似ている。
諦念を起点とする、一種ネガティブなポジティブさ。そうしたポジティブさは、私が長患いのなかで自然と身につけたものであり、ジョーの話を読んでいるときに改めて意識したことでもある。
世界を救うことなどできはしないとしても、身近な人と自分自身を少しだけ救うことならできる、ということをジョーは体現していた。そうすることで世界は、ごくわずかであれましなものになり、生きるに値するものにもなるのだろう。