私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ 387)

著者 :
  • 中央公論新社
3.75
  • (26)
  • (33)
  • (27)
  • (10)
  • (1)
本棚登録 : 359
感想 : 49
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (299ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121503879

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ボクは原発問題を核兵器の問題と絡めて論じることには懐疑的である。例えば「唯一の被爆国」であることが、日本の原子力政策に影響を与えるべきことなのか?しかし、もし多くの人がそこに通底するものを見ているならば、その考え方を知るのもムダではないだろう。

    増補版として、2011年論が新たに加わった。ハンタイ派v.s.スイシン派の不毛な対立が、かえってリスクを増大させていることには全くもって同感。ただ、本書の内容から離れるが、、、この手の収拾不能な二項対立はよく見られる現象。そこで仮説
    ⇒ヒトの認知的基盤、または社会構造の中には、論点を単純化して二項対立する傾向がビルトインされている。従来、だらだら考えていないで不確実な状況下で行動を起こせるという観点で、こうした議論の単純化が適応的だった。マスメディアの発達、民主制の発展、科学技術の進歩に伴う(?)不確実性の増大が、従来は適応的だった反応を危ういものにしている。

    原子力のような先端技術は不確実性が高く、事故時のインパクトの大きさもあいまって、情報不足を無視して推論するほかない。イデオロギーがぶつかり合うことになる。

    電源三法についての指摘は重要。原発がある限り過疎でなければならないし、労働力を原発に吸い取られて他の産業は育たない。原発による地域振興は、痛々しい幻だ。

    高木仁三郎。チェルノブイリを受けて、事故確率の計算に潜む落とし穴を分析している。重畳型、共倒れ型、将棋倒し型。福島第1は共倒れ型か。しかし高木は「運動」に傾斜して、科学に立脚した安全策の検討から離れてしまう。

    著者は、JCO臨界事故の背後にも原子力への逆風を見て取る(少しこじつけ気味ではあるが)。

    核兵器開発につながるから原発に反対するというのは多少無理がある議論と思う。製鉄もやめれば銃も刃物も含めて根絶できるが。。。ただし核拡散との絡みは無視できないので、一筋縄ではいかない。

  • アメリカは、1955年に濃縮ウランを提供し、将来の発電用原子炉についても援助することを打診してきた。当時、濃縮工場の建設するには莫大な予算が必要で、米ソ以外には難しかった。濃縮ウランを提供することによって、軽水炉技術の提供も可能になり、発電という国家の生命線を掌握できる。濃縮ウランは貸与の形で提供されるため、兵器への転用も抑え込めるというシナリオだった。

  • 日本における原発の歴史についての文章.推進派と反対派の中間的なスタンスとなっている.文体はとても読みづらく,章立ても不可解.書籍でスイシン派,ハンタイ派とカタカナで書くのはやめて欲しい.

  • 武田さんの著作はジャーナリズムを勉強するものとしては、個人的には、いつもわくわくさせられながら読んでいる。人文系の理論的なバックボーンを背景にしつつ、ジャーナリズム的実践を行うその記述スタイルは、僕自身が最も理想的であると思う、ジャーナリズム・スタイルだから。

    今回のこの本も、もちろんそのような形式にはなっていて記述スタイルなどで大変勉強にはなったのだが、あとがきで武田さん自身が「この本は失敗だった」と宣言しているのが「えっ」と思ってしまった・・・。内容的には「あたりまえ」の事実ばかりということだろうか。
    それでも、僕のような原発や原子力政策に対して全く何も知らない人間には学ぶものが多かった。本書は、戦後から現在までをディケイドで分別し、それぞれの時代の「核」論を記述していくというスタイルになっている。「1954年 水爆映画としてのゴジラ」と「1965年 鉄腕アトムとオッペンハイマー」の章が大変面白かった。

  • 戦後日本の核利用を追った本。
    裏にあった政治力学なんかも伺えて面白かったが、知らん人ばかり登場して読みづらい。。。

    個人的には1974年論の電源三法交付金の話と2002年論のノイマンの話がスイスイ読めて面白かった。

  • 勉強になった。ただ、タイトルの『「核」論』は違うと思う。

  • ・周辺情報。どのような時勢の流れの中で原子力行政が進められてきたのか。

    ・軍備と原子力、電源三法による過疎の規模の固定

  • 一つ一つの事実を丁寧に積み上げ、しっかりと解釈していると感じさせる「核」論の書。歴史的な流れを理解するには良い著作なのかもしれないが、私のニーズにはマッチしなかった。文章が読みづらい?

  • 核という難しい問題を、木を見て森を見るように書ければいいのでしょうが、どうやら、木にあたる部分は、量子論など難しすぎてモヤがかかって見えにくいようで。じゃぁ、森を見ようとすると、あまりに果てしなく入り組んでいるようで、それらを単純化してしまうのも、本質からかけ離れてしまうから、著者はそうはしていません。では、この本はどうやって核の問題を論じているのでしょう。1954年論というところからはじまっていきます。つまりは時系列で、そのときそのときの社会の方向性、空気を捉えながら、原爆以後に始まる核というものに対する日本人の意識の変遷をたどったところもあり、権力を持つ個人の志向や打算などが政治的に働いていった様を見つめたところもある。過去の重要な点々をおさえることで、疑問を持つことなく眺めてきた現実の色が変わって見えてきます。ちょっとしたパラダイムシフトを、過去を忘れた多くの人々や、若い人たちは受けるでしょう。それだけ、みんなの現実認識ってかなり操作されたものだということのようです。

  • 基本的に読みづらい。

著者プロフィール

昭和21 年、長野市に生まれ。
長野高校、早稲田大学を卒業後、信越放送(SBC)に入社。報道部記者を経て、ラジオを中心にディレクターやプロデューサーを務める。平成10 年に「つれづれ遊学舎」を設立して独立、現在はラジオパーソナリティー、フリーキャスターとして活躍。
主な出演番組は、「武田徹のつれづれ散歩道」「武田徹の『言葉はちから』」(いずれもSBC ラジオ)、「武田徹のラジオ熟年倶楽部」(FM ぜんこうじ)など。

「2022年 『武田徹つれづれ一徹人生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

武田徹の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×