新装版 世に棲む日日 (2) (文春文庫) (文春文庫 し 1-106)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (311ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167663070

感想・レビュー・書評

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  • ペリー来航、安政の大獄、そして吉田松陰の処刑。途中で主人公は高杉晋作にスイッチする第2巻。

    覚悟の死を遂げた吉田松陰の跡をつぐのが高杉晋作。2人はともに家族からも長州藩からも一目置かれた天才肌。自分の中で理想を生み出し、他人に説明することなく、その理想に向けてまっしぐら。現実としてみれば、ずいぶんとめんどくさい人たちで、「狂人」なのかもしれない。しかし、幕末の混乱期では、非常識も一つの武器だ。

    それにしても、高杉晋作の戦争愛はかなり過激。長州藩どころか日本を戦争に巻き込み、敗北の中から新しい世の中を作ろうとする。これって、テロ原理主義だろう。その結果、晋作は武士階級にこだわらずに兵士を募集し、傭兵軍団の奇兵隊を作り出す。

    発想が現代のイスラム国とよく似ている気がする。が、司馬遼太郎が描く高杉晋作にはテロリスト的な性格はなく、男気のある理想家だ。これぞ司馬史観。

  • 狂気。これが一つのキーワード。思想を純化するには狂信するほどで無くてはならない。松下村塾における久坂、高杉が維新の大勲に至らなかったのも歴史の必然に感ず。おもしろき事も無き世をおもしろく。

  • 1,2巻は、松陰について書かれています。3,4巻は、高杉晋作と革命...。息もつかず読んでしまう本です。

  • 大河ドラマ「花燃ゆ」があったので、僕にとって人生何度目かの再読。吉田松陰と高杉晋作の波乱万丈な一生の物語を通して、人にはそれぞれ時代の中で為すべき役割があって、寿命の長短は人それぞれあるけど、その中で精一杯生きないといけないんだ、と思わせてくれる。かなりフィクションなのだろうけど、幕末の志士達が活躍してくれたから今の時代があるのだということを忘れてはいけないと思う。

  • 日本は、この列島の地理的環境という、ただひとつの原因のために、ヨーロッパにはない、きわめて特異な政治的緊張が起こる。外交問題がそのまま内政問題に変化し、それがために国内に火の出るような争乱が起こり、廟堂(政府)と在野とが対立する。廟堂とは体制のことであり、外交を現実主義的に処理しようとする。野はつねに外交について現実的ではない。現実的であることを蔑視し、きわめて抽象的な思念で危機世界を作り上げ、狂気の運動をくりひろげる。幕末は維新のぎりぎりまで型に終始した。この他国にとってふしぎな型を理解するには、日本の地理的環境にかぎをもとめる以外になぞの解きようがない。

     幕威のこの急速なおとろえは、嘉永6年ペリーがきたときからのことで、この節目の明瞭さも、この国の特殊な地理学的理由に根ざしている。ペリーで代表される外圧さえなければ、幕府の権力生理の寿命はあと半世紀はたっぷり保ったであろう。
     が、この列島の上にある権力は、外圧という水平線の向こうからくる、怪物によって左右される。この国のひとびとの地理的特殊心理は、水平線のかなたの外国を、その実体を実体として見ることができず、真夏の入道雲のように奇怪な、いわば恐怖を通しての像か、それとも逆に甘美な、いわば幸福と理想を造形化したような幻像としてしかうつらない。戦慄と陶酔はつねに水平線のかなたにある。

    松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ。奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例からみてもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。ついでながら薩摩藩における右の第一期のひとは島津斉彬である。第二期人が西郷隆盛であったが、かれは死なずに維新を迎えた。それだけに「理想」が多分にありすぎ、第三期の処理家たちにまじわって政権をつくるしごとができず、十年後に反乱し、幕末に死ぬべき死をやっと遂げた。「十年待て」と、松陰が高杉にすすめたのは、高杉を第二期の人たらしめようとしているようであり、その点でかれの高杉へのこの垂訓はきわめて予言性が高い。

     人間は本来猛獣であるのかどうかはわからないが、多少の猛獣性はあるであろう。しかしその社会が発生してからというものは、社会を組むことによって食物を得、食物を得るために社会をもち、それを維持し、さらにまたその秩序に適合するように人間たがいがたがいを馴致し合ってきた。そのなかでもっともよく馴致された人間を好人物としてきたことは、どの人種のどの社会でもかわらない。高杉小忠太は人間の猛獣性を「剛気」とよぶ。その「剛気がもし平均以上に過量になったばあいはそれをおさえねばならぬ。おさえるのが人の道である。おさえるために学問(倫理)というものがある」と、いう。そういう人物が尊い、と小忠太は言いつづける。あるいはそうであろう。平均的人間がときに猛獣になるのは社会が餓えたときだが、社会が餓えないかぎりその社会の秩序に従順で、従順であることがその社会の維持と繁栄に役立ち、小忠太のいう「中庸的人物こそ偉大である」ということになるであろう。しかし、「日本はいま、外圧のためにこわれようとしている」と師の松陰が説いた社会の滅亡を予言する危機思想からみれば、小忠太の思想は「俗論」になる。晋作も父は俗論家だとおもっている。

     思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒(信徒もまた、思想的体質者であろう)が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるにはそれを神体のようにかつぎあげてわめきまわる物狂いの徒が必要なのであり、松陰の弟子では久坂玄瑞がそういう体質をもっていた。要は、体質なのである。松陰が「久坂こそ自分の後継者」とおもっていたのはその体質を見抜いていたからであろう。思想を受容する者は、狂信しなければ思想をうけとめることはできない。
     が、高杉晋作という人物のおかしさは、かれが狂信徒の体質をまるでもっていなかったことである。このことは、松陰の炯眼がすでに見抜いていた。「君らはだめだ、なぜならば思想に殉ずることができない。結局はこの世で手柄をするだけの男だ」と、あるとき松陰は、絶望的な状況下でその門人たちを生涯に一度だけののしったが、おそらく松陰はとくに高杉をめざして言ったのであろう。晋作は思想的体質でなく、直感力にすぐれた現実家なのである。現実家は思想家とちがい、現実を無理なく見る。思想家はつねに思想に酩酊していなければならないが、現実家はつねに醒めている。というより思想というアルコールに酔えないたちなのである。

    天皇とその公卿団が、時勢のなかに大きく登場してきた。ところが当の天皇と公卿団はなんの政治訓練もなく、知識も情報ももっていなかったために、西洋人といえば牛馬同然の獣類で、きわめて汚れた存在であり、悪心だけをもっているというただそれだけの認識をもっていた。とくに孝明帝はひどかった。帝は愚人ではなかったであろう。しかしその世界認識は山奥の神主とかわらず、「神州の聖域にそういう者を入れては、皇祖皇宗になんとおわびしていいかわからない」と、ただそれだけを言いつづけた。帝の恐怖の述懐が、やがれそれを洩れきいた側近の公卿の手で、「勅諚」というおもおもしい形に変えられ、公卿の手を通じて、京に群れている勤王攘夷志士のあいだに手渡された。かれら志士たちの正義の巨大な背景は孝明帝であり、さらにその帝の本質はといえば、無知と恐怖であった。しかし、革命期のエネルギーは、敵方に対する理解からうまれるのではなく、無知と恐怖からうまれるものであろう。

  • 15/8/12

  • 松蔭先生が江戸に送られて処刑。

    物語の主人公は、高杉 晋作に移ってゆきます。

    まだ若干20歳過ぎのこの若者ですが、現在では歴史上に大きな足跡を残しているしその名を知らない人はあまりいないと思います。

    ですがこの2巻では意外にも、彼は人生について迷い苦しんでいる様子が描かれています。自分には何が向いているのかと思案し色々な事をやってみるのですが、どうもしっくりこない。そんなモヤモヤした想いを抱いて日々を過していく姿は、この幕末の時代に生きた若者も2015年を生きている若者も同じで共感します。

    暗中模索で毎日を過したこの若者は、ふとしたきっかけで上海に行く事になりますがここが彼の人生のターニングポイントだったのでしょう。
    この洋行をきっかけに、彼は自分の人生でやるべき事が次第にかたまってゆきます(どういう事なのかはネタバレになるので、差し控えますが)

    そして、あの嵐のような幕末の動乱期に彼は身を投じてゆくのですがそれは3巻に続くので、引き続き読み進めていく予定です。

  • 吉田松陰の純朴さに何やら日本社会特有の陶酔的自己満足が見え隠れするような気がするのは当方だけかな?
    当時の日本人は好奇心の強い民族との評価も併せて、この作家の巧妙とも言える主張は色んな意味で魅惑的ではあります。

  • 松蔭はここで安政の大獄で処刑されてしまう。その後を久坂と高杉が活躍するが、おしまいからはどうも高杉晋作が主人公のようだ。

  • 晋作が新妻に、自分の家では、必ず、江戸に足を向けて布団をしくと語る話が出てくる。
    私にとって、長州藩を舞台にした大河ドラマは、今でも「花神」だけど、そのシーンがあったのを思い出した。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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