自死という生き方 (双葉新書 2)

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  • 双葉社
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  • Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784575153514

感想・レビュー・書評

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  •  巻末の『家族から』のところで息子が「父の自死について」語るなかで、読者からの一文をとりあげこれが、父の死についての願いですと綴っている。
    その一文は
    『自死という言葉に惑わされず、生き方を考える本、生きる為に必要な本として読んでもらいたい一冊』とあります。

     「ゴールの見えないマラソンは辛いだけだ。」
    なんでもそうだ。そこに“充実“や“しあわせ”を感じようとしたら、限定された期間(決して短いほうがいいという意味ではない)が必要だ。終わりがあり、永遠でないということ、そして、それが自分が納得のできる関わり方ができる時を期限として自ら決めた時があれば、そこに向けられるエネルギーは凝縮する。
     社会ましてや国家は絶対に「自死」を肯定することはできない。それを認めればその存在自体が疑われ、消えかねないからだ。
     でも、「自死」を議論することは意義がある。
    それは、人生というもののコントラストを強くするため(『死』の表側にある『生』をよりクリアにするためにも)。
     長くなった人類の寿命は永い人類の歴史で見ればほんの僅かな瞬間の出来事で、それが社会のあり方、世のなかの風景を大きく変えている。(気候変動どころの話ではない)。
     
     それをかつて存在していた(そしてけっして失われたわけではない)日本の武士道的精神をヒントに自らの人生を生きた須原一秀氏の書。
     三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスらの自死を範にとりながら、オリジナルな『新葉隠』的な内容とし現代社会を生きる人たちに考えることを迫っている。

     そう、まさに『死』の対極にある『生』を見つめさせているのだ。

  • 「どのように死ぬか」ではなく、「どのように生きていくか」を論じている印象でした。
    内容には自分自身の考え方に合う部分も多く、また、著者の時に辛辣な言葉遣いも面白く、一気に読み進められました。
    あとがきにもあるように、確かに同じことを別の場所でも突然述べていることはありました。でも著者が気にしていたそういう「推敲不足」こそが、著者の意見や思考に臨場感を遺している気がします。もし推敲を繰り返されてしまっていたら、どこか綺麗に整えすぎた感じになっていたかもしれないです。

    もし内容に違和感を覚えた点を強いて挙げるならば、徳川家康の言葉について言及している部分くらいです。でもそれは、著者と僕の解釈の仕方が違うからに他ならないので、そこまで気にならなかったです。

    気軽に人には勧めづらい本ではありますが、読んで良かったです。

  • 2017.9.9
    私は死ぬ。この認識は、ニヒリズムを呼び寄せる。どうせ死ぬなら、何をしたって無駄じゃないかと。しかしこれは誤りであり、自分の死を客観的に、三人称視点から眺めたものでしかない。なぜなら、例えいつか死ぬにしても、今食う飯はうまいし、今飲む酒はうまいからである。終わりから今を反省するから、死がニヒリズムを呼ぶのであって、自分が生きるということを、一人称の今からこそ考えるべきではないか。そうすると、今の連続である人生においていかに楽しさを、悦びや価値を見出していくか、これが生きることの課題となる。これが私の意見だった。
    この本は私のそのような人生観を後押しした上でなお、死ぬという不可避の不可能生に対して、このような態度を取りうるのかという衝撃の本であった。十分に楽しんで、もうこれ以上は、これまで以上の楽しみはないだろう。そして人はぽっくり死ぬのではなく、実情としては、ゆっくりと、じわじわと、ギロチンを眺められる距離で焦らされながら、死ぬのである。本書で紹介されていた、キューブラー・ロスの『最後のレッスン』も見た。多くの死に瀕した患者によりそい、聖母と称えられた彼女が、自らの死を受け入れることの困難から神を呪う姿は、私には偽善というよりは、ものすごいリアリティを感じるものだったし、かつその上での彼女の、愛するという課題ではなく、愛を受け入れるという課題への気づきは、身につまされるものがあった。しかし何よりも衝撃なのは、死というものの強大さである。
    その強大さの中で、死に踏みにじられ、何もできないまま死んでいくよりは、自らこれ以上の満足がないならば、死を選ぶというのは、妥当な選択であるようにも思える。人は生きるために生きるのではなく、喜びや価値のために生きると考えているし、そう考えれば合理的な判断である。しかし私はまだ20代後半だし、もうここからは下りしかないという可能性を実感を持って経験していないし、死が一切の可能性の消失であり、仮に下り坂であっても少しでも喜びの価値があるならば、簡単には自ら死を選べない気もする。この本での死の受け入れ方は、例えていうなら、今まで野球に精を出していたけど、これ以上はかつての自分を超えることもできないし、野球はもう楽しくなくなったし、野球をやる意味がなくなったからやめる、というような意味で、生きることをやめるということである。やめたいからやめるのである。誰かからの指示や、そうするべきだからではない。こんな状態になれるものだろうか…
    また本書での主題ではないが、変性意識や、自分と距離をとる意識(一人称と三人称、個別実存的視点と俯瞰的視点の違いと、楽しむ上での実存視点の重要性の指摘)、報酬系と罰系の快不快システムの違い(これは人間の時間性の問題であり、その時々の未来を今よりも上と見るかしたと見るかの違いである)などの心理学的指摘も面白かった。自死という生き方を選べる人間が実存的、報酬系システム、変性意識が多い人間であるならば、私は真逆の、俯瞰的、罰系システム、変性意識もなく冷静な人間である。このままだと死に未練タラタラなこと請け合いである。が、私のこの生き方の全てが間違っているとも思わない。二つの視点と、二つの生き方のいいとこ取りをして、生きていこうと思う。
    死を考えることは生を考えることである。そういう意味で、本書からは自分の生き方を検討すべき多くの材料をもらった。

  • 「極み」と「老醜」がキーワードかと思うのですが、ALS患者のような十数年もの間寝たきりのヒトを見たことがないんだろうな・・・というのが正直な感想。
    本の論評そのものが「死者を鞭打つ」ようで、誰も語らない。
    批評を受けることができないことそのことが哲学者としてはふさわしくないのでは。
    三島由紀夫の自決と同じだろうか・・・。

  • 最初はふんふんと読んでいましたが、途中からちょっと気持ち悪くなりました。一人で死ぬ意味ばかりを考えているとこうなるのかなと思いました。生きる意味を考えての自死ならまだ納得できたかも

  • 実に爽やかに読めました。
    内容
    解説 浅羽通明
     この死者を見よ――『新葉隠』との対話
     新葉隠 死の積極的受容と消極的受容
    はしがき
     1章 三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、
        それぞれの不可解
     2章 なぜ彼らは死んだのか?
        ソクラテスの場合
        三島由紀夫の場合
        伊丹十三の場合
        老衰も自然死も嫌だ――それぞれの苦境
     3章「未練」と「苦痛」と「恐怖」
        彼らは、「苦痛」、「死そのもの」、「死後」
        への危惧ないし恐怖をどのように克服したか?
     4章 死の能動的受容と受動的受容 
        五段階説
        観念的知識と体感的知識
        「二人称の死」と「三人称の死」
     5章 自然死と事故死と人工死
        自然死は悲惨――専門家の見解
        虚無主義と厭世主義
        受動的自然死派の人々
     6章 武士道と老人道
        ヤクザ、武士、老人、それぞれの苦境
        人生は恋人
        『葉隠』――日本人の聖典
     7章 弊害について
        自由は怖い
        共同体
     8章 キュブラー・ロス――キリスト教徒の苦境
     9章 補助的考察
        神秘、大いなる存在、魂、あの世、神、など
        虚無主義にも厭世主義にも関係のない
        「人生を肯定する自死」
     10章 雑感と日常
        雑感
        日常生活
     あとがき
     最後に 父の自死について 須原純平

    自分自身も、若い頃から、融通無碍にこの世を時間空間的に過ごしてきて、69歳なのですが、実に共感できる生き方だと思いました。
    この本と佐伯啓思さんの「死と生」を読んだのですが、どちらも関西人で、私も関西人、とっても親和性があるのです。
    それと、縄文時代、弥生時代を経てきた日本民族の死生観、人生観、そんなことを感じながら読めました。
    ユダヤ・キリスト・イスラム世界に生を受けなかったことに感謝です(笑)。
      

  • 哲学的事業として自死を自ら実施した著者による本。肯定、否定それぞれ意見があるだうし、正しいか間違っているかなどは意味がない。生きているうちに誰もが読んだ方がいいと思うのだが、知人友人に勧めるには勇気が必要だし、誤解を招く可能性も大きい。

  • 日々感じていたことを言葉にされて妙に納得できた。難しいことはよくわからないが。

  • 先日、リバイバル上映の「ショーシャンクの空に」を観て来た。
    ストーリテラーのレッドと、レッドの刑期20年後ぐらいに
    入所したアンディーとのやり取りでの事である。
    入所後、10数年が経ち、アンディーは「希望」を持って生きると言うが、
    刑務所で「希望」を持つと言うのは危険だ、と老人になったレッドが反論した。
    その後、アンディーは「希望」を現実のものとするために行動を起こした。
    レッドはその「希望」の意味を知ったが、仮出所を向え、
    年老いた自分に何が出来るのかと悩むが、アンディーの事を思い出し、
    自分にも「希望」があると悟り、顔を上げ歩んでいった。
     
    著者はもう人生を謳歌したと、人生の頂点は今でその今人生を終えると言っている。
    生い立ちなどを述べている場面があるが、順風満帆に生きてこられたのだろうと感じられる。
    著者が経験した病気などはほとんど私も経験しているが私にとっては微細に感じていたため、
    それを紙上に取り上げることからもそのように推測できる。
    また、死の直前に拷問のような「苦痛」がやってくる可能性がとても高いとあるが、
    その「苦痛」があるとしても、現在からその状態までの間にどんな「すばらしいこと」がやってくるか、
    そのようなものと天秤にかけると推測の域を超えられない二つの状況から人生を見切ることは私には出来ない。
     
    著者は例えるならオリンピックで金メダルを取った選手が、
    直後に引退するのを人生でやったようなものである。
    山あり、谷ありと過ごしてきた多くの人は
    そのような境地には達しにくいと思われる。
     
    著者は評論家ではなく学者である立場上、このような研究結果を上梓したのだから、
    反響を見届け、受け止め、答える義務があるように思われる。
    著書の中に「読者の中には・・・と言われる方もおられるだろうが」などと
    予測できる反響について述べているが、そんなレベルでは答えになっていないのである。 。

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    http://ameblo.jp/golden68/entry-10414158014.html

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