スピノザ よく生きるための哲学

  • ポプラ社
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784591164709

作品紹介・あらすじ

ゲーテ、ニーチェ、アインシュタイン――なぜ思想の巨人たちはスピノザ哲学に圧倒的に勇気づけられたのか。17世紀オランダにスピノザの人生をたどりつつ、主著『エチカ』に刻まれた「肯定の思想」を読みといていく。フランスでベストセラーとなった本書は優れたスピノザ入門である同時に、暴走する感情の時代に生きる現代人に、新たな人間像を提示し、深い励ましを送ってくれる。

「彼はその真摯さと揺るぎない一貫性で、その優しさと寛容さで、そして彼が負ったさまざまな傷と苦しみで、私の心を強く動かす。彼は叡智を求めて思索に没頭することによって、心の傷や痛みを昇華させることができた。彼が肯定の思想家であること、人生を否定的に捉える悲観主義に陥らなかった近代の数少ない思想家の一人であること、それどころか人間の生と真正面から取り組み、喜びと至福に至る自己形成の道を提示したことに、敬愛の念を抱かずにはいられない。」(本文より)

目次 

はじめに スピノザという奇蹟

Ⅰ 政治と宗教に革命をもたらした人

1 哲学への転向
2 傷を負った男
3 自由な思想家  
4 聖書の批判的解釈     
5 スピノザとキリスト
6 ユダヤ教への反逆か
7 啓蒙思想の先駆者

Ⅱ 叡智を生きた人 

1 『エチカ』、至上の喜びへの道案内
2 スピノザの神
3 力能と完全性と喜びを増大させる 
4 自分の諸感情を理解する
5 欲望を何に向けるか
6 善悪を超えて
7 自由と永遠と愛

おわりに 私にとってのスピノザ

【付記】ロベール・ミスライとの往復書簡
原注と訳注
参考文献
訳者あとがき

感想・レビュー・書評

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  • 素晴らしくわかりやすい名著。
    ある程度の哲学の所持者でも読めてしまう
    くらいわかりやすく書いてある。

  • スピノザへの愛、人間への愛を感じる名著。
    スピノザの著書において、筆者が重要と感じる部分に絞り、非常に分かりやすく書かれている。

  • スッキリわかりやすく読みやすかった。細かな作りの解説本と併せて良好。

  • 前半はスピノザさんの人となり。後半でスピノザ思想のアウトラインが示される。

  • 最近スピノザ関係の本を何冊か読んで、どうしてもわかりにくい部分があったのだけど、この本でほぼ解消された。かなり噛み砕いて、例えなど使いながら思想の大事な所を紹介してくれる。
    汎神論。彼の思想は古代インド哲学や老子と似ていると思ったが、著者もそう書いている。
    スピノザはずっと神に始まり神に終わると言っていいほど、神の存在を大前提にしているのに、何故か無神論者と言われていた。スピノザの言う神が、わかる人にはすぐわかるが、わからない人には何故かずっとわからないのだ。スピノザもそう書いていたっけ。
    東洋思想は創始者の直感から始まり、後にあれやこれやの解説が教派として広がる傾向があるというが、スピノザも同様にまず直感から入った人のような気がする。
    スピノザのエチカ以外の本も読んでみたくなった。
    この本、少々値段は張るがかなり読みやすくてお薦め。

  • スピノザについてはあまりよく知らなかったが、フェルメールと同時期に似通った人生を送ったそうである。
    この本は大きく2章に分かれていて、前半はスピノザの生涯と人となりをファーストネーム「バールーフ」を交えて紹介し、後半はスピノザの思想について考察する構成となっている。
    著者がスピノザに同意できない点も率直に述べ、また他の研究者との往復書簡による意見の相違もそのまま紹介しているのが興味深い。
    わかりやすく、訳文も好感がもてる。

    自ら考え、自分自身の中に神的なものを感じながら自らの規範で生きるという哲学に深く共感。

    P19 現実世界はすべて理性によって把握できる、というこの確信こそが、スピノザの哲学体系の礎石である。【中略】人生を狂わせるほどの激しい嫉妬や怒りにも必然的に生じる雷雨や火山の噴火のように、必ず理にかなった理由がある。

    P56 (レンズ磨きを生業としていたバールーフ)この人が日々多くの時間を費やして、眼力を研ぎ澄ますためにレンズを磨き、精神を研ぎ澄ますために思考力を磨いていたことに、深い感動を覚える。真実を明らかにする人にとって、透徹した眼力と精神は切り離せないものだったはずだ。

    P76 自然の光である理性とそれに基づく哲学が、自発的な同意と完全な理解によって規範に従うことを可能にするのに対して、信仰は従順という徳によって規範を守るように促す。従うという行為は同じでも、その動機・理由が異なっている。[中略]哲学が心理と紙幅を探求し、それに近づくことを目的とするのに対して、信仰は従順さと熱意を行動で示すことを目指している。信仰が哲学とは次元の全くことなるものである以上、哲学することで進行が失われたり損なわれたりすることはあり得ない。

    P92 ユダヤ人として生まれた彼だが、自分はユダヤ陣である以上に万民共通の理性によって世界史峰であり、社会的身分上はネーデルラント連邦共和国の国民であると感じていたからだ。彼はまた、ユダヤ人も自分が暮らす社会に同化すべきだという考えを強く支持していた。

    P98 宗教には、スピノザが希求していた理性に基づく社会的結束を超えて、熱意や深い感情の共有によって人々を結び付ける力、理性だけでなく様々な感情で紡がれた人間の絆を作り出す力がある。【中略】集団への帰属意識は、理性よりも感情と結びついていて、その影響は無視できないほど大きい。

    P103 スピノザが自由主義と平等主義に基づく生態を擁護しているのは、それが「よい」からでも「正しい」からでもなく、現実を重視する実用主義的観点から、人間本性を十分に考慮した結果、これが一番うまくいくと思ったからである。「外発的な服従と言えども、内面的な精神活動を前提としていることに変わりはない。他者の権力に最も従順に従う人は、他者の命令を最も真摯な情熱をもって実行しようと心に決めている人である。」【中略】どんな社会にも必ずみられる道徳に反する所業は禁止するよりも多めに見たほうがいいと言い切っている。「人間の生活を全て法律で規制しようとしても、そうした悪癖を正すどころか、むしろ一層増長させるだけである。禁止したくてもできないことは、それが原因でしばしば損害が生じることになったとしても、善悪に関わらず何としても許容しなければならない。」

    P107 国家の成員ダル個人が理性的に考えることをせず、自分の感情や固定観念に囚われたままであれば、民主主義が成立してもそのメリットを生かすことが難しくなる。「外発的(受動的)な服従が「内発的(能動的)な精神の働き」に勝ると、民主主義は弱体化する可能性が高い。

    P141 (スピノザの言う「身体」の意味)単なる物理的身体ではなく、肉体的、感覚的、情動的、感情的、その他あらゆる次元での身体性を指している。身体をそのようにとらえると、生まれつき身体があまり丈夫でない人でも、欲求や情動や感覚力の強さを生かして身体的機能を高められる理由がうなずける。それに、身体が何らかの病に侵されたとき、体内の器官を治療すればそれで済むわけではなく、病に伴って生じる不安や動揺などの感情現象を考慮に入れる必要があることも、それで説明がつく。

    P167 イエスは(姦通の女に)「わたしはあなたを罰したりしない。帰りなさい。そして今後はもう罪を犯さないように」と言っただけである。これをスピノザ流に言いなおせば、「より大きな欲求を抱きなさい。正しい方向を見定めてこれからはもう的を外さないようにしなさい」ということだろう。【中略】イエスは「それはよい」「それは悪い」という判断は下さず「そのとおりだ」「そうではない」と言っており、各人が自分自身を高め、成長させることの大切さを説いた。

    P173 スピノザは善を、主観的な嗜好や欲望と切り離せないものとしてとらえたのである。【中略】「私たちは自分の存在の維持に役立ち、自分の活動力能を増大させ、それを助けるものをよいものと呼び、反対に自分の存在維持を妨害し、自分の活動力能を減少させ、それを損ねるものを悪いものと呼んでいる。」

    P175 「各人が何よりもまず自分にとって有益なものを求めるとき、私たち人間はたがいにとって最も有益な存在となる」

    P187 「スピノザのいう至福は神秘体験ではない。その至福が、有限存在である人間と無限の存在者の融合から生じたとは考えにくい。」(ロベール・ミスライ)【中略】(宗教の至福体験は)超越的な神との信仰と心情による合一であり、(スピノザ哲学における至福は)内在する神との理性と直観による合一である。=叡智

  •  著者はフランスのノンフィクション作家。主に宗教や哲学に関する一般向けの著作をもち、そのうちキリストに関するものは何度か書店で目にしたことがあるが、個人的には本書が初読。決して早いとは言えないスピノザとの出会いにより大きく影響を受けた著者が、非プロフェッショナル向けにその魅力を伝えるべく書かれた入門書だ。著者は必ずしも哲学の専門家ではないが、付録にあるように複数のスピノザ専門家の査読を受けており、平易さを指向しながらも正確性の担保も期した信頼のおける内容となっている。

     前半は、世俗的にも宗教的にも孤立の悲哀を経験したバールーフ・デ・スピノザが、政教一致を提唱し当時のネーデルランドを牛耳るカルヴァン派の意に背いてまで発表した「神学・政治論」の主張を軸に展開される。スピノザの主張によれば、「神の掟(儀礼ではなくより本質的な至福と善を追求すること)」を知る上では、自然的光明(=理性の力)による一般人の解釈は預言者のそれに劣るところがない(人間イエスが神の叡智を体得できたように)。聖書の本分は人間の理性に既に備わっている神の掟への方法論を用いて「公正さ」と「愛」の実践を伝えるところにあるのだから、戒律で人々を縛り付け「自発的隷属」強いる宗教の掟など不要だということになる。ここで意識されているのは間違いなくアリストテレスの「観照知」であることに注意したい。アリストテレスが「不動の動者」たる神が理性を持って対象を思惟することが世界の原動力であるとしたことと、人々が理性を持って神を愛することが至上とされていることは、多分鏡像の関係にあるのだと思う。
     一方、シオニストたちが期待した政教一致の旗頭としての役割に反して、スピノザが宗教(従順さと熱意の発露)と哲学(真理の追求)を峻別した政教分離を指向していたこと、さらには公共の福祉を信条・表現の自由の上位においていたことはやや意外だった。政治権力は個人の契約により委託された自然権の表出であり、神の本質を自然の掟と同一視していたスピノザにとっては、政治権力も理性に従っているうちは神の掟に従う存在だということなのだろう。

     後半はいよいよ主著「エチカ」の概説。自然の幾何学的構造を模した構成をもつこの著作は、すべての定理の拠って立つ起点として、唯一の実体(その存在のために他のに何ものも要しない存在)としての神を定義する。目的原因論的な万象の説明に依拠することで心の平安を保つ人間の要求を排し、あらゆる因果の矢の射出点として神を対置したものだ(この辺りもアリストテレスの不動の動者を想起させる)。有名な「神即自然」もここから来るのだが、著者はこれをもって「スピノザは神を自然に還元した唯物論者である」とする一般に流布する解釈を一蹴し、スピノザの「自然」とは物質的/精神的なものを総括的に内包する宇宙全体であるとしている。スピノザはさらに「能産的自然(自然を産出する潜在能力)」と「所産的自然(現実に生起した自然)」を峻別し、前者こそが神の本質だという(三度、これもアリストテレスの可能態と現実態に相似する)。この能産的自然のもつ人間に認識可能な二つの「属性」、すなわち「思惟(精神)」と「延長(物体)」が人間に表出したものを「様態」と呼んでいる。個々の事象は神の属性が様態として現れたものに過ぎないというわけだ。
     この辺りを見ても、スピノザのいう「神」が一神教的な人格を伴う神とはかけ離れた存在であり(本書ではなぜか言及が注意深く避けられているようだが)「汎神論」という言葉で表現されるより広範な対象を表象する概念であることがよくわかる。付録のロベール・ミスライとの往復書簡でも議論されているが、これを「無神論」と呼ぶか否かは個人的には皮相的な問題でしかないように思う。むしろ、一神教が完全にデファクトスタンダードだった時代に、このように斬新な「神」を提唱したスピノザのトリックスターぶりに驚かされる。
     さらに嘆息すべきはスピノザの身体知に関する洞察力である。生命に共通の原動力「コナトゥス」に基づき、生命は進歩、成長してより完全な存在に至ろうと努める。その過程では、外界からの刺激(アフェクティオ)がコナトゥスに促進的にも阻害的にも作用する。このアフェクティオが喜びや悲しみといった感情/情動(アフェクトゥス)を惹起し精神に影響するため、理性で刺激との出会いを制御しより大きな完全性を指向することが可能になる、というのだ。これは本書でも触れられているアントニオ・ダマシオのソマティックマーカー仮説をはじめとする理性/感情一元論の概説と言ってもいいくらいで、これをfMRIも何もない時代に直観したスピノザはまさに天才だと思う。
     ただ、プラトニズムやデカルト的二元論からスピノザが完全に自由であったかと言えば、そうではないような気もする。例えば主観の表象により歪められた「第一種の認識」の裏に、理性により認識されるべきすべての人の共通概念である「第二種の認識」があるという考え方には、プラトニズムと似たような匂いを感じてしまう。また、「受動的」で不適切な情動を理性で「能動的」で適切な情動に変換せよというが、受動と能動を区別する我々の能力は本当に信頼に足るものなのだろうか。これを理性でコントロールせよというのは、デカルトと同じように理性=意識の座を人間の精神内部に定めることと、本質的に違いはないのではないのだろうか。

     考えさせられたのは、スピノザが政教分離と軌を一にして主張する「内面の自由」と、神により全てが決定されているとする「機械的決定論」の折り合いをつけるくだり。真の自由は「唯一の実体」たる神しか持ちえず、人間が持ちえるのは自身の動機(「個別的本質」=神の属性の様態)について自覚的である時にのみ持つことができる「第二段階の自由」だというのだ。自らの動機を宇宙全体と同期させた時のみ自由になれる、ということだが、しかしこれはもはや自由と呼べるものなのだろうか。個人的には、公共の福祉を個人の自由に前置したことや、全ての公理の起点に唯一実体を置いたのと同じく、「神即自然」を絶対視するスピノザの心性のあらわれであると見たほうが自然なような気がする。

     全般的に、スピノザの哲学が「正しいもの」ではなく「善きもの」を追求したそれであることが極めて明瞭に示されており、その論理の展開も一貫しており読みやすい。また前半でスピノザを論ずるにあたり避けることのできない宗教/世俗との関わり、特にスピノザが個人的に経験した宗教的孤立と世俗的挫折に触れており、読むものを惹き込む力を持った良書だと思う。「エチカ」の「QED(証明終)」連発に面くらい途中で放り投げた経験のある僕だが、著者の狙い通り再び「エチカ」にトライしてみようという気になった。

  • スピノザについて、これまで読んだなかで、一番、わかりやすかったかな?

    著者は、純粋な哲学者ではなくて、ジャーナリストだったり、宗教関係の雑誌の編集やいろいろな活動に関わっている人。本も幅広い。

    というわけで、スピノザの人と思想という感じで、すらっと読める本になっている。

    が、単純なスピノザ入門ではなくて、著者独自の解釈を提示していて、それはスピノザとキリストとの関係。

    スピノザの主著(?)は、いうまでもなく「エチカ」なんだけど、第2の主著というもいうべき「神学・政治論」というのがある。これは、タイトルどおり、政治と宗教について本で、宗教に対しては基本的には批判的。と言っても、全部を切り捨てるわけではなく、その時代背景や社会的コンテキストなどを踏まえて、迷信的なものとそうでないものを切り分けていく批判的な解釈のアプローチを提案している。

    そういうなかで、キリスト自身については、スピノザは共感的で、いわば人間キリスト、そしてそこにスピノザ的な神や精神の永続性みたいなのを見出せると主張。

    スピノザは、基本、無神論的に捉えられることが多くて、「神学・政治論」でのキリストに関する記述は、当時の政治情勢のなかで、キリストを全否定すると命の危険があるので、リップサービス的に書いたんのではないかという理解が多いように思う。

    が、著者は、「エチカ」の人であるスピノザがそんな姑息なリップサービスをするわけないじゃないかと文字通りに文章を解釈しつつ、自身のキリスト像と結び付けていく。

    この辺のところが、賛否両論ありそうだけど、面白いところ。

    で、さらに面白いのは、この本の原稿をスピノザ学者のロベール・ミスライに送ったら、そのレスポンスで生まれた往復書簡を巻末に記載しているところ。

    ミスライは、この本はわかりやすくてよいといいながら、ルノワールの主要な論点であるスピノザとキリストの関係をほぼ全否定。あと、スピノザと無意識という論点もかなり批判的。で、それに対するルノワールの反論もなんだかで議論は平行線。。。。

    これを本にのせるのって、普通しないように思えて、ここにルノワールの誠実さみたいなのを感じた。

    いずれにせよ、こうした議論に最終解はない。あとは、自分自身で考えてほしい、というメッセージを受け取った。

  • 哲学関連の本は ほとんどが最初の30ページあたりで挫折してしまうが,すらすらと読めて,とてもわかりやすかったです。翻訳も良い。前半は伝記的事項,後半でエチカの話となる.入門書なので,他のスピノザ関連の本をよんでみたいと思った.分量も多くなくてよかった.

  • 著者のフレデリック・ルノワール(1962年~)氏は、マダガスカル生まれのフランス人で、長年に亘り仏「ル・モンド」紙の隔月刊誌「宗教の世界」の編集長を務め、哲学をはじめ、宗教史、比較宗教学、社会学、小説、対談集、ルポルタージュに至る多彩な分野で活躍し、今日、フランスで最も注目される作家のひとり。
    本書は、2017年にフランスで刊行された『LE MIRACLE SPINOZA(奇蹟のスピノザ)』の全訳で、2019年12月に発行された。
    スピノザは、スペイン系ユダヤ人を先祖にもつ、17世紀のオランダの哲学者である。哲学史的は、デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者として知られ、カント、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、更にその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。その哲学体系は代表的な汎神論と考えられており、後世の無神論や唯物論に強い影響を及ぼしたが、生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視されたという。
    私はこれまでも、「現実世界はすべて理性によって把握でき、この世界には説明がつかないもの、道理に合わないものは一つもない」と主張し、アインシュタインも傾倒したというスピノザの思想に強い関心を持っていたのだが、本屋で『エチカ』を開いてはため息をし、講談社現代新書の『スピノザの世界』すら読み通すことができなかった。しかし、「この本を世に出した著者の意図は、これまで哲学に縁がなく、スピノザのことをよく知らない人々にも理解してもらうこと、そのためにスピノザの思想の本質的な部分だけをかみ砕いて説明することである。そして、多くのことに縛られて息苦しさを感じている人、人生に虚無感や不満を抱いている人、あるいはもっと良い人生を送りたいのにどうしたらいいかわからない人に、これを読むことで癒しや勇気、あるいは生きる力やヒントを見つけ出してもらうことである」という本書は、とても読み易かった。
    本書では、第Ⅰ部「政治と宗教に革命をもたらした人」で、スピノザの人生と、字義通りの聖書解釈や迷信や選民思想を鋭く批判したスピノザの真意や根本思想について、スピノザの著書『神学・政治論』に基づいて語られ、第Ⅱ部「叡智を生きた人」で、代表作『エチカ』の主要部分である、神観(神即自然)、人間観(実態一元論)、感情論(三つの基本感情である欲望と喜びと悲しみ)、善悪を超えた倫理観、神と人間の関係が、具体例とともに平易に解説されている。
    本書には、「ある感情は、それより強い感情によらなければ、逆らうことも消し去ることもできない」(『エチカ』より)ほか、スピノザ自身の著書からの引用や、著者の記述の中に、数多くの印象に残るフレーズがあるが、まとめると、訳者あとがきにある以下のようになるのであろう。「自分にとって良いものを見分け、自分の生命力や活動力能、喜びや幸福感を増大させられるように生きることが、スピノザの説いた良い生き方であり、自然に生じる美徳でもある。そのためには外的な諸要因に振り回されず、自分の情念や不適切な観念に支配されず、自分と世界をありのままに理解して受け入れ、理性の力で欲望を適切な方向に向かわせることが肝要である。・・・人間は生来的に自分の存在に固執し、生命力や活動力能を増大させ、より完全になろうとしている。そしてそれができた時に、深い喜びを感じるようにできている。この生命の法則に逆らって生きれば、おのずと喜びから遠ざかるようになっている。そうであるなら、それに気づいた時からその方向を目指して、一歩でも二歩でも進んでいけばいい」
    スピノザが、難解といわれる『エチカ』に込めた「良い生き方」が、わかりやすく説かれた良書である。
    (2020年2月了)

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著者プロフィール

1962年生まれ。スイスのフリブール大学で哲学を専攻。雑誌編集者、社会科学高等研究院(EHESS)客員研究員などを経て、2004年に『ル・モンド』の宗教専門誌『ル・モンド・デ・ルリジオン(宗教の世界)』編集長に就任。2006年、『精神性小叢書』(プロン社)を創刊。宗教学、哲学、社会学から小説、脚本まで多彩な分野で活躍し、フランスの思想界、読書界で最も注目される著者の一人。数十冊の著書は25カ国で翻訳され、日本語訳に『仏教と西洋の出会い』『人類の宗教の歴史 9大潮流の誕生・本質・将来』(トランスビュー)、『ソクラテス・イエス・ブッダ』『生きかたに迷った人への20章』(柏書房)『イエスはいかにして神となったか』(春秋社)など。vv

「2012年 『哲学者キリスト』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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