右大臣実朝 [Kindle]

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  • 2012年9月12日発売
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感想・レビュー・書評

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  • 鎌倉時代を勉強しよう第5弾

    無知なワタクシは太宰がこんな作品を残しているとは知らず…
    もうこれもひとえに「鎌倉殿」のおかげである
    三谷クンありがとう!

    実は…
    初めての電子書籍である
    (想定通り本は紙がいいなぁ…と実感 何というか情緒が欠落してしまう感じがして…じっくり向き合えないというか、慣れないせいかお尻がモゾモゾして落ち着かない感じ⁉︎ )

    さて本書に関して知識がないためwikiることに…
    どうやら太宰は少年の頃から実朝について書くことを念願していたようだ
    詳しい理由はよくわからない
    そして依頼を受けて執筆に着手し、『吾妻鏡』『金槐和歌集』『承久軍物語』『増鏡』といった歴史資料を利用した
    これらは本文中にも引用という形で使用されている


    鎌倉幕府3代将軍、源実朝(頼朝の次男)の人生を、実朝に仕えていた近習が語る…という形式の作品である
    そして歴史書の引用が途中途中にガバッとはめ込まれている
    そしてこの語り手である近習は非常に丁寧な口調(先日読んだ芥川の「地獄変」の語り手を彷彿させる)であり、実朝に肩入れしており、かなりの偏愛だ
    そしてなかなか、いいえかなり口が悪い(笑)

    例えば北条家の人間たち
    性格にコツンと固い几帳面なところで、無駄なことは嫌い、また隅々まで目が届く真面目な良い方達としながらも
    下品だと遠慮なくストレートに言う

    さてこの作品は何が面白いって、粗さのあるお世辞にもスマートとはいえない作品ながら、人物描画がたまらなくイカすところなのだ

    北条義時の人物像はあまり残されていないのだろう
    掴みどころがないモヤのような印象で描かれる
    しかしながら負の功績もなかなかなので、その辺りを実にイヤらしい感じに仕立て上げて見事である

    どんな記述がなされているかというと、まず
    〜承久の乱までには別に、これといふ目立つた悪業のなかつたお方でしたのに、それでも、どういふものか、人にはけむつたがられ、評判のよろしくないお方でございました〜

    褒めてもいる
    〜人の言ふほど陰険なお方のやうでもなく、気さくでへうきんなところもあり、さつぱりしたお方のやうにさへ見受けられました〜

    が、上げたと見せさらに落とす
    〜とても下品な、いやな匂ひがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもでさへ、ぞつとするやうなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはひつて来ると、さつと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよひ、たまらぬほどに、いやでした〜

    実朝を一番助けたのは北条家に間違いはないのに、不平不満が聞こえ、正しいことをすればするほど不快な悪臭がわく
    というのである
    こんな感じで義時の人物像の曖昧さを上手く利用して表現しており素晴らしいのだ

    そしてストレートに勝負をしてきた!と感じるのが公暁だ
    公暁は実朝を父の仇として暗殺する
    (源実朝の兄の源頼家の嫡男 つまり実朝の甥っ子)

    蟹が狂ったように好きだと言う公暁
    蟹を船板にぐしやりと叩きつけ、甲羅を潰して焚き火で焼いてむしゃむしゃ狂ったように貪る
    そんな姿を描き、彼の卑しさ、残忍さ、熱を帯びた暗く歪ん性格を炙り出して面白い
    公暁は祖母である北条政子の計らいで鎌倉へ来たのだが、京都に居たかったという
    京都は嫌なところで、みんな見栄坊で嘘つきだ
    だから自分にはちょうどいいという
    この歪んだ考え方(笑)
    この公暁登場場面は、まぁ、事件前の予兆として描かれているのはわかってはいるものの、なかなかの緊迫感とスピード感があり、ちょっとだけ前のめり気味に読んでしまった

    さて肝心の源実朝はどうか
    実朝の語りは全て漢字+カタカナで表記されている
    これがなんだか実朝の存在感を敢えて薄くしているのか…もしくは立ち位置が違う、天上人かのような見せ方なのか…⁉︎
    うーんなんだか透明人間みたいである
    近習に言わせると
    〜正しい道理を凜然と仰る
    将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいふ事はどんなものだか、全くご存じない
    こだわりも執着もなく
    右は右、左は左と水の流れるようにサラサラとお裁きになる〜
    とまぁずいぶんな欲目なのである
    とにかく近習の極端すぎる目線がおかしくておかしくて…

    他にも
    鴨長明の登場も面白い
    なんだか脱力感溢れる笑いになってしまうのだ
    やっぱり太宰はどうしても喜劇的に読めてしまう…
    悲劇と喜劇がもう表裏一体化してなんともニヤけてしまうのだ

    そして最後の例の事件だ
    右大臣に任ぜられ、御拝賀のため、鶴岳八幡宮へ
    大規模行事となる
    あ、そうそう公暁は鶴岳八幡宮の別当である

    ※以下最後のネタバレ有りなのでご注意ください

    冒頭でも紹介した通り主に吾妻鏡の引用が随所にはめ込まれるのだが、なんとクライマックスの実朝暗殺の部分は引用文のみなのだ
    一瞬呆然となる
    そして何度も前後のページをめくって(電子なのでスワイプして)確認したがやっぱり引用文しかない!
    ああ、そうですか…
    わかりましたよ…
    そう持っていったのね
    まぁ太宰らしいといえばらしいか…
    してやられた気分なのだが結局ニヤリとしてしまった

    なかなか楽しめる作品であった
    個人的にある適度鎌倉時代を勉強した頃に読んだので理解できたが、いきなり読んでいたらたぶん手こずったはずだ
    良いタイミングで出会えた
    しかしこんな読み方でいいのかね?
    と思いつつ自由気ままに楽しんでしまった
    やっぱり太宰は面白い!

  • 『鎌倉殿の13人』を観ていて人間関係を把握していたから大丈夫だったという前提付きだけれども、面白かった。『吾妻鏡』からの引用らしいところは古文で意味がとれずぶんぶん読み飛ばしたが、太宰の改変が入っていると後で知った。雑な読み手で申し訳ないことだった。昔の読者は通しで読んだのか。教養がある。

    なにせ読み飛ばしているので全体として名作なのかどうかはよくわからないが、妖精実朝の滅びの予感と公暁が自覚するダメさの描写に説得力があってよかった。人間がダメになる話(フィッツジェラルドとか)が好きなひとは好きなんじゃないだろうか。

    余談:北条義時に対する難癖のつけ方がいやらしい。語り手は「彼は何も悪くないんだけど、なんかむかつくんだよ、みんなもそういってるよ」って丁寧に丁寧に言う。自分は繊細だからああいうセンスのない空気読まない奴は嫌なんだって、悪口の言い方としては最悪なんだけど、まあ太宰治がまた何か言ってんな、と思えば我慢できる。井伏鱒二経由で太宰治を知ると、神経質で承認欲求の塊の太宰がどうにも憎めない。

  •  恐ろしい作品だ。
     たとえるなら、割れガラスの破片を素手で握り締め、夥しい血を流しながら、自分で精魂込めて描いた神様の絵をずたずたに切り刻むような恐ろしさだ。

     正直、小説としての出来はあまりよくないのかもしれない。前半と後半で実朝の天衣無縫さに関して言っていることが食い違っている点も見受けられる。
     また読みやすさの点からみても、一文が妙に長くて改行が少なかったり、途中に歴史書からの引用が挟まれていたりして非常に読みにくい。ロシア文学かよ! と言いたくなるほど登場人物の呼び名が多様なのも、題材ゆえに仕方ないがかなりハードルを上げている。わたしにとって興味のある人物の話だから読めたが、それでも途中まではかなり退屈だなあと思っていた。
     ただ、終盤の公暁の語りは、とてもぐっときた。

     この作品は実朝に仕えていた近習が過去を回想する形を取っているのだけど、途中までは実朝のことを極端に美化していると感じ、なかなか共感できなかった。漢字と片仮名で書かれる実朝の言葉は、その一つ一つがまるで神託めいているように思われた。
     ただ終盤、実朝が政事を疎かにし、詩歌管弦に明け暮れ出すと、急にその威光は翳り始める。そうして、公暁が京都から鎌倉へやってきて悲劇は起こる。
    「私も、京都へはじめて行つた時には、ずいぶんまごついた。くやし泣きに泣いた事もある。けれども私の生来の軽薄な見栄坊の血が、京の水によく合ふと見えて、いまではもう、結局自分の落ちつくところは京都ではなからうかと思ふやうにさへなつてゐる。」
     素人の浅はかな当て推量かもしれないが、この公暁に、わたしはどうしても青森出身の太宰本人を重ねて見てしまう。
    「いけないのは、田舎者のくせに、都の人と風流を競ひ、奇妙に上品がつてゐる奴と、それから私のやうに、田舎へ落ちて来た山師だ。私は、(中略)どうしてだか、つい卑屈なあいそ笑ひなどしてしまつて、自分で自分がいやになつていやになつてたまらない、いけない、いけない。このままぢやいけない。死ぬんだ。私は、死ぬんだ。」
     田舎にも都会にも、どこにも属せない孤独があふれているようで、胸が苦しくなった。


     ちなみにわたしはあまり和歌には詳しくないのだが、源実朝の歌は結構好きなのだ。当たり前のことを当たり前のように詠む、その言葉選びにはっとさせられる。その和歌はストレートなようでいてなんとなく謎めいていて、もしかしたら実朝は自分が殺されるのを予知していたんじゃないか、とか言われているのを聞いたことがあるなあ。
     ほかにも実朝を扱った作品はいろいろあるようなので、これも読んでみたい。

    【メモ】
    ※2012年の12月に行った鎌倉文学館で源実朝展をやっていて、それから読もう読もうと思っていたのだが、ほぼ4ヶ月が経ってからようやく読んだ。まあ、わたしの積読時間としては短いほうだ……。

    ※新潮文庫『惜別』にも収録されています。

  • 昨年の大河ドラマの復習をしていたのですが、太宰治にこんな作品あったんだという発見でした。旧仮名づかひが味わいを増しています。ホントのところ、右大臣実朝ってどんな人だったのだろうという疑問だけが深まります。

  • 鎌倉殿の13人を踏まえて再読。歴史上の人物で吾妻鏡をごりごりに引用していたりするのだが、実に太宰の登場人物になっているのが面白い。

  • 『太宰治全集6』で読んだ。

    この時代には疎く知識もなかったため、読んでも分からないだろうと、これまで手をつけてこなかった。
    今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていたことで理解がしやすくなっており、このタイミングで読めて良かったと思う。



    終盤、右大臣昇任を祝う鶴岡八幡宮拝賀がより華美に、大規模になっていく様子を見て、語り手はある実朝の姿を思い出す。
    それは、琵琶法師が語る壇ノ浦合戦に耳を傾けながら「平家ハ、アカルイ」「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」とこぼしていた実朝だった。
    作品序盤に登場した「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」という言葉は、当初のゆったりとした朗らかな印象の実朝にはカチリとハマっていないような、不穏な違和感を抱いていたのだが、鶴岡八幡宮拝賀を目の前にしてはっと思い出すという流れがたまらなかった。


    大河ドラマでは実朝と和田義盛の関係性が大変微笑ましく、癒しとなっていたのだが、この作品でも実朝が和田義盛を大切に労わっている様子が窺える。


    北条義時は「相州さま」という呼び名で登場する。
    ————
    私たちの見たところでは、人の言うほど陰険なお方のようでもなく、気さくでひょうきんなところもあり、さっぱりしたお方のようにさえ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂いがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもさえ、ぞっとするようなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはいって来ると、さっと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよい、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申しているようでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがっている故ではなかろうかとさえ私たちには思われました。父君の時政公でさえ、この相州さまに較べると、まだしもお無邪気な放胆の明るさがあったようでございます。それほどの陰気なにおいが、いったい、相州さまのどこから発しているのか、それはわかりませぬが、きっと、人間として一ばん大事な何かの徳に欠けていたのに違いございませぬ。
    ————(P105)

    語り手は実朝についてなるべく丁寧に、失礼のないようにと心がけて語っている様子だったが、義時についてのこの描写は歯に衣着せぬ物言いで、思わず笑ってしまった。


    印象深かったのは、公暁が蟹を捕まえる場面だ。
    語り手が公暁を訪れた際、「毎晩のようにここへ来て、蟹をつかまえては焼いて食べます。」と言う公暁に連れられて浜へと向かう。
    ————
    禅師さまは、ざぶざぶ海へはいって行かれて唐船の船腹をおさぐりになったので、私もそれに続いて海へはいって禅師さまのなさるとおりに船腹をさぐってみると、いかにも蟹が集っている様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしゃりとたたきつけて、砂浜へほうり上げ、あまりの無慈悲に私は思わず顔をそむけました。
    (略)
    「とらない人には、食べさせないよ。」禅師さまは平気でそんな事を言いながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしゃりと叩きつけて砂浜へほうり上げ、「蟹は痛いとも思っていません。」
    ————(P184)

    蟹を捕まえる際のこの行動が、公暁の内にあるものを表しているようで、忘れられない。

  • 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に実朝が登場し、
    Twitterで実朝の和歌集「金槐和歌集」を知り、
    そちらを探していたら太宰治の書いたこの本も出てきた

    実朝より5・6歳年下の架空の近習が、誰かに実朝の事を語る、という形式
    吾妻鏡が底本になっている

    さて、困ったのは、
    出てくる人物がドラマの役者さんたちになってしまったこと
    義時は小栗旬さん
    義村は山本耕史さん
    尼御代は小池栄子さん
    広元入道は栗原英雄さん
    和田義盛は横田栄司さん
    「かおはいいのに」の源仲章は生田斗真さん……
    もう出てくる方々、ことごとくドラマの顔になってしまった
    さらに、3回ほど出てくる時房
    なんと1回目は「トキューサ」と読んだ事に気づかず、
    2回目で「あれ? 今、トキューサって読まなかったか?」
    「あああああ (>_<) 」
    なんてこった……

    それにしても、義時、えらい言われよう
    「人の言うほど陰険な方のようでもなく、気さくでひょうきんなところもありさっぱりとしたお方のようにみうけられました」と持ち上げておいて、
    「どこやらとても下品ないやな匂いが」と突き落とす
    義時が「部屋に入ってくると、さっと暗くなり、興ざめの気配が漂う、これは義時の暗さが四方にひろがっているのではなかろうか」
    さらには「人間として一番大事な何かの徳に欠けていたにちがいない」
    そして「生まれつき不具のお心が」とまで言われてしまう
    他にも「目立って下品に陰気くさく」
    「正しい事をすればするほど、そこになんとも不快な悪臭が湧いて出る」
    もうやめてあげて、というくらい
    太宰治は義時をどうしてそんな人物ととらえていたのか
    「吾妻鏡」は北条の歴史書だから、こんなことはないと思うのだが……

    また義村は義村で
    「裏切りの大功名を立てたお方」
    「御一門の和田氏を裏切り、他人の軍功まで奪おうとなさった、きたなき振舞ひと」
    「不評判はまことに絶頂を極めました」
    どうしてもドラマを思い出してしまい、笑いが止まらんのなんの

    比企の変にはあまりページが使われてなく、和田の挙兵にはかなり使われていた

    そして、公暁
    最後に登場する公暁には、架空の近習との長い会話が書かれている
    公暁の考えや感じていただろうことを、太宰治はどこからくみ取ってきたのだろう
    この部分はかなり生々しい
    蟹を踏みつぶし、火で焼いてむしゃぶりつく公暁
    鎌倉へ帰ってくるべきでなかったと言う公暁
    なんの宿願のために千日こもったのか?
    この問いには「吾妻鏡」も「愚管抄」も答えてはくれないだろう

    気になったのは、実朝が八幡宮に出かける直前、
    「次に庭の梅を覧て禁忌の和歌を詠じ給ふ」とあり、
    出ていなば……の和歌が続くのだが、
    【禁忌】とは? なにが【禁忌】なんだ?
    神社に行く前に和歌を詠むのが【禁忌】なのか?
    ここで「吾妻鏡」の記述は終わり、以下「承久軍記物語」が6ページほど続く
    そして数行の「増鏡」で終わる
    もっと知りたければ、「吾妻鏡」「愚管抄」をあたり、
    それを解説している歴史家の先生方の書籍を読むしかないか

  • この本、多分読んでないし、青空文庫で読める。大河の進行もあって手を出しました。
    太宰が何故この題材、実朝に執心したのか、ちょっと測りかねる。それくらい謎めいている。事実を淡淡という訳ではなく、明らかに作為を感じさせてくれるし。
    ちょっと世の中の見解を聞いてみたいです。

  • 源実朝の少年期から暗殺までを,侍従の一人が回想の形で語る.間には「吾妻鏡」の抜粋が随所に挟まれている.「吾妻鏡」はその信頼性はともかく(北条氏編纂なので施政者に都合の良い記述である可能性がある),歴史書であるため極めて客観的に書かれているのに対し,実朝に心酔していた,いわゆる「信頼できない語り手」である侍従の回想は,彼の主観である.回想部分における実朝の会話は全てカタカナで書くことにより,実朝のパーソナリティーは徹底的にそぎ落とされ,主観性を際立たせるという念の入りようである.話は吾妻鏡と回想の間を交互に行き来して,公暁による実朝の暗殺で突然終りを告げる.この結末の処理も見事である.

  • 太宰の中では比較的読みにくくて苦手なお話なのだが、数年ぶりに再読してみた。電子書籍万歳。
    読みにくいのはただ単に「古文が挟み込まれてる」って話じゃなくて、まず一文が基本的にべらぼうに長い。息継ぎできなくて風呂場で読んでたら溺れかけた。そして、実朝のお付きの人が語り手なのでまぁびっくりするほど丁寧に丁寧に慇懃が過ぎる語り口。「私如きがいうのは僭越ながら浅知恵できて、恐れ多くも、恐悦至極」みたいな話し方で、嗚呼なのに一文が長いのだ。これはつらい。そりゃあ溺れても仕方ない。

    で。

    結局実朝が神憑り的な気品のある天衣無縫天真爛漫神秘的上品気品のお方なのか、京都に憧れるだけの貴族かぶれの田舎モンなのかって話。

    芥川の「地獄変」も「実朝」も、語り手が主人に肩入れし過ぎて信用ならんところは一緒だが、実朝の方が語り手に揺れて悩む節がある。「この人は本当は白痴なのでは」と心の底で揺れている。実際周りもそんな感じだから、読み終わった後に実朝の背伸びしてもダメだった、孤独だった感が押し寄せて、読み終わると、疲れと寂しさと悲しさがどっと押し寄せて、これはだから溺れても仕方ない。ぶくぶく。

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著者プロフィール

1909年〈明治42年〉6月19日-1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名は津島 修治。1930年東京大学仏文科に入学、中退。
自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、戦前から戦後にかけて作品を次々に発表した。主な作品に「走れメロス」「お伽草子」「人間失格」がある。没落した華族の女性を主人公にした「斜陽」はベストセラーとなる。典型的な自己破滅型の私小説作家であった。1948年6月13日に愛人であった山崎富栄と玉川上水で入水自殺。

「2022年 『太宰治大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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