モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語
- 岩波書店 (1976年9月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
感想・レビュー・書評
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児童書なのだが、大人こそ読むべき物語。
時代の流れはますます速くなり、高速のベルトコンベアーに乗せられているかのようだ。
そんな今だからこそ、この物語をもう一度噛みしめたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
巣ごもりを余儀なくされている昨今、時間について書かれたこの本を読み返したくなって、久方ぶりに本棚から引っ張り出してきた。数十年前、小学校のときに買ってもらった本だから、かなり色あせ、古びているが、捨てることができずにとっておいたものだ。
灰色の男たちは会議で以下のように述べる。「…モモは完全にひとりきりになってしまいます。そうなったら彼女にいかに時間があろうと、なんになるでしょう。そんなものはもてあます、いや、のろって捨てたくさえなるでしょう!…」
なんとも、今の状況と照らし合わせると身につまされる。いかにたくさんの時間があろうとも、他者と共有できなければ、また自分のなかの時間が縮まっていては、それは持て余すものでしかなくなってしまう。
大人になって読んでみても、深い寓意性と示唆に富んだ本だと思う。むしろ、子どもの頃には理解できていなかったかも。良質な児童文学は大人が読んでもすばらしいものであることを実証する1冊。 -
ぼくの課題図書、ようやく読み終えた。当時のドイツの環境や子供たちに対する考え方など、たくさん考慮しながら読むととても深いし、いまの日本の子供たちにもたくさんのメッセージにつながる。
それを話すためには、まずおまえの中でことばが熟さなくてはいけないからだ。
この日から、ジンはじぶんじしんにたいする尊敬をすっかりなくしてしまいました。
円形劇場あとに帰って寝る?いま、じぶんにも友だちにもすべての望みが消えうせたいま、そんなことができるでしょうか?モモにはよくわかっていました。もうむかしのようには二度となれない、もう二度と・・・・・。 やっと少しずつ自分を取り戻してきて、わずか2週間ぐらいから、自分が自分でなくなっているのがわかる。君はちゃんと答えてくれているのに、なに一つ見ようとしていない。しかも、それについても、もう一度見てほしいとメッセージをくれている。なぜ、あんな風な見方をしてしまったんだろうと、自分を責める毎日。ただごめんなさいと思う。失った時間はもう戻せない。ごめんなさい。ぼくがわるい。
時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語。勧善懲悪ものというより、そのなかでどう生きるかが描かれている。カシオペアとのやり取りがとてもいい味を加えている。児童文学の傑作だと思う。 -
最近読んだ河合隼雄氏の「幸福論」で言及されていたので、懐かしくなって40数年ぶりに!再読した。物語として面白いだけでなく、時間に対する考察が深く、色々と考えさせられる。
エンデに「タイムパフォーマンスについてどう思いますか?」と聞いたらどんな回答が返ってくるだろう?
自分なりに答えられるようにしておきたい。 -
娘と少しずつ読んだ。
振り子が近づくとともに花が咲き、離れるとともに散る。この、モモが自分の心の奥にある「時間の花」を目撃する場面がもうすばらしかった。
世界の中に多くの人や物が存在しているのではなく、各人がそれぞれに壮大な宇宙を抱えている。その生の豊饒さが、余すところなく伝わってきた。 -
古典となった物語。いつの時代になっても変わらないものを教えてくれます。
モモという主人公がとても不思議です。あまり多くのセリフを語りません。しかし彼女には誰もが心を開いて自分のこと、自分の好きなことを話します。それを全部ふむふむと聞いてくれるモモ、自分もそんな親しみをいつの間にか抱いていました。
そして突然現れる、灰色の男たち。時間泥棒。とても不吉な雰囲気のある敵でしたが、正体が分かればなんとも哀れな存在。でもきっとこうやって生きている人間もいるはず。時間を盗んだ方も盗まれた方も幸せにならない。そのことが印象的でした。
一方でゆったりと鮮やかでカラフルなモモの時間。
音楽とお話と詩に満たされた時間は計測できない時間でしょう。人々が「時間あたりの生産性」なんてものに追われず、仕事に愛情をこめる。そんな世界。
忙しい、時間がない、そんな世界は灰色。どんなに灰色の時間をたくさん持っていても、大切なものを失うばかりです。
詩と音楽にあふれ、光のなかでカラフルに生きたい。そんな気持ちにしてくれました。 -
ファンタジーに織り込まれた鋭い風刺。
この作品が約50年前に書かれたのは驚きです。
もっと、いろいろ、思いやることが大切なんだろうなあと思わせてくれた。自分はまちがいなく灰色の男たちの一味になってしまうだろうな。 -
主題も、描写も、たくさん素敵なところはあるけれど、私は湖の真ん中に咲く花の描写が忘れられない。
湖の真ん中に、今までに一度も見たことがないほど美しい花が咲いている。
見とれていると、すぐにその花は枯れてしまう。
しかし、次の瞬間、さっきよりももっと美しい花が水の中から生まれる。
またその花は枯れてしまう。
そして再び、さっきの花よりもその前の花よりも美しい花が現れる。
それがいつまでも繰り返される。
この部分を初めて読んだとき、幼いながらに怖かった。無限に触れた気がした。無限なんてありえない。なのに、目の前にこうして見せられて、薄ら寒くなった。
ところで、この花は恋愛に似ている。以前好きだった人よりも、もっと好きな人が現れる。そしてまた恋をする。短い人生の中での無限。それは絶望であり、希望でもある。
そんな風に読み換えてみて、少し悲しくなった。そのままで十分美しいものを、自分の人生という有限な枠の中に閉じ込めることで、ばらばらに壊してしまったような気がした。
恋愛にたとえることで、この無限をどれほど理解できただろう?初めてモモを読んでから今この瞬間まで生きてきて、その無限にどれほど近付けただろう?
無限とは、恐れおののきながらも遠くから見とれるしかないもの。理解することはできないかもしれない。だけど、感じることはできる。感じさせることはできる。エンデのように。言葉には、無限さえも表現できる力がある。
今までに一度も見たことがないほど魅力的な表現。繰り返される無限。それを探して、今日も本を読んでいます。 -
時間が経てば経つほど、ひとびとには「モモ」が必要な気がしてくる。
名言集やあらすじ、エッセンスではなくて、「モモ」を読み切る時間やモモを知って眺めることが必要なのだと思う。
今、「モモ」に没頭できる余裕のある人がどれほどいるだろうか?
生活上の余裕のなさだけでなく、「モモ」を読む落ち着きや集中力、読解力のある人が減っている気がしてならない。