アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 (講談社現代新書) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 非常に丹念に描かれ、考察も俯瞰的である。しかし、カタカナが多く、言葉の定義を正確にしないと知らないまに迷子になってしまうような感じとなる。
    「リベラルデモクラシーの衰退」はなぜ起こったのか?リベラルとは何か?デモクラシーとは何か?そして、リベラルとデモクラシーはなぜ接合したのか?ということを縷々と紡ぐ。大変な労作だと思う。
    コロナ・パンディミックによって、これまでの日常が喪失する。街から人が消え、飲食店の灯りが消え、自宅に引きこもる。今の時代の内包していたものが露出して、社会の抱える弱点を白日の元に晒す。国家の政府は、災害に対する備え、ハザードマップの整備や、危険な地域の土地利用規制、安全な住まい方への誘導による被害に遭いにくい地域づくりが求められるが、地球温暖化で激化する災害対策の不備が目立つ。そして、医療や公衆衛生と統治能力を統合させ人々の健康と安全を守ることであるが、その対応はあまりにもお粗末な状況が日本のみならずアメリカや先進国で起こっている。統治能力の低下が明らかであるが、一方で非民主主義的な国家である中国が、IT&AIを駆使して徹底的に抑圧に成功している。台湾がコロナ制圧に成功しているのは、重要でもある。なぜ、こんなことが起こっているのかを、リベラルデモクラシーの側面から分析を試みようとする。
    第1次世界大戦で広まったスペイン風邪は、戦死者以上の犠牲者を出した。それによって、ファシズムとコミュニズムの台頭が始まった。ナチズム・ファシズム・天皇イズムの連携が、自由主義勢力によって敗れ去った。戦後の復興は、リベラル(自由と平等の権利)デモクラシーが、急速な経済成長によって育まれることになる。所得の向上による中間層の増大が始まり、保守と革新(左派)の対立軸をつくることになる。
    著者は、1975年生まれなのに、1968からはじまる学生運動が大きな起点となり、自由と自己決定が分岐点になったという分析をしているのが面白い。
    1970年代、高度経済成長が失速し始め、そこから格差の拡大が始まる。1990年代は、バブルが崩壊し、グローバル化と産業構造の変化が始まる。産業の空洞化が始まり、低賃金で働く不安定な立場の労働者が増大する。①労働組合の衰退→社会民主主義の衰退につながる。②移民の増加による、多文化社会ではなく、多分化社会が生まれ、ヘイトクラムや個人的テロが頻発する。③宗教の権威の失墜が起こり、宗教が人間を操作していたのが、個人が宗教を自分のために利用し、テロに走る。
    そのような背景のもとにポピュリズムとしてのトランプの登場。一般大衆の利益と権利を守るポーズと分断攻撃。本来はエリート層を叩くのであるが、増加する移民を叩き、メキシコの壁を作るといい、貿易赤字と職を奪われたと言って中国を叩く。アメリカーファースト主義と孤立した保護主義が急速に進められる。「怒りと憎悪」で政治が組み立てられ、大統領がフェイクニュースの震源地になり、エッセンシャルワーカーがそれに共感し、強力な指導者を期待し、フェイクを信じたいがゆえに凶暴化していく。ポスト真実なる信じたいものしか見ないというネット社会の普及によって、不満が結びついていく。警察官による黒人を捕捉して死に至らしめることで、Black is matter運動が盛り上がり、それに乗じた強奪が行われ、「法と秩序」が掲げられる。その多分化社会の衝突が様々なところで起こっていく。
    そこには政治への不信、政治システムが応えられない状況での民意の反映させることの期待の高まり。結局は、今までの階層や階級、宗教などが崩壊して、アイデンティティ自体が空白化して崩壊し、解放されることで、不安定で脆弱な存在に成り下がる。また歴史認識が、公的な物語ではなく、個人的な記憶によって私的な歴史認識をすること、信じたいものしか信じないことによって、分断が急速に広がっている。価値観が、何が正しいか否かから、正しいと信じるか否かと言うことによるアイデンティティの脱物質的なものに移行している。
    保守と革新(左派)の対立軸から、リベラルと権威主義の対立軸に移行する。ロシア、中国、そしてトルコなど、非民主主義的な権威主義が強固な形で形成されていく。
    リベラルの衰退が、リベラル間で競い合うことになっていることが問題である。リベラリズムには5つのレイヤーがあり、そのレイヤーを正確に理解する必要があると著者はいう。
    ①ロックの社会契約論、イギリスの権利憲章、フランス人権宣言などの系譜にある王権や教会に対する個人の抵抗権や所有権、絶対的な権力との戦いをになってきた立憲主義のリベラリズム。
    ②商業や取引、貿易の自由を唱える、市場を中心とした自由、新自由主義の系譜の経済的リベラリズム。③個人主義を擁護し、古い習慣に対する人間的活動の闘い。個人の能力はその個人によって行使されなければならないとする個人主義的リベラリズム。④社会は、人為と人智で持ってよくすることができ、人権が守られる社会を志向する社会リベラリズム。⑤民族や宗教、ジェンダー的マイノリティの権利を擁護し、不平等や差別、貧困と闘う寛容の精神を説く、寛容リベラリズム。
    5つの立憲主義リベラリズム、経済的リベラリズム、個人主義的リベラリズム、社会的リベラリズム、寛容リベラリズムが、アイデンティティ・個人・主体の緊張関係を持ち、意識的かつ反省的に発展均衡させていくことが必要で、分断をさせない勢力になっていくことにあるという。
    カミュは、「不正義を人間社会に加えることではなく正義を尽くそうとすること、人間の痛みにではなく、その幸せに賭け、世界の嘘を増やさぬように明解な言葉で説明尽くすこと」(反抗的人間)
    現在 横行する怒りと憎悪の政治は、荒々しくなく、静かに潜行して、分断攻撃を加えている中で、統合的なリベラルデモクラシーを復興させる時なのかもしれない。それにしても、俯瞰的に リベラルデモクラシーを捉えることは、難しい作業である。読むので、精一杯というところか。
    少なくとも、私は、寛容デモクラシーでありたい。

  • 300ページに満たないボリュームながら、濃密で読み応えのある新書だった。本書が前提とする議論は2つある。1つは人間のアイデンティティは不安定で、場当たり的であるということ。もう1つは何をアイデンティティとして選ぶかどうかは集団どうしの闘争の側面を持つということである。

    第一章では現代の西側社会で基調となったリベラルデモクラシーが何故生まれたかと、それがどのように退却していったかを描いている。ざっくり要約すると、戦前の経済的リベラリズムと、それが招いた大恐慌への反省が根底に存在する。大恐慌がもたらしたのは、資本主義が社会を豊かにするという約束の不履行であった。社会に対する信頼の間隙を埋めたのが社会主義とファシズムで、対抗するために戦後の西側社会は仕方なく保守主義とリベラリズムが互いの主義を薄めることで手を組んだ。51Pの表現がよくまとまっている。

    リベラリズムと民主主義の共存は、リベラリズムの経済的側面の抑制と民主主義の革命志向を抑制することで成し遂げられた。具体的には、基幹産業の国有化や福祉国家の確立を通じて不平等を容認する資本主義をリベラリズムから切り離し、他方では法の支配や立憲主義を徹底することで、ファシズムや社会主義に代表されるデモクラシーを抑制しようとしたのである。それは二〇世紀まで資本主義によって経済を牽引してきたリベラリズムを政治的次元に囲い込み、人民主権を掲げて政治を牽引してきた社会主義を経済的次元に囲い込むという逆転の発想でもあった。(p51)

    しかし、70年代以降は先進国の成長に陰りが見え始める。そこで新たな成長のエンジンとして持て囃されたのが経済的リベラリズム≒新自由主義であった。

    第二章では現代における権威主義政治の発生源を辿っている。現代における政治の対立軸は保守-革新ではなく、権威主義-リベラルになりつつあるからだ。保革の対立軸を無力化したのは、皮肉にも経済発展がもたらした再配分で、それゆえに階級政治が無用になった。人々のアイデンティティは階級ではなく、個人と共同体のどちらに従うかという方向に引き寄せられ、結果として共同体の側が権威主義を引き寄せている。もう一つの波は左派による経済的リベラリズム囲い込みの放棄で、アメリカではクリントン政権による労働者の見捨てられ感がトランプ政権の伏線になっている。

    第三章では迂遠に見えるが歴史を扱っている。しかし、歴史こそアイデンティティを語る上で格好の題材である。ベネディクト・アンダーソンとエルネスト・ルナンの言を足し合わせ「国民国家は記憶の共同体である」と表現しているのが面白い。事実は客観的だが、解釈は主観的である。それゆえに、伝統は経済的、文化的要請から作られる。日本であれば多くの「伝統」が明治時代に天皇を中心とした国民統合を行うために作られた。このような例は世界各地にあるのだ。

    第四章では宗教とテロリズムを扱う。過激思想がイスラームの形を取っているだけで、イスラームが過激なのではない、という指摘は尤もである。過激思想に染まる人々は、社会に居場所がない。リベラルな社会が「何を信じても良い」とする以上、逆説的に宗教が力を持ってしまっているというのは皮肉である。ミシェル・ウルベックの『服従』を引き合いに「自由の拡大=幸せという賭けの失敗」をかなり強く描いているが、次の章でこれまでの主張が繋がり一気に盛り上がってくる。

    第五章はアイデンティティ政治の起点とその隘路として、ウォーラーステインのいう1968年の世界革命を扱う。1968年は世界的に「量の拡大」から「個の充足」へ軸足が移ったのが1968年であり、日本においても丸山眞男より吉本隆明が需要された時代でもあった。他にも日本では成田闘争をはじめとする新左翼運動の華やかな年であり、尊属殺重罰規定違憲判決の元となる事件の起こった年でもある。

    個の充足を求め、「個人的なことは政治的なこと」という態度を進めていった結果、社会は集団を形成しにくくなっている。問題の解決には徒党を組んでいく必要があるが、個の充足を何より重視する価値観のもとではそれができない皮肉をヒースなどの最近の著作も交えつつ描いている。

    古典から最近の本まで、幅広い分野の人文学を縦横無尽に援用しながら複雑な問題を多角的に描く労作である。それでいて専門的な部分を極力少なめにしており、2020年代を見通す新書として高く評価したい。

    気になる点といえば、本書の内容よりもこういった筆致を「反リベラルの立場に立つものではない」と言い訳しなければならない時代だろうか。多くの知識人や評者がリベラルの自浄を期待してリベラル批判を行っている。しかし本書でも言及されているが、アイデンティティを共有した集団は極化しやすい。アメリカの政治の文脈で言えば部族化した現代の政治において、こういった批判は届きにくい。それどころか、日本においては批判という言葉が断罪≒議論の拒否というイメージになって久しい。

    諦めずにもう一度階級を取り戻し、大文字の政治をやっていくしかないだろうという主張はそうだと思うのだが、解いてしまった問題の複雑さに対してあまりに無力に見えてしまう。

  • リベラル・デモクラシーがなぜ衰退したのかを考察した本。

    本書はリベラルとは何か、リベラルがいかに発展し、また、いかに衰退したかが書かれています。

    現代は社会情勢の変化やフェイクニュースの氾濫により分断された社会になっています。不安な社会を改善するには世界で今何が起こっているのかを理解することから。本書は現代社会の現状を知る手がかりになります。

  •  リベラルとは何でどうなっていくべきかを近年の政治変化から語る。

     そもそも自由と民主主義は対極の概念だった。リベラルという言葉は使われる国や時によって全く逆の意味に使われる。多様な意味を持ってしまったリベラルを時系列を追いながら現在の世界の課題と共に丁寧に説明していく。
     リベラルだけでなく、権威主義、歴史、テロリズムについても記され、それが近年の世界と日本を理解する助けになっている。

     リベラルだけでなく今の世界を知る羅針盤となる一冊。

  •  20世紀が終わる頃、冷戦が終結して専制国家は激減し、差別は悪いことだという価値観が定着し、マイノリティの権利も尊重されるようになりつつあった。それはリベラルの勝利のように見えた。しかし21世紀はテロで始まり、東西対立とは別の対立が始まった。近年ではリベラルに対する反動が強まっている。どうしてこうなったのか。世界は平和で幸福になるはずではなかったのか。

     本書はそんな疑問を解消してくれた気がする。もちろん本書に書かれていることはひとつの見方であって、他の解釈もあるだろうが、現時点では非常に説得力がある。

     個人の行動の自由を際限なく認めれば弱肉強食の世界になり、平等や公正は失われる。そのため本質的にはリベラリズムと民主主義は相性が悪いはずだったが、全体主義(ファシズムや共産主義)への対抗として両者が結びついたリベラル・デモクラシーが生まれた。この頃の国家のあり方を著者は「共同体・権力・争点」の三位一体と呼んでいる。

     しかしリベラル・デモクラシーが勝利すると、存在意義を失って三位一体は崩壊する。経済的にある程度豊かになって飢えることがなくなると、階級や組織に基づいた政治活動が個人を基礎とする運動に変わった。68年革命と呼ばれる転換が訪れ、個人の承認欲求やアイデンティティを重視した政治が求められ、自由が称揚された。

     リベラリズムは直訳すれば自由主義だ。政治的自由や経済的自由など様々な自由があり、著者は5つに分類している。しかし問題は、自由な社会は自己責任の社会でもあるという点だった。自分で選んだ結果は自分で負わなくてはならない。それは、能力や財産をたくさん持っている強者にとっては望ましい社会だが、弱者にとっては辛いのだ。それが宗教の復権や権威主義の台頭を招いたのだという。

     なるほどと思うと共に、じゃあどうしたらいいのかという諦観が湧く。おそらく当分は今のような世界が続くだろう。誰もが幸せになれる社会を作ろうとしても、そもそも幸せの条件がバラバラなのではどうしようもないだろう。納得と同時に残念さに襲われた。

  • 最高に面白かった。視界が開けた。
    世の中の深刻な課題ももやもやする出来事も、根っこでつながっている。

  • 今なぜ世界各国でニューライトやポピュリズムと呼ばれる考えが伸張しているのか、これまで広く受け入れられていたリベラリズムの勃興・衰退とともに明かしていく本。
    「リベラル」とか「リベラリズム」という言葉をよく目にするけれど、いまいち何を指しているのかよく分からない…と思っていた自分にはピッタリだった。そもそも「リベラリズム」と呼ばれるものは大きく分けて5つあり、それぞれ歴史的経緯や主義主張が異なるということを知り、非常に勉強になった。今後はニュースを見ても「このリベラリズムとはどれを指しているのか?」と考えながら理解することができる。
    政治は国内のニュースを見聞きすることが多いが、リベラリズムの興亡やニューライトの伸張など、世界の政治的な動向は自分が思っている以上に似通っていることが分かり驚きもあった。

  • 少し前の時代、リベラルという価値観が光を放ち、保守に対抗するものとして見られていて、それは現在に至っても引き続き力を持ったものとしてあるように考えられています。しかしながら、2000年に入ったあたりからでしょうか、その保守とリベラルという対立だけでは説明できない価値観が表れてきて、だんだんと力を増していることが感じられます。それは非常に複雑なものですが、本書ではそのようなアフターリベラルについて、丁寧に一つ一つ説明されています。かつての価値観で行われている政治のために歪が起こり、それによって誰が何故怒っているのか。怒っていることが理解できない状態の現在を、その理屈を知ることで解決に近づけるかもしれない。そのような著者の気持ちが感じられます。トランプ大統領の誕生や、イスラム国、イギリスのEU離脱の背景にあるものは何なのか。そしてその時代に生きる私達はどうするべきなのか。その疑問に1本の解の光を投げかけてくれます。

  • 科学主義合理主義専門主義は人々が本来持っている「承認欲求」を無視するからいつも反撃にあう28

    資本主義の「皆豊かに、幸福になる」という約束が破られて極左と極右が現れた60

    製造業の労働者は「移民に職を奪われる」と言えば「レイシスト」と非難され、「グローバル国際競争を非難」すれば「怠け者」の烙印を押されてしまう。彼らは自分たち「新たなマイノリティ」と捉えている85

    戦後先進国でほ、経済や教育が向上して「脱物質主義的価値」がどんどんあがり、選挙の争点は経済的豊かさから愛やアイデンティティーの「心の豊かさ」問題がテーマになった108

    国際政治は、安全保障や同盟関係、公益問題だったが、今はそれに「歴史認識」が加わった155

    他の共同体の記憶を抜きにして自身の共同体の記憶を語ることは不可能159

    政治は未来への期待ではなく、過去の想像によって駆動するようになった。今の国際社会は「過去同士が争う」時代167

    過去についての知識は正確であること以上に、それがポジティブなイメージであるかどうかに左右される。ツイッターのように人々にポジティブに感じられるほど「共有」され、その歴史は歴史としての意味を強化される。現在、「過去を美化するポピュリズム政治」が好まれるのはこのメカニズム175

    記憶がいかにして集合的記憶となり、歴史になったのか、そのこと自体を解明するのが大事177

    記憶に囚われてしまった歴史を、今度は歴史によって記憶を捉えて相対化する。すなわち、記憶に基づく歴史は客観ではなく、主観的なものとして認めることで、歴史認識問題は解決されうる179

    歴史についての正確な記憶は個人や集団の和解ではなく、対立へと導く。しかし、対立をもたらす記憶など歴史に値するのか。記憶ではなく忘却こそが和解の鍵となる可能性があるのではないか。記憶は、忘却に沈んでいた方が平和と和解をもたらすのではないか。byカズオイシグロ『忘れられた巨人』183

    歴史とは未来を生み出していくための「埋葬行為」だ。歴史は過去のものでも、現在のものでもなく、未来をより良くしていくためのものbyリクール『記憶の場』184

    元来、歴史記憶とは共同体に生きる人間性の尊厳を獲得するために欠かせないものであり、他人との協働や協力を可能にするための資源として機能する。その反対に、他の共同体と共有できず、他人を傷つけるような記憶は、歴史には値しないbyリクール185

    ユダヤ人を作るのは反ユダヤ主義。黒人差別が黒人を生むbyデュボイス217

    啓蒙が反啓蒙を可能にしたように、解放運動プロジェクト(リベラル世俗主義)が宗教的熱狂を復活させたbyウォルツァー230

    個人の差異化を原動力とする消費資本主義は、終わりのない「軍拡競争」
    抗議や抵抗を個人的なものとした68年革命の精神が組織的・集団的な抗議を忌避する。消費資本主義は、抵抗や抗議すらも個人に消費させるとこで、問題解決をむしろ遠ざける。解決には、それを可能とする権力とその権力を生み出す制度「政治」なければならない268

    個人の自由の次元と社会において何が正しいのかの次元は分けて議論されるべき。
    最終的に声が大きいもの、当事者性の強い議論、権力を奪ったものだけが社会的正義として大手を振る。それは結局、不平等に帰結する272

    他人を否定することで自らを肯定する「捕食性アイデンティティー」273

    人々がそれぞれに異なる自らのことだけに専念するのうになればなるほど、人々は逆に自らの欲望や欲求を他人との協働を通じてでしか満たせない
    人々が個人であればあるほど連帯を要することは、単に経済的・機能的な要請ではなく、道徳的意味合いも持つ。
    個人を成り立たせるものとして「集団」「組織」「地域」「国家」がある。このように捉えることができたとき、人は初めて自由を獲得する279

    歴史に本来備わっている「忘却」が失われ、個人や集団が記憶したいものだけ記憶する「集団的記憶」が当たり前になって、歴史は人々が共有できるものではなく、「人々を分断するもの」に作用している284

    個人は階級、宗教、地域、ジェンダーから解放されればされるほどに、不安定で脆弱な存在になっていった285

    共通の歴史や歴史的和解は「忘却」があってはじめて実現される。
    過去に遡及(そきゅう)して道徳的正しさを求めることは、非リベラルな民主政治に、「自らの記憶(歴史)こそが正しい」という言質を与える。
    国家を基礎とした社会や世界観、さらには多文化主義を認めるリベラルな政治は、他方でこうした個人を支える文化・社会資本に劣る移民二世を中心とした市民をより脆弱なものとし、宗教原理主義やラディカリズムへと追い立てる287

    「アイデンティティ」ではなく、教育や労働といった生活領域を基盤に、「共通点」を探り当てていくことが、民主的な社会を育む299

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著者プロフィール

1975年東京生まれ。東京大学総合文化研究科(国際社会科学)博士課程修了(学術博士)。
慶應義塾大学法学部卒,日本貿易振興会(ジェトロ),日本学術振興会特別研究員等を経て,現在は北海道大学法学研究科/公共政策大学院准教授(ヨーロッパ政治史)。
主要業績:「フランス:避けがたい国家?」小川有美・岩崎正洋編『アクセス地域研究Ⅱ』日本経済評論社,2004年;「フランス政党政治の『ヨーロッパ化』」『国際関係論研究』第20号,2004年;「『選択操作的リーダーシップ』の系譜」日本比較政治学会年報『リーダーシップの比較政治学』第10号,2008年;「フランス・ミッテラン社会党政権の成立:政策革新の再配置」高橋進・安井宏樹編『政権交代と民主主義』東京大学出版会,2008年;伊藤光利編『政治的エグゼクティヴの比較研究』早稲田大学出版部,2008年など。

「2008年 『ミッテラン社会党の転換』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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