芥川賞全集 第7巻 されどわれらが日々,玩具,北の河,夏の流れ,カクテル・パーティー 他

  • 文藝春秋 (1982年8月17日発売)
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感想 : 5

1964〜1967年の芥川賞受賞作が収められたもの。この巻は全体的に小粒な印象だけど、時代性に触れるという意味ではこういう形の読書も良い。いつも思うんですが、わたしはやっぱり、文学全集があるようなおうちに生まれたかった。しょうがないことだけど、こういう全集があるのとないのじゃずいぶんちがうと思う。


▼柴田翔「されど、われらが日々——」(1964年)

六全協が題材となっている。文学を通して時代を知る、とはこのこと。いつの時代も大学生の脆い、取ってつけた自我は翻弄されるし、それに気づいて苦悩する知性というものがある。空虚さを抱えて、時代と人生の困難の重なりを最も強く意識する時期なのだと。でもやっぱり、たとえ挫折したとしても理想を持ったことがあるのとないのでは全然違うとおもうし、わたしは彼らがとてもうらやましい。あと、女性の描き方に現代と近代の相克を感じたっつか時代性を感じたなあ。
作風は非常に正統派の日本文学だな、と感じた。それが好ましくもあり、逆に独自性が感じられないところが現代において柴田翔の名を口にする人が少ない由縁かもしれない。
心に響いたのは、死に近しくものを考え、生活の空虚から目を背けることをやめるその生に対して真摯な姿勢。


▼津村節子「玩具」(1965年)

妊娠小説。女のひとでなければ書けないものが書き込まれているけれど、どうしようもなくひとを隔てていく性というものを描いたものならば、わたしは小川洋子の「妊娠カレンダー」や川上未映子の「乳と卵」の方が突き詰めて書かれていると思う。この小説は、突き詰めた感じがあんまりしない。あと現代女流文学の幻想性、個性に慣れた身からするとあまりに無個性に感じてしまった。なんにせよ、性を描くと気持ち悪さ、不快さを含めずにはいられないということには普遍性があるんだなあ、と。


▼高井有一「北の河」(1965年)

「内向の世代」、高井有一。なんか、この頃ってやっぱりまだ圧倒的に「戦後」という時代であったんだな、たとえ高度成長期であったとしても戦争の痛みが非常に近しいところにあったのかなあ、と。すべてを夢見る力が失われてしまった、という主人公の実感、現実感覚の欠如は、性質としては非常に現在と近しいけれど成り立ちがまったく違う。でも、変容していく母とか無力感とか虚無とか、そういうのはやっぱり刺さる。


▼丸山健二「夏の流れ」(1966年)

もうなんていうか気分悪い。こわい。死刑執行人の物語。目を背けたくなるような人間の暗い部分を描いている。つらい。


▼大城立裕「カクテル・パーティー」(1967年)

沖縄と、日本と、アメリカと、中国と。ちょっとでも踏み外したら一気に何もかも崩れ落ちてしまうような、緊張感を孕んだ関係が、ある事件をきっかけに問題を顕在化させていく。沖縄初の芥川賞作家だそうです。選評で、政治的含意による受賞ではない、みたいなことを皆もそもそと言っているのがまたね。文学というよりも政治的問題を小説という手段を使って訴えているように感じましたが、戦後沖縄の状況を勉強出来たという意味ではとても良かった。


▼柏原兵三「徳山道助の帰郷」(1967年)

これはもう昭和感溢れる短編。日露戦争が初陣で支那事変で第一線を退いた軍人の生涯と思想の変遷を辿る。ああ、あの時代の兵隊さんはこういう考えをしていたんだなあ、といった感じ。最後に一気に主題が明らかになるところはうまいなあ、と思ったけれど、わたしは語られていない部分がとても気になってしまった。奥さんが本当は何を考えていたのかとか、主人公は敗戦、天皇人間宣言、乃木将軍の死に際して何を思ったのか、娘と孫と兄弟も、書き込みが不足しているようにおもえる。戦争文学というのはとても難しいけれど、その分きちんと書いてほしいと思うし、書くべきではないのか。ああでもやっぱり、大きな物語の消滅(というかその幻想性の発露)によってひとりの人間がいかに崩壊していくかを描いているという点において、恐ろしい、凄まじいものがあり、個人というものは結局のところ時代性から逃れられない、歴史に翻弄される弱いものだという感があり、こわい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2013年6月16日
読了日 : 2013年6月17日
本棚登録日 : 2013年6月15日

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