鏡像にいつはりなきや吾の奥の永久(とは)に触れよとかひなを伸ばす
帯文:眉村卓 〈読みだしてすぐ、眩しい作品集だなと思った。作者の保持する外界世界が、まことに多彩で明るいのである。そしてその輝きが、実は作者の貪欲な生への希求の反映であり、読む者にも共有可能なのだと悟るまで、時間はかからなかった。〉
私の本ですm(__)m
2021年12月2日
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バルザックと19世紀パリの食卓
- アンカ・ミュルシュタイン
- 白水社 / 2013年1月23日発売
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バルザックの『人間喜劇』の登場人物は2000人以上といわれている。
バルザックは十九世紀に生きているありとあらゆる人々を描き出そうとしているわけだ。バルザックが生み出した人々はバルザックの小説のなかで、それぞれの生活を営んでおり、それは当時、フランスで生きていた人々のほとんどに当てはまる環境や境遇であったといえなくもない。
バルザックの小説はロマン・フィュトンで発表されていたが、市井の人は、食事をとりながら新聞を読み、そこに描かれている世界を楽しんだのだ。
バルザックは糖尿病であったといわれている。それはとにかく大食いであったという逸話からきているものだが、晩年の失明からも推察されるものである。
また、バルザックはコーヒーをガブ飲みしながら執筆をしたということも有名である。
暴飲暴食であるバルザックは、実は、執筆中は食事をほとんど摂らず、コーヒーを何杯も呷るように飲みながら長時間書き続けた。消化に伴う疲労が脳に影響しないように仕事をしている間には食を断ったらしい。
脱稿すると豪胆に食べ、ワインを飲んだ。
つまり、登場人物が食べている時はバルザックは食べず、彼が食べている時には、登場人物は誰も食べることがない。
これは思えば、とても面白い事実である。
バルザックは大食漢であっても繊細な美食家では決してない。登場人物にどのように食事や料理をさせるか、誰とワインを飲ませるか、どこのレストランにどのような身のこなしで送り込むか。書いていくと際限がないが、このようにバルザックは食を利用する。
著者は19世紀のパリの食生活には変化を鋭敏にとらえ、小説世界に取り入れていったバルザックに着目し、食の観点からバルザックの小説世界を検証していく。
食は人のもっとも基本的な柱となるものである。本書はバルザックの小説から19世紀の食卓を垣間見つつ、お馴染みの登場人物たちにも会える楽しい書物となっている。
2021年12月2日
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作家の家: 創作の現場を訪ねて
- フランチェスカプレモリ=ドルーレ
- 西村書店 / 2009年2月1日発売
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ヴォーグ誌などの編集長を勤めたF.プレモリ=ドルーレとカメラマンのエリカ・レオナードが作家21人の家を訪ね、作家たちの生涯や作品の紹介を美しい写真とともにおさめた大判の優美な一冊。
プロローグはマルグリット・デュラスから。光を浴びて無秩序に大きくなっている折鶴ランが窓に置かれた部屋には、中板がたゆんでしまった書棚と主がいなくなったガラスのランプがあり、くすんだ金色の額縁のなかの絵は紙が湿気て変色している。
マルグリットが引きこもって作品を書いた家。外へ出ると池があり、水を求めるように木々が水面に枝垂れている。あまりにも西洋的でインドシアの面影はまったくない。
ジャン・コクトーが晩年を過ごしたミリー=ラ=フォレの家。この家はパリから50kmほどのところにあり、現在もコクトーの家として保存され公開されている。
ラボンド城という城の一部らしく佇まいも落ち着いた風情がある。
町にはコクトーがステンドグラスと壁画を制作したサン=ブレーズ=デ=サンプル礼拝堂がある。
ピエール・ロティ(ロチと表記されることもある)は海軍士官として世界各地を回り、来日し日本に二度滞在したこともある。日本ではあまり有名ではないが芥川などはロティについて書いている。若くしてアカデミー・フランセーズの会員にも選出され、個性的な人物であったが、故郷のフランス南西部のロシュフォールの自宅にグローバルで国際色豊かな部屋をいくつか作った。自宅は一般公開され、トルコ風の部屋やルネサンス様式の部屋などが予約すれば見られるという。
内部も外部も凝った邸宅の多いなかでアルベルト・モラヴィアの家はとてもシンプル。
あるのは机と窓から見える海だけ。伴侶となる女性は変わっていったが海の青さは変わらなかった。
降り注ぐ光の中でモラヴィアは朝から執筆に勤しんだという。
ほかに、イェーツの塔の家、ヘルマン・ヘッセの城、マークトゥーエンの温室のある家、ユルスナールが女性伴侶とともに暮らした終の住処など、作家たちの愛した庭や風景や愛用の家具や小物も溢れる贅沢な一冊です。
2021年12月2日
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解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)
- ウェンディ・ムーア
- 河出書房新社 / 2013年8月6日発売
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ジョン・ハンターは、1728年にイギリスの田舎町に生まれた。
10人兄弟の末子で、村の学校を13歳で中退し、家の農場の手伝いや大工をやり、20歳の時、兄のウィリアムを頼って、喧騒と混乱に満ちたイギリスの首都ロンドンにハンターは出てくる。
兄のウィリアムは、すでに医学の道で身を立てており、研究目的の遺体を十分に調達できるよう法整備されていたライデン(レンブラントの生地)やパリで教育を受け、ロンドンで解剖教室を開こうとしていた。
兄の元に落ち着いたハンターは、兄が驚くほどの器用さをもち、好奇心探究心旺盛の誰よりも解剖学者の素養がある青年だった。
兄の教室の講義に使う標本を準備し、メスをふるい、標本を作り、兄の講義に耳を傾け、夜は死体の調達に精を出す。
そういう毎日を送りながらどんどんジョン・ハンターは解剖の世界にのめりこんでいく。
並外れた情熱と科学的好奇心によって、人間のみならず、動物までも彼のメスによって切り開かれ、縫い合わされ、埋め込まれ、取り出され、標本にされた。
ロンドンに来てからのジョン・ハンターの人生の慌しさは、本書にぎっしり描かれた逸話で証明される。
本書は、ジョン・ハンターの医者としての仕事のみならず、彼を解剖台にのせて開いてしまったような、人柄から人間関係、当時の都市状景までも余すところなく描き出している。
ジョン・ハンターは、『ドルトル先生』のモデルともいわれ、自宅は『ジギル博士とハイド氏』の家のモデルとなった。
愛弟子には天然痘のワクチンを実用化したジェンナーらがおり、ダーウィンにも少なからず影響を与えたといわれているジョン・ハンターは、狭心症の発作を繰り返しこの世を去った。
どんなに先をいっていたジョン・ハンターでも、冠状動脈の狭窄を治療することはできなかったようだ。
2005年にロンドンに王立外科医師会のハンテリアン博物館が修復を終えてリニュアルオープンした。
ここで本書にも登場する貴重なジョン・ハンターの標本コレクションに会えるらしい。
2021年12月2日
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すべては遠い幻 (ハヤカワ・ノヴェルズ)
- ジョディ・ピコー
- 早川書房 / 2007年7月25日発売
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離婚が増え、それに対する裁判や話し合いで夫婦に子どもがいた場合は、親権が決められる。
親権を認められなかった片方の親は、週末だけ子どもと会うとか、何ヶ月かに一度何日か子どもと過ごすなど、条件が決められる。
それが守られているのかどうかは、わからないが、この『すべては遠い幻』という作品は、少なくとも、古代や中世には生まれ得なかった小説である。
32歳のディーリアは娘のソフィーと父と暮らしていた。
ある日、突然、同居している実父が逮捕される。容疑は幼児誘拐だという。
それもその幼児誘拐は28年前に行われたもので、誘拐されたのは4歳だったディーリア自身だというのだ。
母は亡くなったと聞かされ、父に育てられたディーリアだったが、実は、母は死んだのではなく生きていて誘拐された一人娘のディーリアの行方を捜していた。
ディーリアの両親は離婚し、親権は母親が獲得した。
週末、決められたように離婚した父親と共に過ごしていたディーリアは、父親にそのまま連れ去られ、死んだ別人の名で今まで生きてきたのだった。
なぜ、父はディーリアを連れ去ったのか。
裁判を通して、徐々に明らかにされていく真実。
現代の家族は多くの問題を抱えてることが多いと思う。さりとて、昔の家族だって多くの問題はあった。
でも、違う点は、豊かになり、自由になった社会で生まれる現代これからも増えていくであろう事柄や家族の形象をこの小説はつきつける。
2021年12月1日
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世界でいちばん面白い英米文学講義―巨匠たちの知られざる人生
- エリオット・エンゲル
- 草思社 / 2006年9月23日発売
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エリオット・エンゲルは、ノースカロライナ州立大学やデューク大学で教鞭を執る。
本書の原題は、『A Dab of Dickens & A Touch of Twain』
邦題とは、えらい違いだが、訳者が、感じた思いがそのままつけられ、それはたぶん成功しているようだ。
なるほど興味をそそられた。
英語圏の有名作家13人(チョーサー、シェイクスピア、ディケンズ、ワイルド、ヘミングウェイなど)の人生と作品を面白く講義してくれている。
エリオット・エンゲルがブンガク好きな人たちに行った講義をテープ起こしし、翻訳しているので、語り口も生かされている。
訳者の藤岡啓介さんは、自分がこの原書を読んで面白く、それを吹聴してるうち自分が翻訳してみたくなったと、訳者あとがきに書いているが、
このご自分の感じた面白さがそのまま伝わる。
学術的な専門書ではないが、作家たちの意外な一面も面白おかしく語られ楽しく自然に引き込まれていく。
気軽で楽しい笑いのある英米文学講義でした。
2021年12月1日
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筑摩世界文学大系 28 バルザック 1
- バルザック
- 筑摩書房 / 1972年1月1日発売
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サン=ジェルマン=デ=プレ入門
- ボリス・ヴィアン
- リブロポート / 1995年11月1日発売
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ボリス・ヴィアンが、1947年頃から急に知的世界、もしくはただ単に大衆的な人気の中心となったパリのこの地区におけるすべての出来事を細大漏らさず取り上げる意図をもって、1949年から50年にかけて執筆した書物である。
サン=ジェルマン=デ=プレとは、フランス、パリの左岸に位置し、当時、サルトルやボーヴォワール、レイモン・クノー、アンドレ・ブルトン、コクトーなど多数の文化人や画家たちが集った地区であり、ドゥ・マゴやフロールなど有名文学カフェは、現在でも知的文化人たちや芸術家たちが集う。
ヴィアンが、「とりわけ面白い時代に巻き込まれた」と語る第二次世界大戦後そのままのサン=ジェルマン=デ=プレがそのまま切り取られたようにこの一冊におさめられている。
当時、サン=ジェルマン=デ=プレに集った約500人の人々や町を多くの写真と図版で彩っている本書は、この時代を愛する人たちにはたまらない書物だろう。
本書は、依頼した出版社の倒産で、刊行が大幅に遅れ、ボリス・ヴィアンの死後15年の時を経て出版された。
日本語版はさらに遅れ1995年にリブロポート社から一度出版されている。
今回、読んだのは版元も変え装いも新たになった2005年発刊の文遊社のものである。
ヴィアンが、当時充実した日々をすごしたサン=ジェルマン=デ=プレ界隈には、数え切れないほどの多才な人物たちが左岸の風に巻かれていたが、ドイツ占領からの解放後の戦後、パリは、時代としても開放的で市民の士気の高揚がみられ、また国内外から多くの若者たちがこの地に集まり、多岐にわたる芸術の分野に彼らの創造した新しい風を吹かせていった。
私は、生まれるのが遅く、このすばらしき時代を知らず、ボリス・ヴィアンの死さえも、知らない。悲しいことにゼネレーションとして完全にずれている。
「サルトルとボーヴォワールが 時代の寵児だった頃の空気を知っています」
と仰る、ある方の言葉がどれほど羨ましく響いたことか。
---もしもサン=ジェルマン=デ=プレが変ったように見えても心配はご無用
昔の良さは変らない
よそ者を笑顏で迎える気さくな人たちでいっぱいの愛すべき小さな村
何でも簡単 限りなく平穏
だから心地いいのさ 日々の暮らしが
サン=ジェルマン=デ=プレでは ボリス・ヴィアン<文中より>---
2021年12月1日
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ほとんど記憶のない女 (白水Uブックス)
- リディア・デイヴィス
- 白水社 / 2011年1月22日発売
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暫く前から、マグリットの≪マック・セネットの想い出に≫が表紙になっているこの本が気になっていた。
51篇の短編が詰め込まれているこの本の最初の物語の冒頭はこうだ。
---十二人の女が住む街に、十三人目の女がいた。---『十三人めの女』より
この不可思議な矛盾はルネ・マグリットが何枚も描いた≪光の帝国≫にみられる 昼間の晴天の真下の夜と似ている。
51篇の作品の中には、30ページ近くの長いものからたったニ行のものもある。
寓話的なものやマグリットのような一見自然にみえるがよく読むと矛盾を孕んでいるというような文章や順番をふられたもの同じ名詞や動詞を多用するもの さまざまなパターンの散文が散りばめられている。
作者のリディア・デイヴィスは1947年生まれのアメリカ人。
大学卒業後はアイルランドやフランスで暮らし、現在はニューヨークで教鞭をとっている。
プルーストの『失われた時を求めて』の第一巻の『スワン家の方へ』の英訳は高い評価を受けたらしい。
本国では彼女の本は5冊出版されているが、日本でははじめての刊行となる。
2021年12月1日
ベルギーの田舍。
知恵遅れのヤニーと異父姉のアナ。ふたりの姉弟の母親といつからか住み着いたペートルという男。
風景はきわめて牧歌的であるが、一家は村から孤立気味であり、ひとりひとりがなにかしらの事情を抱えている。
母親とペートルは、沈黙のなかで育った憎悪の感情を詰め込み、アナは身ごもったまま男に捨てられ、ヤニーは村の人たちに馬鹿にされる。
そこに現われたアメリカ駐留兵士ふたり。
かも猟に出かけた男たちの身に起こる悲劇とは。
この小説は、澁澤龍彦が東大の学生であった頃、小牧近江さんに本書の翻訳を勧められ、のちに小牧さんとの共訳として出版された。
澁澤にとっては若い頃に訳した思い出深い作品のひとつであろうが、本書は澁澤が亡くなる1月前、いや、たぶん、数週間前にあとがきを書いて、死後、王国社から刊行された書物である。
そもそも、本小説は、ユゴー・クラウスの19歳のときの作品であり、原作はフラマン語で書かれた。
それがフランス語に翻訳され、澁澤が和訳している。
自分とほとんど同年齢の若い作者の作品をフランス語を介して澁澤が訳したということだが、そのときの訳に最晩年を迎えている澁澤自身が改めて筆を入れたかどうかは書かれていない。
ベルギーの若い作家が描いたとは思えないような人間の深みに迫る秀作である。そしてもちろん、澁澤龍彦の名訳も光る。
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11分間 (角川文庫)
- パウロ・コエーリョ
- 角川書店 / 2006年1月25日発売
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題名の『11分間』の意味は?
この小説の主人公は、ブラジルの若い女の子。
ひょんなきっかけからスイスに渡り、売春婦になる。
1年だけ。1年だけと決めて彼女は売春婦を続けるうち恋をしてしまう。
その恋の結末はイコール小説の結末なので書くのを控えるが、『11分間』というタイトルの意味は書こう。
その売春婦をしている彼女は言う。
一晩の彼女の相場は350スイスフラン。
いや、一晩は正しくない。一人のお客で350スイスフラン。
一晩というのは大袈裟だ。実際は45分で350スイスフラン。
服を脱いだり、親しげなそぶりをしてみせたり、他愛もないことを話したり、また服を着たりする時間を差し引けば正味の時間は11分くらい。11分で350スイスフラン。
11分。世界は、わずか11分しか、かからない出来事を中心として、そのまわりをぐるぐる回っているのだ(文中より引用)
この本の主題 それは、まさにセックスと愛なのだが、娼婦のような職業が彼女のような生温い態度で勤まるのかどうか疑問だし、簡単に足を洗える環境と本人の強い意志があるのかどうかもわからない。
けれど、コエーリョは、主人公を理知的な向学心のある女性として描こうとしているし、彼女は特殊な売春婦だったのかもしれない。
11分というのは、個人差があり、性差によっても意見は異なるのかもしれないが、
「11分の出来事を中心として世界は回っている」と書ききるコエーリョは潔い。
売春婦という職業は人の最古の職業のひとつとされている。
このブラジル娘は就業期間が短く高級娼館で働いているので、職業的悲壮感はあまり伝わってこない。
そのあたりコエーリョのペンの力なのだが、
この小説は、主人公の日記と挿入された文章によって構成され、その文章の方が日記のように感じるのはなぜだろう。
どちらにしても『11分間』という斬新な発想がこの小説の主題を貫いていることには間違いなく、愛の実在感は俗なるものを聖なる手触りに変化させる必然性をコエーリョは描きたかったのか。
2021年12月1日
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あら皮 〔欲望の哲学〕 (バルザック「人間喜劇」セレクション(全13巻・別巻二) 10)
- バルザック
- 藤原書店 / 2000年3月30日発売
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パリ職業づくし 改訂新版: 中世~近代の庶民生活誌
- F.クライン=ルブール
- 論創社 / 2015年12月3日発売
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バルザックの<人間喜劇>はもちろん、エミール・ゾラの<ルーゴン・マッカール双書>などにも多種多様な職業の人達が登場する。
たとえば<ルーゴン・マッカール双書>の第7巻『居酒屋』の主人公のジェルヴェーズは、亭主にも逃げられ、ふたりの子をかかえて困窮した生活とたたかいながら懸命に生きていこうとする。
彼女は、洗濯女として日々頑張って働き、自分の店を持つというと夢を持っていた。
そんな彼女の日常に職人の男が現れる。真面目な仕事振りのその男とジェルヴェーズは再婚する。
小金も貯まって念願の洗濯屋をオープンさせた彼女の人生はやっと順風満帆なものになるように思われたが、
再婚相手は足に怪我をしてから仕事をしなくなり、数年前に出て行った亭主が転がり込んだり、羨望の眼差しを送っていた世間はたちまち冷たくなって繁盛していた洗濯屋は、アッという間に傾いていく。店も手放さなくならなかったジェルヴェーズは、酒びたりになって死んでしまう。
ジェルヴェーズと再婚相手との間に生まれたのがナナで娼婦になり、このあたりは第9巻の『ナナ』に詳しいが、話を元に戻して、ジェルヴェーズの洗濯稼業は、現代のクリーニング屋に通じると予想されても労働の中身は時代を反映している。
機械化が進んでいないジェルヴェーズの時代の洗濯稼業は、重い肉体労働であり、それでも自立しようと懸命な女の生き様が詳細に描かれている。
古今東西、どの国でも多くの職業があり歩みがある。
本書は、チェコ出身でフランスで多彩な文芸活動を行ったポール・ロレンツが監修した中世から近代までのパリの消滅もしくは衰退していった職業をまとめている。
パリに限らず時代変化によってさまざまな職業が生まれ、先駆的であったはずの職業が消滅していく。
日本でも昔はあったよね という職業もたくさん載っている。
行商人、紙芝居屋、手作りおもちや屋、煙突掃除、糸紡ぎ女、乳母など懐かしそうな職業もずらりと並ぶが、パリ(またはヨーロッパ)特有の職業もある。
一番面白かったのが、「ツケボクロ師」という職業で、黒い黒子は、肌の白さを引き立たせるという理由で16世紀末大ブレイク。ツケボクロ・ブームはヴェネツィアにはじまったらしいが、ヨーロッパ中に広がり18世紀まで続いたという。
日本にもお歯黒なんていうのがあったが、このツケボクロ・ブームは聖職者にまで及んだという。
黒子も単なる黒子ぽいものだけではなく、星形、ハート形、人物柄などさまざまな色や形のホクロがつけられたとか。
ほか、写本師、蜜蝋燭師、鎖帷子&兜職人、薬草師、錬金術師、抜歯屋、泣き女、移動便器屋・・・
王樣のおまる係と棉係なんていうのもある。
先日、『トイレの文化史』という大矢タカヤスさん訳のパリのトイレの歴史の本を読みましたが、フランスという国は、トイレに関してひどく遅れていた様子がよくわかりました。
ヴェルサイユ宮殿は、世界屈指の豪奢な宮殿ですが、トイレは造られていませんでした。
お金持ちの貴族は綺麗な城が汚物でいっぱいになり住めなくなると自分のほかの領地の城にうつったといいます。
そういうお国事情なので、「王樣のおまる係と棉係」は当時必須の職業で、この特権的職業に就くのは当然のごとく貴族。
穴あき椅子を用意し片付ける係りと用を足したあとにワタを差し出す係りの二人一組が事に当たったという。
ルイ16世治下からは大枚をはたいてこのポストを手に入れた平民がこの任務に就いたらしい。
バルザックの小説を読んでいると、聞き慣れない職業が時に登場する。昔のパリの職業がよくわかる本があったら読みたいと思っていたので時代を満喫しつつ随分楽しみながら読んだ。
2021年12月1日
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もののはずみ (小学館文庫 ほ 8-1)
- 堀江敏幸
- 小学館 / 2015年6月5日発売
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はたから見ればただのがらくたに過ぎない中途半端な物たちに惹かれる著者が、主にフランスで出会った物たちについてペンを走らせた好エッセイ。
スライド映写機、珈琲ミル、陶製のペンギン、木製のトランク、ドアノブ、キッチンスケール、木靴、ビー玉etc.
年代物の高価な骨董品ではなく、20年から100年くらい前の使われなくなったものたちである。
「物心」という言葉があり著者はそれに心思いを馳せる。
もののはずみで買ってしまったものたちは、著者と心を通わせ世界を広げるための力となっていく。
堀江敏幸さんの文章は、小説にしてもエッセイにしても独特の静けさを持っていて大好きだ。
芥川賞作家であり、明大教授の堀江さんは毎日多忙な生活を送ってらっしゃると思うのに、彼の描く世界はまるで時がゆっくりと再生しているようで、その静謐の中に贅沢な空間を見出す。
劇的主題を持つわけでもなく、強烈な光を放散するでもなく、レトリックに凝るわけでもない。
静かに時を流し、静かに独創的な世界を作り上げる。
その白き静けさに堀江さんの文章を読んでいるとゆっくりと満たされていくのだ。
2021年12月1日
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バルザック全集 第3巻
- バルザック
- 東京創元社 / 1973年1月1日発売
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『不老長寿の霊薬』1830年・・・哲学的研究
本書の主人公は、ドン・ジュアン。
ドン・ジュアンといえば、スペインの伝説の放蕩貴族で、モリエールをはじめ、トルストイ、アポリネール、トルストイなどのほか、モーツアルトの歌劇では、ドン・ジョバンニとして登場し、女たらしの異名を持つ憎めない男である。
バルザックはこのドン・ジュアンをイタリアに邸を持つ貴族として登場させる。
あるとき、父親が死の床にあるというのに、ドン・ジュアンは遊び女をはべらせ豪勢な宴を催していた。
いよいよ、父親の死が間近に迫り、最期の時を迎えようとしたとき、人生の享楽を貪り過ぎる息子を枕元に呼び、水晶の小瓶に入った水を自分が死んだらすぐ遺体に塗るように頼んだ。
その瓶の水を塗ると生き返るという遺言だったが、まさかそんなことはなかろうと半信半疑で、亡くなった父親の右の瞼を軽くこすると父は目をあけたのだ。
恐ろしくなったドン・ジュアンは、蘇った生命感に溢れる父親の右目を潰し殺した。
その後、放蕩三昧の月日を過ごし、ドン・ジュアンは60歳で結婚しひとり息子をもうける。
死期が近づいたとき、自分の父と同じように息子を枕元に呼び、例の小瓶のことを話して、死後、全身にその液体を塗布することを約束させる。
ドン・ジュアンと違って素直な孝行息子に育ったフィリップは、父に命じられたとおり遺体に水晶の瓶の中身を塗った。
顔と右腕に塗り終えたとき、蘇りつつある父にフィリップは驚愕し、瓶を落として気絶してしまう。
修道院に亡骸(部分蘇っている)をうつされたドン・ジュアンは、神の御業と勘違いされ、神々しい儀式の途中に、修道院長の頭に噛み付き、
「愚か者め、これでも神がいるというのか」と叫ぶ。
澁澤龍彦は、晩年、ガンのため気管切開を余儀なくされ、声を失ったとき、「呑珠庵」という号を思いつく。
美しい珠を呑み込んで、珠がのどにつかえているから声がでなくなってしまったという筋書きと、音(オン)が、ドン・ジュアンに似ていることも気に入っていた。
澁澤のお気に入りのドン・ジュアンが、バルザックの手にかかると完全なる悪魔的且つ殺人者に描かれるのは失笑してしまう。
それにしても時を経ても効果抜群の不老長寿の霊薬はどんなものだったのでしょう。
古今東西死者が蘇るお話はたくさんありますが、ドン・ジュアンが部分的に蘇り聖職者の頭部を食いちぎるなんて設定には度肝をぬいてしまった(笑)
本篇は、くもん出版から1989年に出された『幻想文学館第四巻』読んだ。
訳は、奥田恭士
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■小説89篇と総序を加えた90篇が「人間喜劇」の著作とされる。
■分類
・風俗研究
(私生活情景、地方生活情景、パリ生活情景、政治生活情景、軍隊生活情景、田園生活情景)
・哲学的研究
・分析的研究
■真白読了
『ふくろう党』+『ゴリオ爺さん』+『谷間の百合』+『ウジェニー・グランデ』+『Z・マルカス』+『知られざる傑作』+『砂漠の灼熱』+『エル・ヴェルデュゴ』+『恐怖政治の一挿話』+『ことづて』+『柘榴屋敷』+『セザール・ビロトー』+『戦をやめたメルモット(神と和解したメルモス)』+『偽りの愛人』+『シャベール大佐』+『ソーの舞踏会』+『サラジーヌ』+『不老長寿の霊薬』+『総序』 計19篇
2021年12月1日
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フランス幻想小説傑作集 (白水Uブックス 71)
- 窪田 般弥
- 白水社 / 1985年9月1日発売
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『ミイラづくりの女たち』 マルセル・シュウォッブ
弟とリビアの砂漠を旅しているうちに、ミイラづくりを生業にしている女たちの住む町に迷い込んでしまい、弟さえもミイラにされてしまう怖ろしい物語。
シュウォッブは19世紀のフランスの作家。
彼の作品を読むのははじめてだったが、幻想的な怪しい雰囲気を存分に味わうことができた。
エジプトでのミイラづくりは有名で、たくさんのミイラが作られてきたが、この小説は短編にもかかわらず女たちの手でつくられるミイラづくりがやけに生々しく伝わってくる。
昔に読んだミカ・ワルタリの『ミイラ医師シヌへ』にもミイラをつくるさまが描写されていたが、
ミイラを作る場所は、ミイラ工場のごとき印象を受けたような気がするのは記憶違いだろうか。
女たちだけでミイラを作る という設定は、奇妙な妖艶さが加わり、死者を永劫と成すべく再生の手段として受容しつつも、やはり、ミイラづくりがおどおどろしい作業であることにはかわりない。
死体を相手に、手際よく臓物を掻き出してゆく女の腕。
麻布を処理を終えた死体に巻くために曲線を描く女の背中。
丸屋根の白い小さな家の中で行われている神聖な儀式のような工程の横で垣間見る、ミイラづくりの女と弟が交わす接吻の気配が小説に別の息を吹き込む。
マルセル・シュウォッブはユダヤ家系に生まれ、早熟で多くの言語を習得したという。
『二重の心』や『黄金仮面の王』などの短編集があるらしいが、この作品だけを読むとルルーやモーパッサン系の怪奇短編とジャンルが似ている。
2021年12月1日
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サラジーヌ 他3篇 (岩波文庫)
- バルザック
- 岩波書店 / 2012年9月15日発売
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ソーの舞踏会: バルザックコレクション (ちくま文庫 は 19-3 バルザック・コレクション)
- オノレ・ドバルザック
- 筑摩書房 / 2014年4月9日発売
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美しき呪いの女サラ: 聖書の女たち (ヴィレッジブックス F ア 3-2)
- マレク・アルテ
- ソニ-・ミュ-ジックソリュ-ションズ / 2005年7月1日発売
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マルク・アルテの聖書に出てくる女たちを小説の主人公として描いた三冊のうち、
『モーセを愛した女』『美しき呪いの女サラ』を読んだ。
一作目の『モーセを愛した女』は、エジプトからイスラエルの民をカナンに導き、その途中、十戒を神より授かり、旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」を著したと言われている モーセの妻のチッポラを主人公にしている。
二作目の『美しき呪いの女サラ』は、モーセより、ずっと先人であるユダヤの祖と言われるアブラハムの妻のサラを描いている。
「創世記」のなかに描かれいる人々は驚くほど高齢まで生きているが、アブラハムやサラも例外ではない。
サラは、アブラハムの妻となったが、不妊で、アブラハムに自らが自分の侍女を差し出し、侍女が男児を(イシュマエル)を出産後、自分が妊娠出産し、イサクをもうけた。
すると、侍女とイシュマルを追い出すようにアブラハムに言い、母子は彼らの天幕から追放される。
聖書にはこのようなことが淡々と書かれているわけだが、マレク・アルテは、彼女の人生に色づけをし、より、人間的にひとりの女性として、サラを描いている。
これは、モーセの妻のチッポラも同じことで、
ノーベル賞作家のラーゲルクヴィストが、イエスの代わりに釈放されたバラバのその後の人生を、描いたように、フィクション的要素を加えることで、より、生身の人間らしくヒューマニックに聖書の人間たちを蘇らせる。
とはいえ、イサクが生まれた時、アブラハムは百歳前後、サラは90歳、サラが死んだのは127歳だったと創世記には書かれている。
マリアの処女懐胎と同じく、このあたりは少々聖書の聖書たるかんじがあるのだが、
聖書の中の人物たちが、身近に感じることは好ましいことだと思う。
2021年12月1日
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ある首斬り役人の日記
- フランツ・シュミット
- 白水社 / 1987年12月1日発売
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新婚の妻が夫は殺人鬼だと思い込んでいた。しかし、実は夫は殺人鬼を処刑する死刑執行人で、それを新妻に打ち明けることができず、真実が暴かれたとき夫は自殺してしまう というガストン・ルルーの短編(『金の斧』)がありましたが、その処刑人は、フライブルクの死刑執行人でした。
本書のフランツ・シュミット(フランツ親方)はフライブルクからは少し離れた所のニュルンベルクの死刑執行人として実在した人物で、ニュルンベルクのみならず、その近隣一帯で任務に携わっていた。
彼は、1573年から自分が手を下した死刑、体罰を逐一記録に残しています。
刑吏としての彼の仕事は、処刑だけに留まらず皮剥ぎ人、便壷の清掃、ハンセン氏病者の駆逐、野犬の撲殺、売春婦の管理などで、一般市民は刑吏とのいかなる接触でも名誉を失うことになる。
ヨーロッパでは多くは世襲制のこの職業に就いていた人間は忌み嫌われていても刑の忠実な執行人であり、社会に不可欠な存在として認知されていたのだ。
本書は、そのフランツ親方の記した死刑執行の日記、体罰執行の日記 が二部構成で記されており、つらつらと読んでいるだけで、当時の犯罪や刑罰、時代背景のみならず、捕えられた犯罪者の処刑という最期までのひとりひとりの人生をも浮かび上がらせる。
当時の人は名前のほかに別名が存在し、その別名たるや、
「阿呆の耳」「大きな鉤針」「ちびの白樺」など、実にバイタリティにとんでいてその人となりにも思いを馳せることができた。
死刑に処せられる罪名は、殺人、窃盗、放火、暴行などであるが、嬰児殺しも多く見られる。
複数殺人、近親殺人など重罪には車裂きの刑、
泥棒たちには主に絞首刑、
嬰児殺しには溺死刑
近親相姦などには火刑
殺人は斬首刑が執行されているようだが、斬首と絞首では斬首の方が名誉ある死とされ、処刑人のお慈悲で斬首刑になった場合は罪人は涙ながらに感謝したそうである。
それにしてもフランツ親方は、その日記の記述からして几帳面で真面目、職務に忠実な人間であったようで、361人を処刑したのち、退職後は、在職中行った合法的な罪人の死体の腑分けによって知識を蓄え外科医として活躍したらしい。
ある刑吏の刑執行覚書が、資料的側面だけではなく、実にヒューマニックな罪人個人の履歴書然と成り立っていることに驚いてしまう。