本書はゴータマ・シッダールタの言行録という体裁を取るが、形式も、議論の詳細さも、ゴータマの呼称でさえもバラバラで、何の説明もなく過去生での発言まで採録されるという有様であり、かなり雑多な内容の寄せ集めという印象は拭えない。それでも何度も何度も繰り返されるゴータマの決め台詞はとても印象的で、力強いものが多く、長い歴史の中を何とか生き抜き、ヨーロッパでも19世紀に一大ブームを巻き起こしただけの書物としての強さを感じる。
内容としては第4章が群を抜いて高度な議論が展開され、一見するとその他の章の紋切り型で表面的な議論と矛盾するような主張も散見されるが、そのこと自体も本書の魅力であり、精緻な体系化への誘惑を後世の人々に与えずにはおかなかった重要な要素であろう。

バラモン教内部から発生した沙門の一人としてのシッダールタがどのように自らの学説を正当化していったのか、新宗教の発生において関心を引くところであるが、本書で展開されるゴータマの戦略は非常に興味深い。それは一切の論争を行わないというものである。論争においては自らの説への執着があり、相手の説への軽蔑が必ず生じる。これは苦しみを生むものであるから、自説が優れているとか、相手の説が劣っているとか、言ってはならない。論争を挑もうとするものに対しては「ここにはあなたの論争相手はいない」(297ページ)と答えることになる。論争は非難と称賛を生じさせるだけで真理とは何ら関係がないとシッダールタは考えたのである(316ページなど)。それでいて論争を行わないことこそ真理を理解したものの振る舞いであるとし、暗に自らの始めた宗教の優位性を説いている。面白いのは、自分を他人と等しいと思うことも、優劣を競うことと同じであるとし、相対主義をきっぱりと否定していることである。自他の説を同程度に正しいと考えることも、やはり自説に執着していることに変わりはなく、真理が多数あるか、あるいは全て誤りであるか、という結論にしかならないので、必ず矛盾を生むということなるからである(320ページなど)。あえて論争しないことによって、論争する前に、自説が真理であることを論証してしまっているのであり、この理論構成は見事であるというほかない。
一方で、シッダールタの主張は論理的な正しさに終始するものではなく、あくまで実践に基づくものである。「ある人たちは、真理を知り、見ることだけで心の清浄が得られると考える。しかし知ること、見ることがなんの役に立つだろうか」(321ページ)。しかもその正しさは形式的に評価されるものではない。つまり、評価すること自体がすでに迷妄であり、それゆえ、「戒律や請願、悪行や悪行を捨てよ。浄不浄を気にかけなければ、人は心寛ぎ、安らかに生きられる」(319ページ)ということになる。
ところで、訳者は310ページの次の一節を仏教が体系化された後の時代における挿入であろうと指摘している。「ものごとを認識せず、認識しないのでもなく、認識するでもなくしないのでもない境地に達したならば、彼には個人存在というものは消滅する。なぜなら、さまざまな個人存在は認識作用から生起するからである」。しかし、上記の浄不浄を気にかけないというのはまさしくこの一節と同じことを言っているのであって、あながち後世の創作と考える必要はないのではないか。シッダールタは、何度も何度も、我々に問いかける。自らこの世の苦しみを生み出す原因を招いていないか、苦しみの消滅という目的に囚われてかえって苦しみの存在を前提としていないか、自分だけはそういった苦しみの原因とは無縁だと思い込んで安楽に耽ってはいないか、そういった終わりのない反省を我々に突きつける。このあまりに厳格で救いのない教えの実践の先にあるのは、しかし、古代インド宗教における革命である。「いまだ煩悩が...

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2024年3月27日

読書状況 読み終わった [2024年3月27日]

本書は、著者は明言していないとはいえ、ヘーゲルの精神現象学と空海の十住心論の構成と発想が似ているという点にのみ着目し、西欧哲学から空海への再評価を期待して書かれた本であるとしか思われないが、この著者の目論見は見事に外れている。何と言っても空海の思想はヘーゲルと全く関係ないのであって、形式が似ているからと言って単に形式を示してみたところで何ら内的連関を示したことにはならない。ところが、著者の議論はそれに終止してしまっている。ヘーゲルに似ているといったところで、何がどう似ていてどこが違うのか詳細に分析しなければ、その形式の類似の必然性は全く論証したことにならないし、それゆえ、内容の理解にいささかも利するところがないのである。
それにとどまらず、本書は十住心論の入門にすらなっていない。というのも、本書は秘蔵宝鑰の書抜に終止しており内的視点や一貫する理論が何もないからである。気まぐれにゲーテなど西欧の書物も引かれているが、ただ引用するだけで空海の言っていることと似ていると指摘するだけでは、理解に毫も役に立たないのは言をまたない。本書を読んで空海のことを理解しようとすれば、人の思想を手早くまとめるのは上手いが自身の思想が全く無かったために最後には言葉では言い表せないと開き直れる密教にうまく逃げおおせただけという印象になりかねない。それでいて世渡り上手な人だったのだろうという逸話に事欠かない人物であることも相まって、昨今のベストセラーを連発するペテン師の類ではないかとの思いを強くした。

2024年2月22日

読書状況 読み終わった [2024年2月22日]
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ザクセンシュピーゲルやメルヘンの世界を近代合理性やキリスト教の視点ではなくあくまで中世の視点から読み解こうとする論文群。死者と生者が分け隔てなく隣人として暮らし、動物はおろか無生物すら人間との垣根がない世界の近さ、力や理解の及ばないものへの魔術的な解釈といった思考様式の
理論体系が提示され、そこから個別の事象が解明されていく。著者の示した実例の範囲では十分に説得的であると思われたが、どの時代のどの範囲の事象まで適用可能な理論なのかは他の研究を待つ必要がある。
本書では随所に中世ドイツと今日の日本の類似性が指摘される。近代化、キリスト化されて日が浅いという客観的事実の類似性によるのであろう。一方で、著者自身も指摘しているとおり、近代文明はそれだけで成り立つものではなく、今日においても、その生活の次元において、ヨーロッパにはヨーロッパの文化が存在している。今日のヨーロッパが近代化され尽くしており、中世との連続性が断たれていると考えるのは誤りであろう。後の世間論につながる視点ではあるが、単に今日のヨーロッパと比較して、日本や中世ドイツが遅れた劣った存在だと考えるだけでは論点を見失うことにもなるだろう(現実には、仏教が千年以上にわたって文化の重要な位置を占めていながら、その信仰においては一切顧みられなかったという我々の先祖の精神性のあまりの低さに絶望すら覚えるとはいえ)。

2024年2月4日

読書状況 読み終わった [2024年2月4日]

ウェーバーを今日の組織論の成果から逆照射して、その原点を築いた思想家として解釈する試み。その到達点としてルーマンの思想を置いている点が独特である。肝心のルーマンについて著者の理解がほとんど示されないので、この議論の妥当性について本書だけで判断するのは難しいが、ウェーバーを読解するための観点としては面白い。「プロ倫」の着想としたと思われる実在の会社の組織形態からウェーバーの議論を貫く主題を導くのはやや突飛ではあるが雑然としたウェーバーにはまだまだ解釈の余地があると思わせる点で非常に感心させられる。大塚久雄を全否定する件は痛快である。とはいえ、ウェーバーの「正しい」解釈がこれだけであるとするのはまた、大塚久雄と同じ陥穽にはまってはいないか(たしかに大塚久雄流の「マルクス主義」の公式に当て嵌めるのは完全に正しくないとはいえ)。

2024年1月18日

読書状況 読み終わった [2024年1月18日]
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読書状況 読み終わった [2023年8月15日]
読書状況 読み終わった [2023年7月5日]
読書状況 読み終わった [2023年7月5日]
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