- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004120391
感想・レビュー・書評
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(~2004大学時代の本@202012棚卸)
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なんとなく難しかったが、全4章中後半2章は一般向けの講義を編集したものだし、そこはまだ理解がしやすかった(とはいえ議題として討議するにはきちんと勉強して全体をつかまないとわからないなという印象)。
断片的になるほどと思うことはあったが、特に日本には思想や文化が外から入ってきてそれに合わせていったという指摘が面白い。また、人はイメージを頼りにして判断するので当事者とそうじゃない人とではそのものの見方が違い、皆それぞれの立場で自分が被害者だと言い張るため加害者がいないのに被害があるというのも面白かった。 -
MM7a
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「頭が悪いとはどういうことか」
この本を読めばわかるよ、と勧められて購入
Ⅱ章は集中力なくて飛ばしました
ごめんなさい
たしかにこれは
「頭がいい人はどういう人か」ではなく
「頭が悪いとはどういうことか」だなぁ
成功した人には成功した理由聞くよりも
失敗談を聞けってことか…
そういう意味でも丸山丸男は頭がいい -
大学の講義でかいつまんで学んだ本。
今はよく分からなかったら、卒業間際に読みなさいと言われた。またそのときに、改めて感想を書きたい。 -
三度目の読了。やっぱりというか、丸山真男は日本における思想=言葉について、思想内容として言われたことそのものよりもむしろ、言葉の裏にズルズルベッタリに張り付いた大和族の日本人の思考の癖について問題にしたかったのだと感じる。この方向を伸ばしていくと、知識人・民衆問わず、無意識のうちの生活の前提になっている「世間」(ちょっと変わったことをしようとすると「それは世間では通用しないよ」と言われるアレである)について分析した阿部謹也先生の『「世間」とはなにか』(1995年)に行き着くんだろうけど、良くも悪くも丸山真男にはそこまでの意識はなく、やはり本書で主題になるのは知識人の持つ外向けの言語化された思想である。
“ ところが日本では、たとえば儒学史とか仏教史だとかいう研究の伝統はあるが、時代の知性的構造や世界観の発展あるいは史的関連を辿るような研究は甚だまずしく、少くも伝統化してはいない。津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(全四巻、一九一六-二一年)は「文学」という限定はあるにしても、そうした方向を早くからめざしたきわめてまれな例であろう。(中略)日本思想論や日本精神論が江戸時代の国学から今日まであらゆるヴァリエーションで現われたにもかかわらず、日本思想史の包括的な研究が日本史いな日本文化史の研究にくらべてさえ、著しく貧弱であるという、まさにそのことに日本の「思想」が歴史的に占めて来た地位とあり方が象徴されているように思われる。”(本書2-3頁より引用)
とある通り、丸山真男は日本思想史の蓄積が乏しかったという知的伝統のあり方自体を問題にしているが(この問題意識は尤もだと私も思う)、そう思い、かつ専ら生活に密着しない知識人の思想を問題にするならば、やはり1910年代~1940年代の京都学派の知識人達をもっと真剣に批判した方が良かったんじゃないかと改めて思ってしまった。本書3頁に和辻哲郎の『日本精神史研究』(1925年、1935年)が戦前の国体ナショナリズムとの関係の近さにおいて婉曲に批判され、本書25-26頁では「世界史の哲学」者こと高山岩男の敗戦直後も戦時中とほぼ変わらないような保守性がかなり厳しく批判されているが、本気でやらなきゃいけなかったのは、丸山真男と同様に岩波知識人であった三木清の昭和研究会参画や、「東亜協同体論」についての正面からの批判(それは日本の主流派知識人の戦争協力の問題に一直線に繋がる)だったんじゃないかなと。
今回三度目の通読で気が付いた点として、本書44-47頁の戦前の日本産業観が講座派マルクス主義、もっと言えば山田盛太郎の『日本資本主義分析』(1934年、岩波書店)が丸山真男の認識に与えた影響の大きさであった。
“……日本の天皇制はたしかにツァーリズム(引用者註:ロシアの帝政)ほど権力行使に無慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのようなあり方(引用者註:難波大助による虎ノ門事件後に、大逆犯となった大助の父や小学校時代の教員が責任を取って辞職したという事態)は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというのではない。ここに伏在する問題は、近代日本の「精神」にも「機構」にもけっして無縁ではなく、また例外的でもないというのである。”(本書32頁より引用)
とあるように、丸山真男はマルクス主義の科学的分析によっては言語化し得ない日本思想史の裏面に張り付いた情念を問題にしたかったんだろう。それは伝わるけど、なんだろうな。民衆と知識人が同時に天皇を支持する思想の論理構造を言語化するためのヒントを、たんに日本の後進性ということではなく、むしろ近代化の要請に適合する形でその論理構造が整備されたという点を問題にして欲しかった。阿部謹也先生の世間学や弟子の渡辺浩氏がやってることだけれども、もう少し早く丸山真男自身にやって欲しかったなと。
本書120頁の小林秀雄観が、日本における透谷問題の延長戦上にありそうだと感じたので、今回読んでて一番の収穫はそこだった。 -
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丸山眞男(1914~1996年)氏は、日本政治思想史を専門とする政治学者、思想史家。その学問は「丸山政治学」、「丸山思想史学」と呼ばれ、戦後日本を代表する進歩的知識人の一人。
本書は、1961年に出版され、累計100万部を超えるロング・ベストセラー。私は50代半ばであるが、高校時代(1980年前後)に、本書は小林秀雄の『考えるヒント』と並ぶ必読書と言われ、教科書や試験問題でもお目にかかったような気がする。
本書は、「日本の思想」(1957年/岩波講座『現代思想』に発表)、「近代日本の思想と文学」(1959年/岩波講座『日本文学史』に発表)の2本の論文と、「思想のあり方について」(1957年/『図書』に掲載)、「「である」ことと「する」こと」(1959年『毎日新聞』に掲載)の2本の講演文から成っている。
2つの論文は、それぞれ、日本の思想が持つ「無構造」という構造について、近代日本の文学と思想の関係性とその特徴について、論じているが、必ずしも読みやすい内容ではない。
一方、2つの講演文は、その文体のお陰もあり読みやすく、かつ、分かりやすい示唆を与えてくれるものである。
「思想のあり方について」では、社会・文化の型を「ササラ型」と「タコツボ型」に分け、ヨーロッパが前者であるのに対し、近代日本は後者であるとし、その問題性を論じている。そして、その主たる背景として、西洋学問が、ギリシャ-中世-ルネッサンスという長い文化的伝統が根にあって末端が分化している(=ササラ)にもかかわらず、近代日本では、西洋学問の分化した表層のみが移植された(=タコツボ)ことを指摘している。この点については、既に明治維新期に福沢諭吉が『文明論之概略』で警鐘を鳴らしていたが、今日でも日本において学際的な研究が進みにくいなどの状況に繋がっている。
また、「「である」ことと「する」こと」では、近代社会の制度は、定義や結論(=「である」)よりもプロセス(=「する」)を重視することによって成り立っているにもかかわらず、近代日本ではそれが浸透していないことの問題性を論じている。例えば、「自由」」や「民主主義」とは、そこに「ある」ものではなく、自由になろうと「する」、民主主義的行動を「する」ことによってはじめて、実現し得るものである。ハムレットの時代の人間にとって「to be or not to be」が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ「to do or not to do」という問いが大きな関心事になっているのだ。
出版から60年を経た今でも示唆を与えてくれる古典的名著である。
(2020年4月了) -
1 日本思想の伝統の蓄積されないこととその理由について
さらに、それが國體との関係性でどのように国民精神を養ってきたか
2 文学を特にマルクス主義文学をモチーフに、文学、政治、科学の三点対立で考える。科学の優位から文学の優位へ
正直、ここは理解しきれず
3タコツボ的な日本社会のあり方,イメージの壁の分厚くなる傾向への鋭い批判と危機意識
その契機を、前近代にみるのではなく近代思想の取り込みの段階にみるのが面白い。
4である価値とする価値の倒錯の起きていることへの危機意識
政治はする価値であり、芸術はである価値だ、というのにハッとする
めちゃくちゃすごい。こんなことを考えられる人がいるのが信じられない。
今読んでも、現代社会を鋭く描写していると感じるところから我々の進歩のなさと、それがいかに日本に根深く巣食っているかを感じる。