文学部唯野教授 (岩波現代文庫 文芸 1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006020019

感想・レビュー・書評

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  • その当時のアカデミアの人事というか人間関係はこういうところなのだろうか、、、と考えざるをえなかった。。。本当かウソなのかはこの小説を貸してくれた教授に聞いてみよう。
    授業形式で前半にアカデミア界隈の人間模様、後半に授業が盛り込まれ、知識も増やせた一冊であったように思う。

    以下読書メモ
    ーーーーー
    ・ひとに例外を許さない、個性を認めず独自の行動をさせない、そのかわりその人が自分のものとして負うべき苦しみや悩みや責任を忘れさせてくれるような存在を「世人」という。こういう世人と話すときの普通の会話や雑談や無駄話のことを『空談』といいます。これは『語り』の日常的な、非本来的なありかたで、語りというのは、人間それぞれが、自分は他の道具的なモノやモノ的なモノではなくて、そういうものを理解したり照らし出したりできる、そして自分も照らし出せる、この世に生きている存在だと自分でわかっているということ、それを了解し、解釈している場面なの。この場面ではじめて言語が可能になる。だから本来の語りなら、われわれは話している相手がわかっていることを聞いて相手と同じようにわかることができる筈だけど、空談はそうじゃない。直接的な出会いじゃないんだよね。話が話し手からひとり立ちして、内容は薄くなって、語り広められて真似される。マスコミの発達でそれはますますひどくなって、聞く方は了解するという面倒なことをしなくていいわけ。さらにこの語りということの中には、聞くことや焼熟することも含まれています。人間の『語り』というのは、語る存在として自分を示すこと以外にも、世界に耳を傾けるということでもあるの。

    ・人間の非本来性の中には、自分の死をまともに見ようとしないってのがあったね。では、まともに見るとはどういうことか。他人の死というのは経験できないし、代わってやることもできない。ところが自分の死は、それがやってくれば人間は現存在でなくなっちまう、しかも、いつやってくるかわからない。つまり死はそのたびごとの可能性で、人間はそのたびことに自分の終りにかかわっている存在だ。そのたびごとといったって、やはり死はいくら早くても一瞬先にあるわけだから。つまり本来的に死を見るというのは、自分に先んじて死とかかわり、それを本来的に了解することで、これを『先駆的了解』といいます。おおいやだいやだ。おれなんか自分の死を了解したくないね。あたしゃ自分が死ぬ時なんぞは、もう、そこにいたくありませんよ。しかしハイデガーは、常に先駆的了解のために自分に先立って、自分が先へ投げこまれるのではなく、自分を先へ投げこめと言っています。それが自分の全体性をとらえ、新たな可能性に向けさせるのだと言っているわけで、ハイデガーの場合、人間的な知は、常にこの先駆的了解から始まるの。と同時に、その中から出られないところがこれまた限界なの。ハイデガーに言わせるなら、人間の存在というのはいつでも新たな可能性の問題なのだから、つまり完成なんてことはあり得ない。どんな科学も理論も、先駆的了解を行った結果を部分的に抽象化したものに過ぎないっていうの。
    11:29 田村まり ハイデガーの著作は『存在と時間』だったよね。では人間にとって時間とは何か。ハイデガーは、人間の存在している意味、それから、人間が存在することを可能にしているもの、それが時間性だと言います。あのう、歴史、と言わないで、時間、と言ってることにご注目ください。人間が全体的に、本来的にこの世界に存在するには、死という可能性をめざしながら自分を見る、つまり未来を見ると同時に、過去を見て自分の非力なことを知り、同時に現在を見て自分を解放する。つまり『過去を見つつ現在にある未来』というのが人間存在の意味、つまり時間性だっていうの。


    ・文学作品の意図というのは、ただ作者の意図というだけでは説明できないものがあって、その時代、その文化が、われわれの時代、われわれの文化へやってくる時、そこには作者が意図することのできなかった新しい意味が生まれてくる筈だ。この不安定性こそ文学作品の特質だとガダマーは言うの。たしかに不安定だよなあ。作品から問いかけられるわれわれ現代の読者の方は、何百人も、何千人もいるわけでしょ。そしたらその答えは同じじゃない筈だよね。で、これをガダマーに言わせると、作品を了解するのは常に、別のかたちの了解なのだ、その意味をずらせることだ。だからこそ、現代でほんとの了解をするのは、現代だけにしかない意味で作品を了解することだ。つまり新しい現代的な意味をひっさげて故郷へ帰るみたいなもんだって言うの。

    ・フッサールってのはほら、意味というのは意図された事象だ、その中から絶対不変のものを発見すればそれが本賞だ、イデアだって言いましたね。だからハーシュがそう言うのも当然といえば当然。意味というのは言葉以前にあるものだ。意味が言葉によって固定されるのはそのあとのことだっていうんだけどさ。じゃあ君たち、ちょっと、言葉を使わないで、頭の中で何か意味することを考えてくれるかい。できましたか。そりゃまあ、あんな感じ、こんな感覚、言葉で言いにくいものはあるだろうけど、それはまだ意味ができていないからだよ。では一方ハイデガーはどうかというと、『存在と時間』の中で彼は、言語が可能になる『語り』というのは、世界に耳を傾けることでもあると言ってたよね。そもそも人間は、時間によって構成されているのと同じで、言語によっても構成されているのだってわけ、つまり言語はコミュニケーションの手段でもないし、意味を表現する手段でもない、それ以前に世界を生み出し、人間を生み出したのが言語だっていうの。言語によってはじめで人間は人間になれる、言爵は、人間が自分の全体性をそっくりそのまま提示するたの場所として、ひとりひとりの人間よりも先に存在していて、それによって人間は成長するにつれ人間らしくなっていく。

  • 唯野教授個人は饒舌な小男、モラルも低くて女子生徒に手を出したりする俗っぽさ。周りのキャラクターも小便を漏らしたり、小狡い性格だったり、全然立派な人物はいない。
    大学教授たちの世界は政治根回し、足の引っ張り合いばかりで期待ほど勉強していない。
    でも講義はとても面白い。欄外に及ぶ知識の深さ、紹介される本は膨大で、文学理論は全てはわからないけど、読みやすく砕けた表現になっている。難しいから参考文献をもっと読んでもう少し知識が増えてから読んだらまた面白いかもな。
    毎章唯野をめぐるドタバタしたエピソードで始まり、講義で終わる話の型も決まっている。
    斉木が蟇目と衣服を調えながら研究室から出てきたあたりから特に面白かった。

  • 講義の部分は「文学ってこういうことなのかぁ」などと感心したが、全体的にはあまり楽しめなかった。登場人物の日常が殺風景で、普段何を考えてるのかわからない、というか、そもそも何かを理解したり整理したりすることが習慣として全く身についていない人たちの恨み言とか、泣き言が並んでいるだけだったからだ。(文学部の)大学教員はこういうつまらない人間の集まりなんだよ、という点では優れた著作といえるのだが、どこが笑いどころなのか私にはわかならない。

  • 濃厚な文学批評論の講義と軽快な大学教授のコメディーが合体している。コメディーの方は語り口が軽いのでとても読み易い。講義の方はある程度文学や哲学の知識がないと全部理解できないであろうと思った。メタ的な描写が入ってくるのが面白い。

  • 早治大学文学部の弱小教授、唯野仁は、魑魅魍魎が跋扈する学部内政治に翻弄されながらも、ペンネーム野田耽二で密かに小説を書いている。しかしてその志は、「新たな文学理論の確立」。

    本書では、唯野教授が立智大学で非常勤で受け持つ「文芸批評論」の第1回から第9回までの小難しい講義の進行と共に、嫉妬が渦巻く幼稚でドロドロした学内政治ドラマが展開していく。

    学内政治のパロディはリアリティがあって面白かった。残念ながら、現象学、解釈学、記号論、構造主義、ポスト構造主義など、唯野教授の講義は難解でちんぷんかんぷん。フムフムと分かればカッコいいんだろうけどなあ。

  • もうこんな大学ないと思うのだが、それでも少しあってほしいと思うし、
    こんな教授いはしないと思うのだが、それでもいてほしいと思う。
    惜しむらくは、読者には前期の聴講しか許されていないことだ。

  • 主人公の唯野仁は、早治大学英米文学科教授であり、「野田耽二」というペンネームで小説を執筆しています。本作は、彼を中心にアカデミズムに生息する者たちの生態をアイロニカルにえがき出している小説ですが、同時に現代文学理論について学ぶことができる内容になっています。

    ユーモア・センスは著者の従前の作品と同様で、とくに現代の若い読者に響くのかという点では、やや疑問もあります。井上ひさしの作品についての同様のことがいえるように思うのですが、この方面の感性はもっとも賞味期限が短いので、しかたがないのかもしれません。それ以外にも、アカデミズムの置かれている状況はますます厳しさを増しており、ここにえがかれているような大学人たちの愚かしさは、いまとなっては牧歌的にすら感じてしまいます。

    唯野の後期の授業や、野田耽二の作品『海霧』などについて、もっと知りたいと思わずにはいられません。著者に続編を書いてほしいという声はすくなくないと思うのですが、現在までのところ正式な続編は執筆されていないようです。ただし、『文学部唯野教授のサブ・テキスト』(文春文庫)、『文学部唯野教授の女性問答』(中公文庫)、『誰にもわかるハイデガー―文学部唯野教授・最終講義』(河出文庫)などの関連作品は観光されています。

  • 本気の実験的な小説って好きなんです。
    作家の教養がビンビンに伝わってきて、それでいて知識のひけらかしになってないから、作品に緊張感が保たれています。

    「もっと勉強しましょうね」

    唯野教授の学生に向けたこの言葉は、作家、批評家、ひいては我々のような読者にも向けられた言葉なのだと思います。

  • 文芸批評の話と大学内部の話ってんで難しいのかなと若干不安視してたらさすがというか当然というかむしろ難しい話をコメディにエンタメに仕上げることこそが筒井康隆の魅力だと改めて感動させられる傑作だった。構成が凄い。講義が先かドラマが先か講義の流れとドラマの流れがリンクしながら展開してる部分があったりして凄い。ガンガン読めるし面白い。後半へ行くに連れ講義内容が難しくなる。こんだけ噛み砕いて易しく説明してこの難しさだから元の理論は相当ヤバいんだろうな。私の頭が悪いんだけども。ドラマの方は尻上がりに面白い。
    文学賞についてや夢の中だけどもドタバタの血なまぐさい展開など「大いなる助走」ぽさもあるので順に読むと面白いかも。目を覆うほどの差別描写があるが時代を反映しているというか、それも含めての批判というか必要悪な印象だった。凄く凄く面白かった。読み応え満点の傑作。

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著者プロフィール

小説家

「2017年 『現代作家アーカイヴ2』 で使われていた紹介文から引用しています。」

筒井康隆の作品

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