下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち (講談社文庫)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062763998

感想・レビュー・書評

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  • ハッと気づかされました。
    子育て前の必読書かと思います。

  • 【概略】
     なぜ、日本の子ども達が「学び」に対して積極的でなくなったのか?なぜ、日本の若者は「仕事」に対して積極的でなくなったのか?その答えは、労働主体と消費主体というキーワードにあった。「それをやることには、なんの意味がありますか?」という言葉の裏に横たわる「学び」とは?というテーマから広がる「学びの楽しさ」の扉。教員・必読の一冊。

    2020年03月18日 読了
    【書評】
     いやーーーー、面白かった!興味深かった!
     この本は大きく分けて二つの側面に対して広がってる。「学び」と「仕事(労働って言葉の方が合ってるかな?)」という点。この二つについて「子ども・若者」といった若い世代の思考を読み解く形になってる。そのキーワードとして「労働主体」「消費主体」というものが挙げられてる。
     教員免許といったものは持っていない自分だけど、「これって意味あるんですか?」なんてセリフ、教える場所で沢山耳にしてきた。自分も使ったことがある、生徒だった時代にね。二次元の観点で見た意味の有無と、「時間」という奥行をつけた三次元での見方による意味の有無、全く違う。これは自分にとっては残念ながら大人になってから実感したのだよね。学生時代に救いがあったのは、この「時間」という要素は、「今は踊り場のような感覚があっても、目の前に記されている説明が全く理解できなくても、時間をかけてこなすことで理解できる」という経験ができていたことぐらいかな。
     「学び」というものは、決して「勉強」という言葉でくくられる狭いものではなく、人生における教訓であったり、人格形成に影響する経験であったり、その全てを包括するものだと思う。だからこそ、「今、辛い」「本当、死にそう」なんて状態の「後」、「時間」というエッセンスを加えた自分自身の変化そのものが「学び」なんだという感覚を知っておくといいし、そこに「ストーリー」が形成されるのだと思う。ただし、そうはいっても、「今、まさに」艱難辛苦の状況に陥っている立場の人達にとっては、そんなことを考えていられる余裕などないのが、本当に辛いところ。
     本書で語られている「学び」について、連想した2人の発言がある。一人目は総合格闘家の青木真也さん。先日の ONE CHAMPIONSHIP という格闘技団体が開催した試合に解説として参加していて、その解説ぶりが絶賛されていて。後日、別の YouTube 動画で「なぜ、それほどに解説(言語化)が上手なのか?」「逆に他の格闘家が、なぜに上手に解説できないのか?」という質問に、青木さんは、「MMA(総合格闘技の略)の合理化が挙げられる。合理化が進んで、若い世代は、それを型として覚えているから。もっと言うと、無駄な練習をしていないから。僕は無駄な練習を滅茶苦茶している。無駄があるから技術の意味がわかる。今の子たちは無駄を省いているからその技術の持つ次の展開、もしくは前段階、技術の背景みたいなものをわかっていない」としていたのだよね。
     さらに二人目、こちらはイチローさん。とあるインタビューで、「無駄なことって結局無駄じゃない。もちろん、今やってることが無駄だと思ってやる訳じゃない。無駄に飛びついている訳じゃない。後から思うと無駄だったということがすごく大事。遠回りすることが一番近道」としています。イチローさんはことあるごとに、このような遠回りに対して「深みが出る」という表現をしているのだよね。
     青木さんとイチローさんのこの表現、お二人とも取り組んでる瞬間は、「意味あるの?」とか「無駄なんじゃなのかな?」とか、試行錯誤・思考の材料としては思ったこと、あるかもしれない。その「自らの思考」の先に形成されたお二人の総合格闘家・野球選手としての姿がお二人にとっての「学び」の結果、なのだよねぇ。
     もちろん、毎日、なにかしらの結果を出していかないといけないし、生きていかないといけない訳なので、そこはそこで意味を見出していく必要は、ある。けれども、「時間」という奥行を加えた自らの成長という部分に関しては、本書で筆者が語っている内容は、一度、目にしておく必要があると思ったなぁ。
     もう一点、「仕事」という部分に関して。こちらについては、本書が出版された2009年の情勢と、2020年現在の情勢、とりわけインターネット技術の革新という要素が、本来の「仕事」という要素を大きく「一見」変えてしまっているところがあり、「学び」の項目ほど「おぉ、目からウロコ!」みたいな感じにはならなかったかな。
     根っこの部分、労働主体、そして、自身の満足(当人にもたらす利益)のためという発想のみならず、周囲の人達の不利益の抑制という発想を加えることなどについては、今後も変わることもないと思うし、むしろこれからの時代、ビジネスとしては「周囲の人達の不利益の抑制」という要素を素材にしたら大きく化けるのでは?と思う。
     ただ問題は、ここ数年の、労働=自分の時間を差し出す、という概念からの変化とその変化を促進するインターネット技術の革新、なのだよね。もっというと、これからはヘタしたら「どれだけ脳内快楽物質を出せる事柄を自分の周囲におけるか?結果、仕事となってるか?」という時代になるような気がしてね。となると、本書から感じた「仕事=労働(時間を差し出すもの。それは時として自身が望んでいないもの)」という感覚を前提として語ることができない時代になってくるのじゃないかなとね。本書ではニートを生産能力(いわゆるお金を稼げない?)のないようなニュアンスで取り上げていたけど、ヘタすればニートの方が稼いでる時代になってきてるしね。
     もちろん、そんな「俺が俺が」な人達ばかりじゃないから、今までと変わらない感覚(誤解のないように。この感覚が悪いと言ってるのではない)で働く人達もいる訳で。そして、さっきも書いたように、「周囲の不利益を抑制する」感覚を「自らの喜び」に変換できる人、バイプレーヤーや縁の下の力持ちみたいな立場の人は、絶対的に重宝されると思うしね。あとは、「自分の好きを仕事にする」ってのは、決して「必ずそれで食べていける」というものじゃないしね。
     よく「英語の音読、意味ありますか?」とか「ディクテーション、意味ありますか?」とか、まぁ色々と耳にする(笑)大体そういった質問を受け取る側の方達は、そんな「意味ある?」「無駄かな?」を試行錯誤して、時に無駄だったと顧みて、その方達ならではの「深み」を得てきてる・・・なんてことを、思いながら読ませてもらったよ。
     筆者の内田樹さん。本当に自分は不勉強で、「いつきさん」と思ってた。申し訳ないです。「たつるさん」なんだよね。あと、色々なところの発言で、思想的に自分とは合わない箇所もあるのかなぁと思っていたのだけど、どうしてどうして、(少なくとも本書に記されていた点については)合う合う。リスクヘッジの概念や、それに対しての日本人の「正しいソリューションだけを選択し続けなければならない」というくだり、戦争をしていなかったと書くあたり(もちろん、戦争を礼賛してるのではない)や、師匠と弟子の関係を重要視するあたりなど、すごく共感できたなぁ。
     人生のバイブル10冊(和書編)の仲間入り!

  • 2005年の夏に行われた講義をもとにしていると本書ですが、2019年の秋でも、批評性は失われていません。そのことを著者は残念と思っているかと思います。

    この本は日本人として教養の1つとして、是非、多くの人に読んでいただきたい。

    タイトルからは、子どもや若者にフォーカスされている内容と想像してしまいますが、現在の日本全体を覆う、何とも言いようのない、掴みようがないものの正体を、解き明かしてくれています。

    経済合理性というものが、世の中のあちこちで聞かれますが、それをそのまま鵜呑みにぜずに一度立ち止まり思考することが大切であるとの気づきが、本書を通じて私にはありました。

    皆さまがどのような学びを本書からされるかは、当然ながらそれぞれあるかと思いますが、これまでとは違う視座から見ることができるようになり、物事の捉え方が少しもしくは大きく変わることは間違いないと思います。

  • 内田先生というのは講演したものを本にしているパターンが多いようだが、自分の軸をきちんともっておられるようである。
    賛同できるところとできないところはあるが、説得力はある。
    思わず納得してしまう。

    最後のほうで「日本人は付和雷同なところを活かせばいい」みたいなことを言っていたが、これは面白い発想。見方を変えれば危険な思想でもあるが。

  • 05年執筆で古い内容も含まれてはいるものの、学生や若者の間にある、学びや労働からの逃走という傾向は、現場にいて実感的な内容でした。
    なかなか衝撃的な内容です。文化的な格差、考え方、習慣的な格差みたいなものが広がっているのかな、と感じました。

    子供たちは幼少期から消費者意識を植え付けられている、たしかに教育にビジネスモデルをそのまま投影することは危険だと感じました。
    読んでいて、ここは内田樹が賢いから、体を鍛えた体力ある人だからこういうふうに考えるんだろうけど、と思う事もなくはないですが、ちかごろの生徒の話を聞いていると頭の良さは変わっていないのに、幼い振る舞いが目立ったり、長い目で見る、長期的に考える、そういう視点が抜け落ちている感覚がありました。

    なぜ内発的動機だけではいけないか、そういったことも理路整然と書かれています。
    学校のしんどさがどこからやってくるのか。
    現場にいる人間としては、こちらから見えない社会的要因を俯瞰して若者を語ってくれたことだけでもありがたい。
    昔の学校が手放しで良かったとは思わないけれど、何かが行き過ぎて歪んでしまっている感覚、気持ち悪さだけはあったので。

  • 賛否両論あるようですが、私は高評価。世間一般論ではない視点。目からウロコ、というよりも、自分の中にモヤーっとイメージであったものを言語化してくれたようなスッキリ感。ニートについては、うーん、まわりにいないのだから、わからないのは仕方ないのでしょうね。

  • 読んでみると、わたしも若い人世代に入る部類なので、ドキッとさせられるものも多かった。
    特に、最近の情報量の多いネット社会で生きている自分は、「自分の知らないこと」はスキップするように生きている。すなわち、「なんだかわからないもの」は「ない」という文章にはものすごくハッとさせられました。
    無知に対しての不安や不快を感じることが少ないということに気づかされました!
    わからないことに対してしっかりと目を向けて学ぼうとする姿勢を取り戻そうと思った一冊でした。

  • 内田樹さんの著書は初めてだったが、とても多白かった。なぜ若者は勉強や仕事をしたがらないのか、ゆとり制度の弊害とか、親の経済的な理由とか、いろいろ言われている中で一つもピンと来なかったが、この解説は腹に落ちた。人間にはわからないことの先送りという能力が備わっているが、最近の若者はこの先送りを大量に行っていること、またそのことを無かったことにしていること。6ポケットで育った子供たちは、労働主体ではなく消費主体の人格が小さな頃から備わっているので、教育にしても労働にしても金銭価値に置き換えて考えるようになっている。ゆえに、なぜ勉強しなければならないのか(=それは何の価値があるのか。実は「価値がない」と思っているけどねの裏返し)、一生懸命労働したところで低賃金で苦しい生活が見えているのになぜ働くのか、という基準で判断する。同時に、親や社会の言いなりにならず、自分で判断できる人は自立した人であるとか、先のことはわからないから今を楽しもうという人はカッコイイという価値基準を持っているので、いくら努力を訴えたり、将来のリスクやリターンを語っても効果がない、など。

    自分を振り返り、乱読していて思うのは、自分が知らないことは価値がわからないということ。わからないのに「価値がない」などと判断することは恐ろしい。知らない人と話したり、知らない土地に出かけたり、異なる価値観に触れてみたり、芸術、スポーツ、歴史、ビジネス、なんでもそうだと思うんだけど、知ることで成長するし、同時にリスクをヘッジできることになる。これこそが学びだと思うなあ。

  • 下流志向

    内田樹14冊目

    今回は主に教育論・労働論。
    ・学び
    学びとはそれらのものが役に立つかまだ知らず、自分の度量衡では価値が図れないものを得ようとする、もしくは価値が分かるようになるということなのである。しかしながら、現在の子供は「これは何の役に立つんですか」という問いをはじめ、ビジネスマインデットに学びを考える。何の役に立つのかを知るために学ぶのだから、わかるはずないし、その答えは受け手の数だけある。そして、学びとは、母語の習得からわかるように、すでに遅れている状態からはじまり、何のことかわからないながらも聞いているうちに、あるパターンが導き出され、意味のある記号に変わり始めていくというものなのである。そもそもどうしてこのような子供が増えたかといえば、自らを労働主体としてではなく、消費主体として形成したからであるというのが内田の論旨である。つまりどういうことかというと、消費主体としての自己は、お金の透明性により、主体が何であれ一人の自己として認められる。つまり、買い手として、商品の価値を決める(知っている)という状態が骨身にしみついてしまい、自分の価値のわからないはずのものにも、あたかもわかるように接し、値踏みするようになる。消費は、自分が買う瞬間とそれを使うときの価値の変化を意図的に無化している活動なのであるという点で、無時間的な行動だが、子供はその習慣により、学び始めたときと学び終えたときの自分が変化しないというルールに自ら縛られている。
    ・共同体
    自立とは、属人的な性格ではなく、その人の判断や言動が適切であることが確証されたときに周りから補助や連帯を頼まれるということであり、集団的経験を通じて事後的に獲得されるものである。これに対し、今の日本は、だれにも頼られず、だれも頼らない自立した自己を美徳とする節があるが、これはリスクヘッジが全くなっていない。
    なぜリスクヘッジしないかと言われれば、損失が目に見えないからである。自分が何かすることで集団にプラスになり、自分にとってもプラスになることはやるが、誰かがやらないと集団にとって、ひいては自分にとってマイナスになることをやる人がいま、いない。プラスはわかりやすいが、マイナスは可視化しにくい。マイナスを可視化し、それを防ぎ、維持のためにコストをかけられる人が、集団の中で必要とされる自立した人間である。このように、マイナスを可視化できないのは、企業の評価において、30年間つぶれなかったことよりも、1年間で何%収益を上げたかということの方が評価される傾向があるからである。維持のためのコストと、リスクヘッジ。ビジネスマインデッドならわかるはずのことが消費主体として生きる人にはわからない。むろん、だれにとっても正しい選択をするに越したことはないが、それを決めるコストの方が高くつく場合が多い。最高の2時間の映画をゲオで探しているうちに2時間探し続けてしまったという本末転倒な事態が起こるのなら、初めからそれなりに面白い映画を借りて2時間見るほうがよい。今の日本には、「それなり」がなかなかできない。これはとてもうなずける。バレーでも、どのフォーメーションも完ぺきではない。グダグダ話さずに、欠点を認めつつそれなりでやっていくうちに、うまくまとまっていくものではないか。

    ・師
    師を持っている人が、師となれる。自分が師を超えたと思った瞬間に人の成長は止まる。逆に、自分はまだまだこの人には勝てないなと思っている間は何歳でも生き生きと成長できる。もともと、師弟関係でも、師は体力的に老いるし、弟子の方が強いということはかなりありうる話である。しかしながら、弟子は師を尊敬し、いうことを聞く。それが学ぶということで最も大事なことである。弟子がなぜ師を尊敬するかは単純な問題であり、それは師が自分の師を尊敬している姿を知っているからである。尊敬しているという行為を教えられなくても、師が身をもって行うことで、弟子はそれに倣う。数学者の藤原正彦さんの本に書いてあったが、数学者が育ちやすい地域の特徴に、宗教的でもなんでも何かを崇拝するということがあるという。絶対的なものに対し、ひれ伏し、自分はまだまだだと思っているうちは自分でも驚くほどに成長できるのである。ニュートンは神の存在を信じ、神の摂理を証明するために科学を研究したといわれるが、かつての西洋にもビジネスマインデッドではなく、何かをひたすらに尊敬して、謙虚でいる文化は十分にあった。

    少々拡大解釈したがこんなところ。

  • 高校生と大学生の子を持つ私は、「学ばない子どもたち 働かない若者たち」のサブタイトルを見て、思わず本書を手に取ってしまいました。よく言われる「ゆとり教育の害」ではなく、勉強や労働の結果をすぐに求める「等価交換する子ども達の出現」に焦点を当てて論じている点が興味深かったです。内田樹初心者の私にとって、これは大真面目に論じているのか?それとも皮肉か?と区別のつけにくい記述もありましたが、読み終えてみて、著者の一貫した持論に爽快感を覚えました。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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