滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062766548

感想・レビュー・書評

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  • 東久留米、滝山団地の小学校における「集団づくり」実践の経過の話。決して客観的な分析ではないが、その事がかえってこの作品の意味を際立たせていると思う。ある実践をくぐり抜けた経験を、客観を僭称しない「声」というかたちでいかに拾い上げることができるか。教育的観点からも少なくない含蓄があるが、それ以上に作者のこの「構え方」に非常に共感をおぼえた。

  • 東京郊外のマンモス団地における小学校での「自由で民主的な教育」という名の徹底した全体主義を振り返るドキュメンタリー。過剰な班競争や決定事項ごとに行われる児童の演説など、あまりに薄気味悪くて戦慄を覚えた。その反面自分の小学校生活に置き換えると「あれ、もしかして大して変わらない?」と、程度の差こそあれ今まで全く疑問を感じていなかったことも空恐ろしいような。当時疑問を抱き激しく反発した著者の感性の鋭さが凄い。

  • 同世代なので、とても懐かしい空気を感じました。

  • 今年読んだ本ベスト10にいれる

  • 学校に通っていた嫌な思い出を思い出してしまいました。教育って本当に怖いなぁ、一歩間違うとファッショってどこにでも存在するのだなぁと思いました。
    しかし著者の記憶力はすごいな、とただただ感心してしまいました。ここまで小学校当時の記憶を体系だてられるのには…。

  • 学校という集団がかなり特殊な状況で、常に危険な側面を孕んでいるのだということを再認識しました。
    自分もいろんなものを無自覚に受け入れてたんだな(時間割、ホームルーム、委員会、班、係、掃除、などなど
    つまり、それゆえに危険。

    昔から、学校の先生という存在が嫌いだった事を思い出しました。

    また、合わせて団地とういう装置(建築の役割)によって、コミューンの形成は決定的に、同じ間取り、同じ構成、同じ年収などなど

    思想教育、ビッグブラザーの世界

  •  東京都東久留米市の滝山団地を主要な校区として持つ市立第七小学校で行われた、全国生活指導研究協議会の「学級集団づくり」にもとづく学級(および学校)運営の報告。
     私はこの「学級集団づくり」を実地で行くクラスを小学校で2年間経験したことがあるので、その内容については知っている事ばかりだった。むしろ、このような学級運営がなぜなされるにいたったのか、児童にその後どういう影響を与えたのか、等について興味があってこの本を読んだのだが、そういう点についてはほとんど触れられずに本が終わってしまったのでがっかりした。どうも、一般の読者にとっては、これらの事実自体が興味の対象であるらしいということに気付いたのは、読後しばらくしてだった。
     この本を読んで初めて知ったのは、私の経験した学級運営が、担任のオリジナルではなくて全国生活指導研究協議会という団体の「学級集団づくり」という思想に基づいていたという事。あんなクソみたいなものを良い年した大人がよってたかって作り上げていたなんて、本当に救いのない話だ。しかもこの団体はいまだに存在しているらしい。
     「学級集団づくり」がどうクソなのかはこの本に詳しいが、要するに、「児童による自主的な活動を通じて民主的集団を構築する」というのが目的なのに、それを実現するために「集団の利益のために少数派を排除する」という手法が採用されていた事。しかも、何が集団の利益なのかは、児童の合議ではなく教師の独断によるのだ。
     このような学級運営を行うために、私の経験したクラスでは、担任の教師が「恫喝・暴力・なだめすかし」というまるでDV加害者のようなやり方で児童たちを支配していた。この本に出てくる「片山先生」が実際にどのように学級を運営していたか、筆者はこのクラスには属していなかったためか詳しく触れられてはいない。もし私の経験とは違うスタイルだったとすれば、それはそれでエグイものだったのではないか。なにしろ、学校生活におけるすべてにおいて、担任の価値観は絶対であり、それに合致しない異端者は、反省会と言う名のつるし上げか、集団心理に基づく洗脳の対象なのだから。
     この本の筆者はそのようなクラスにいたわけではない。同じ学年にこの「学級集団づくり」を行う教師が存在し、その学級運営が次第に学校全体に影響を及ぼすことで筆者もまた被害者となっていくのであって、私のようにとにかくそのなかで生きていくしか選択肢がなかった場合とはまた違った苦しみがあったようだ。つまり、自分の担任や委員会活動を通じてつながりのある教師など、自分と価値観を共有でき、自分を守ってくれる大人が学校の中にいることで、かえって事態の異常さが認識でき、その存在の根深さに恐怖するというような。
     この本を読んで改めて思ったのは、「集団」というものの恐ろしさだ。民主的な集団を作り上げるつもりがまるで戦時中のような空気の読み合い、自主規制バリバリの体制になってしまって、しかもそれをおかしいと思わない主催者としての担任、それに気付かない周囲の教師、親などなどの大人達。そして本でも触れられているが、集団の一員となることの快感。そこらへんの詳細について、今度はクラスの内側から誰か解説してくれないものだろうか。

  • 1974年。西武新宿線沿線の北多摩郡久留米町に開発された滝山団地。総戸数3080戸。開発前に約19600人しかいなかった久留米町の人口は10年後の70年には4倍の78000人となり市制を導入して東久留米市となり、北多摩郡は消滅した。そして著者がこの滝山団地から通ったのが東久留米市立第七小学校である。第七小学校は滝山団地の児童を受け入れ、全校児童の殆どが団地の児童となった。均質化された団地住まいの家庭の児童が大挙して通ったクラスは児童や両親の考え方も均質化していた。先ず始めにP.T.Aの民主化が行われ継いで団塊世代で先日まで学生運動をしていたような新任の教師が赴任して「水道方式」と「学級集団づくり」に基づく新しい教育方法を実践する中で達成されたのが「滝山コミューン」「民主的」という言葉を使いながらその中身は全体主義でソビエトや中国の共産主義の「悪い部分」を抽出したかのような「組織づくり」に著者は困惑と嫌悪を覚え、当時まだ少数派だった私立中学受験たのための学習塾通いに息抜きを見つけようとする。当時から30数年経ってから振り返り、検証する渾身のノンフィクション。

  • 再読。やつ、日教組だったのかなあなんて今になって思った。
    小学生の頃、クラスのその日のリーダーが、クラスによって日直と言っていたり、日番と言っていたりしていたことが不思議で仕方がなかった。そういうことだったのね。
    ちょっと時代は10年くらいずれてる。でも、なるほどと思うことはけっこうあった。鬼のパンツ・・・やった覚えが。
    今の子供たちは鬼のパンツやってんのかな?ちょっとそれが気になった。

  • 著者とはまったく同い年。同じ時代に区市は違えど都内の小学校に通っていた。ここまでの教育活動が試みられていたとは本当に驚いた。確かに、今の学校現場に比べるとかなり違うと思う。私の場合、君が代も日の丸も覚えていないが、卒業式の呼びかけはあった。証書授与は壇上ではなく、自席で受け取った記憶がある。学芸会の劇は自分たちで分担してシナリオを書き、大道具作りにも時間をかけた。それでいて、学習指導要領上の授業時数は今よりも多かった。一体いつ勉強していたのだろう、それは思い出せない。本書のような極端な例はあまりないのかも知れないが、全国のあちらこちらでこれに近いことがきっと行われていたのだろう。「一人の手」や「わんぱくマーチ」はこれを読むとちょっと歌えなくなりそう。

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著者プロフィール

1962年生まれ。早稻田大学政治経済学部卒業,東京大学大学院博士課程中退。放送大学教授,明治学院大学名誉教授。専攻は日本政治思想史。98年『「民都」大阪対「帝都」東京──思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ)でサントリー学芸賞、2001年『大正天皇』(朝日選書)で毎日出版文化賞、08年『滝山コミューン一九七四』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』(岩波新書)で司馬遼太郎賞を受賞。他の著書に『皇后考』(講談社学術文庫)、『平成の終焉』(岩波新書)などがある。

「2023年 『地形の思想史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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