眠れる美女 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001203

感想・レビュー・書評

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  • 「片腕」にめちゃくちゃテンションが上がった。
    もし自分の好きな人の片腕をかして貰って血が混じったら…なんてたまらない。逆も然り。

  • 解説が三島。『眠れる美女』は、まるでマンディアルグの短編のようにエロティックで幻想的でした。川端康成なのにこんなの書いていいの?みたいな(偏見です)。もっと好きだったのが『片腕』という短編で、すごいシュールで吃驚しました。

  • 純文の看板を背負っていれば、フ○チでもヘン○イでも高尚になるのか、と思った一作。
    まー男の欲を生々しく書けば、ただのエ○ノベルになるところを、人間描写にしてるところは流石ですが。

    薄暗いとか、ほの暗いとか、綺麗に表現しようと思えばできるのでしょうが、あえて言おう。ねちっこいと!
    どっちかとゆーと、同時収録の「片腕」のほうが好みだった。

  • 以前「雪国」や「伊豆の踊子」を読み、文章が洗練されているとは思ったものの、そこまで惹かれなかった。あるいは、私がまだそれらを読める段階ではなかったからなのかも知れない。
    ところが今回読んだ、「眠れる美女」。この作品はいい。ぐいぐいと引き付けられた。

    解説で三島が、ネクロフィリー(死体愛好症)的肉体描写が見られると指摘しているが、この作品が面白いのは、設定が老人と少女であることや、少女が“眠れる美女”であることによるのではない。
    そうした奇抜で極端な設定が、物語の振幅を大きくしていることは間違いないが、それだけのことならば「眠れる美女」のあらすじを読むだけで十分であろう。この作品の引力はそうした設定の過激さに起因するよりもはるかに、三島も指摘したようにその描写によるものなのである。

    「眠れる森の美女」はたとえば“眠れる美女”の描写に代表されるように、「生/死」の関連について幾重にも逆説的な効果を発揮しているのである。「生」をたたえる少女達の描写は、彼女たちが眠っておりほとんど語らないことによって、まるで「死」体や物の場合のごとく克明に、それゆえ残酷に描く。「生」を求め「死」を避けて訪れた宿で、老人はむしろ一層「死」に近付くこととなっている。

    滞りなく読みやすい文章を追うなかで、知らず知らずに「生/死」の逆説的構造へ取り込まれてしまう。すると読者はもう抜けられない。そこに拒絶感を覚えつつも、やはり作品と同様に、離れようとする思いによって一層この作品に近付いてしまうことであろう。

  • 何よりも表題作「眠れる美女」の魅力に尽きます。
    眠っていて決して起きない美女を「見られずに見る」「気づかれずに触る」というエロティシズムと、普段は相手にされないような若い娘を自由にできる倒錯した所有欲を川端の美しい日本語で描いています。
    作中に出てくる6人の眠れる美女が、性格描写もないのにそれぞれ魅力的に書き分けられているのも素晴らしい。

    「片腕」「散りぬるを」は実験的な作品で、文学的な意図はともかく小説としてはあまり面白いものではありませんでした。

  •  読書会の課題本だったので読んだ。ようするに、自分で選んだ本ではなく「他人が選んだ本」であるにもかかわらず、するする「読めた」のが不思議だった。自ら選んだものでも積んどくや本棚の肥やし状態の本が多いのに、本との出会いとは誠に不思議なものだ。

     読書会では「どうしても入りこむことができない」本と、「何故だかわからないが入りこめてしまう」本のことがよく話題になる。有名な古典イコール「読みやすい」本では決してない事は自明である。だが、このノーベル文学賞作家の名作は、予想に反して読みやすかったし入りこめたし、「ああ面白い」なのである。
     吉村昭のあくまで事実を重んじる記録文学だとか、須賀敦子の事実に基づいた随筆とかを珍重する私は、ファンタジーの度合いがはなはだしい、というか現実離れの仕方がはなはだしい虚構は元来は苦手である。現代のイメクラじゃあるまいし、じじい相手に眠れる美女プレイだなどとあまりに奇想天外な設定だと言いたいところなのだが、すっかりじじいに成りきって読んでしまう。川端康成の筆力はやっぱり凄いと言わざるを得ないし、それにしても美しい日本語だとも感嘆してしまう。

     エラそうな自慢話と誤解しないでほしいのだが、ある学会(もうこの言いぶりがエラそうかな)で、川端康成の小説の一節を紹介したことがある。昨夏のケアマネジメント学会東京大会でのことだが、「名作小説は事例検討題材になり得るか =個人情報保護に制約されない心情理解の教材として=」と題した発表だった。
     あれは埼玉の立教大学の教室でだったが、数十人の聞き手は全員が看護や介護の現場の経験者だった。ただ、本を読む機会の少ない彼女たちに、少しでも名作を読んでもらいたい、名作のなかにも介護の現場で欠かすことのできない「相手の気持ちになる」という心情理解のためのヒントがたくさんある。私はそう訴えたかった。
     川端は幼くしてほとんどの係累を失い、盲目の祖父に育てられた。その祖父とのやり取りを少年川端は『16歳の日記』にリアルに吐露している。
     川端少年の帰りを待っていた寝たきりで盲目の祖父は小便をしたい、しびんをあててくれと懇願し不気味な白眼をむく。祖父の陰部に手をあてがい小用をさせてやる。ちょろちょろ出る小便がガラスのしびんにあたる。そのとき耳にした音を、後にノーベル賞作家となる少年は、「小川のせせらぎのような清らかな音がした」と記した。いつ果てるとも解からぬ真っ暗な介護の日々の中で、耳にした小便の音を、何と美しい日本語表現であろうか。そう解説した時、会場にいた数十人のうちの何人かが大きく頷き、一人は明らかに涙を流していた。私は予想外に「受け」たことに驚いた。
     よくよく考えると、会場にいた聞き手は一人残らずが排せつ介助の経験者だ。介護のつらさを知り尽くし、また、アノ清らかな音も知り尽くしている。所謂下の世話が原点の看護と介護は、汚れ仕事であると同時にかけがえのない聖職である。その誇りがなければ務まらない重労働でもある。
     川端のあまりに美しい表現は、介護する者のつらさ切なさばかりでなく、そのあきらめの背中に貼りついたような清らかさをも見事に表現してくれいる。それが、彼女たちの琴線に訴えかけたのだろう。

     不思議の国のアリスが穴に嵌まったように、現実にはあり得ないファンタジーに我々が入りこんでしまうのには幾つもの要因があるであろう。川端が『16歳の日記』で記したような、多くの者の共通感覚に訴える表現は、ひらひら舞いあがりそうな紙片にぶすっと突き刺した千枚通しのように読む者の深層心理に訴え、深いファンタジーの穴に引き込んでしまう。
     『眠れる美女』の冒頭、どうして引き込まれてしまうのか、読みながら私は分析した。
     二人目の眠れる美女を前に主人公は、髪の生え際が美しいと感じる。読んでいる私も生え際まで鼻先を寄せどきどきした気分に既になっている。それはその部分の表現がリアルだからでもあるが、すでにその部分の相当前から私はすでに「入りこんで」いる。では少し前、女の唇に指で触れ紅が指に付いてしまったシーン。主人公はぬぐうものがない寝床で、その指をなめる事ができない。気持ち悪いと思う。実はここでもう共感している。さらに遡る。若いころある中年の婦人から主人公は、自分は寝る前に、今現在この世に自分が接吻してもよいと思える男の数を数えてから寝る、と奇妙な告白をされる。「ああ気持ち悪い」と、主人公は思う。私も同時にそう思う。
     こうして見てもると、やっぱり性別や年齢や時代設定なんかは超越した共通感覚がくさびになって、「入りこめる」感覚は醸成されるのかもしれないと思う。しかも、川端作品のような名作は本当に手の込んだ仕組み方でそれがインプットされている。

     世間がいうから言うのではなくて、やはり川端康成は偉大でしょう。

  • 「眠れる美女」

    男と「女性」、若さと死を描いた物語。
    老人が少女の横でまどろみながら見る幻想、少女の姿形の描写、五感に訴えかけるような美しくて妖しい文章が魅力的。

  • 緻密で美しい描写。
    まるで老人と娘のいる部屋を覗いているかのような。
    匂い、温かさまでもが伝わる作品

  • 谷崎潤一郎よりもえげつない。

  • 目次
    ・眠れる美女
    ・片腕
    ・散りぬるを

    読む前に耳にした話では「気持ち悪い」というような話を聞いていたのだけど、実際に読んでみたらちょっと違った。
    確かに気持ち悪くは、ある。
    全裸で眠っているうら若い美女に添い寝するだけの高齢男性。

    金にあかせて、若い美女を貸し切って添い寝するだけっていうのは。確かに気持ち悪い。
    相手は意識がないのに、こちらだけ冷静に観察できる。
    それは気持ち悪いというよりも、生理的に無理。

    しかし、江口老人なる語り手は、まだ67歳なのだ。
    たった67歳で老人扱いされる江口。
    たった67歳で老人の自覚を持つ江口。
    これは一体どういうことなのか。

    性的にままならないのが67歳ということらしいが、そのほかに社会的存在であるとか、精神的な円熟味とか、何かポジティブな感触がなかったのだろうか。
    けれども『眠れる美女』しかり、『片腕』しかり、老いていく自分と若い娘たちとの対比が、この時期の川端康成のテーマだったのかもしれない。

    今から50年ほど昔の話。
    今なら67歳で人生の終わりと考える人はあまりいないのではないかと思われる。

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著者プロフィール

一八九九(明治三十二)年、大阪生まれ。幼くして父母を失い、十五歳で祖父も失って孤児となり、叔父に引き取られる。東京帝国大学国文学科卒業。東大在学中に同人誌「新思潮」の第六次を発刊し、菊池寛らの好評を得て文壇に登場する。一九二六(大正十五・昭和元)年に発表した『伊豆の踊子』以来、昭和文壇の第一人者として『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などを発表。六八(昭和四十三)年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。七二(昭和四十七)年四月、自殺。

「2022年 『川端康成異相短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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