- Amazon.co.jp ・本 (624ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101010014
感想・レビュー・書評
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主人公である猫の吾輩が人間を観察し考察していくお話。
主な登場人物は、吾輩の主人のくしゃみ先生、先生の友人の自称美学者の迷亭、哲人の独仙、先生の生徒だった物理学者の寒月、先生の書生だった三平など。
寒月と金持ちの金田の娘の富子との恋が主軸だが、それを取り巻いている雑談や珍談、小事件、言い合い、悪戯など、寄り道のようなお話をたくさん集めたのがこの小説である。
日本社会に対する批評を笑いにして描いてしまうところが夏目漱石らしさなのかな。人間の滑稽さを猫の視点で描かれることで、客観的に捉えられた。
あまりに有名な小説だが、私にはなかなか難解だった。くしゃみ先生たちの会話が高尚すぎてついていけない場面もあった。
印象に残った場面が二つ。
一つは吾輩の最期。人間を観察し考察し続けていた吾輩は、人間の滑稽さを語りながらも人間に愛情を持っていたように思う。哲学し続けた猫は目の前にやってきた死に対しても考えて「有難い有難い」と悟りの境地を開くのだった。生きることは考えることなんだなぁとしみじみと思った。
もう一つは、くしゃみ先生が鼻毛で田植えをしていたこと。夏目漱石が一気に庶民的に感じた瞬間だ。やっぱり同じ人間なんだね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本作の書き出しは、
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。
で、タイトルが書き出しの作品になります。
で、本作の内容は、次のとおり。
---引用開始
中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。
俳人・高浜虚子のすすめのよって書かれた。巻末に詳細な注解および作品解説を付す。
---引用終了 -
断片的にしか読んだことがなかったので、通読してみました。
日本文学の中でもトップクラスに有名な名前のない猫・吾輩による人間観察、キレッキレでおもしろかったです。
苦沙弥先生と彼の周囲の人々の変わり者具合にも、ご近所の実業家や中学生とのバトルにも、にやにやが止まりませんでした。
この時代の絶妙にゆるゆるとした空気を感じさせつつ、人間を「只いらざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だ」と定義したりする鋭さに、思わず唸ってしまいます。
第11話で苦沙弥先生と仲間たちが交わす未来の話、特に人と人との距離の話は、現代のことを言っているようにも思えてきて、考えさせられました。
新潮文庫の表紙、色づかいが好きだなぁと思っていたのですが、安野光雅さんの挿画でした…知らなかった! -
これを読まずにして、日本文学は語れない。
夏目文学は文章がお手本と聞いている。
古ーいので読むと、漢字が古くて読みにくかった。今はいいよね。 -
昭和53年9月15日 33刷 再読
漱石、最初の小説。「ホトトギス」連載後刊行。
当時、ユーモア作品という紹介で、題名からも読み易いのかと読んでみたけど、ユーモアが高尚すぎて読みきれなかったかなあ。
まあ、主人公猫の、当主苦沙味先生は、漱石先生と思われ、その回りに集まる当時の文化人の井戸端会議。猫を語部として、明治日本やら風習やら結婚やら、なんでも風刺してしまう。当時としては、画期的なコメディだったのではないですかね。
ラストの方に、自殺についての考証が発言されていて、未来は自殺が本来の死となるだろう、と。(ユーモアたっぷりの表現で)
その後、芥川が太宰が三島が自死していく。今も自殺者は減る様子はない。中々のイロニーになってしまった。 -
記念すべきブクログ登録 400冊目だったので、何を読むか考えた挙句、有名なこの作品にした。
夏目漱石は何冊か読んできたが、読みやすい感があったのだが、この作品はちょっと違った。
猫様目線の自由な視点から紡ぎだされる物語が非常に痛快。
時には声を出して笑ってしまうほど。純文学と思って読んでいたが、面白い。
それから圧倒的な語彙数。
傍にスマホを置いて時々辞書で調べながらの読書。
読了後は何となく得した感がある。この作品はもう一度読まないといけないだろうなぁ。-
こんばんは、フォローを頂き本当にありがとうございます。実は、私からフォローしたのは、これで2人目です。1人目の方には、振られたようです。そん...こんばんは、フォローを頂き本当にありがとうございます。実は、私からフォローしたのは、これで2人目です。1人目の方には、振られたようです。そんなことを言う私も、フォローをしてくれた方の本棚がビジネス書ばかりだったり、絵本が多いと、困ってしまいます。bmakiさんもミステリーの魅力的な本が少ない私の本棚には、戸惑いがあるかなと思いますがどうぞ、どうぞよろしくお願いします!私は、コメントを送るのが好きなので、2、3回に1回下されば、私幸せで~す。
bmakiさんというお名前ですが、私の頭には(ブまきさん)とin putしてしまっているのですが、正確には?
夜、遅くにスミマセンm(__)m
では、明日のお仕事FIGHT!です。ゴールデンウィーク用に何かいい本に出逢えたら、ラッキーですね。
おやすみなさいマセ(-_-)2021/04/27 -
2021/04/27
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ゆうママさん
ブクログのフォローは、許可を取ってするものではなく、勝手にフォローするものなのかな?という理解です。
自分からはほ...ゆうママさん
ブクログのフォローは、許可を取ってするものではなく、勝手にフォローするものなのかな?という理解です。
自分からはほとんどフォローしませんが、フォローしてくださった方の本棚はフォローさせて頂いております。
何か私の本棚に感じ取られるものがあるのであれば、私もきっとその方の本棚に感じ取れるものがあるのだろうと考えています。
フォロワーさんのレビューを見て、何冊かAmazonでポチっと購入したりもしています。
そんな風に、フォロワーさんの本棚やレビューを楽しんでいます。
私の名前は、まき ですが、まきは既に登録済みでしたので、頭にbをつけただけです。
自分の使用しているメールアカウントの名前と同一にしたという理由です。
無理して発音するのであれば、普通に、アルファベットで、びーまき と読んで頂けたら良いかと思います。
私は残念ながらコメントを送ることを得意としておりません。
感謝を伝えるとき等は書かせて頂きますが、普段はコメントは致しませんm(__)m
悪しからずご了承下さいませ。2021/04/28
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2ヶ月ぐらいかかった(笑)
ユーモアが、とんでもなかった。猫視点から僕たち人間をめっちゃバカにされたが、夏目漱石さんの言葉に、うんともすんとも言い返せないと思った。 -
猫の視点から文明批評、社会批評を行った有名な小説。はじめて読んだのは学生のころで、正直「読みづらいなあ」と思ったのを覚えています。そもそもこの小説が出版されたのはもう100年以上前で、いくら言文一致の現代書き言葉をつくった漱石の小説だと言われても、いまでは使わない言いまわし、差別にあたるとして規制された言葉、この時代ならではの考え方などが大量にあるため、すらすら読めるようなものではありません。
とはいえ、「猫視点」で人間の生活を眺めるということ自体にいまなおユーモラスさがありますし、落語が好きだったという夏目漱石らしいテンポのいい会話、視点のするどさとそれらをマイルドに表現する文章力、ここら辺はいま読んでも作品の強度を高めていると思います。
一応話の大筋みたいなものはあって、その中心には教師である苦沙弥先生の家の書斎に彼の友人である迷亭、寒月、三平、独仙らが集まり無駄話をする。彼らはいわゆるインテリで、話している内容は多岐にわたるわけですが、彼らとは違い世俗的な人物として配置された金田と、金田の妻と子どもの富子が話に加わりつつ、富子と寒月とのふわふわした恋愛が進行していく、というのが大筋。その間にご近所の人たち、中学校の生徒、泥棒などが介入し、それらを滑稽譚として猫である「吾輩」が語るという内容となっています。
しかし読んでみればわかるのですが、それらの大筋は"何となく"でしか存在せず、会話がはじまれば常に脇道にそれ、長々とどうでもよさそうな話、滑稽な話、教養についての考え方が説説と語られていくことに。
つまりこの小説は、何らかの物語が展開する小説ではなく、日常で起きた面白い話をちょこちょこ集めて適当に間をつなぐという体裁となっており、その意味で物語の筋と、場面ごとの会話や思考、そのふたつの主従関係は、私たちがよく知るそれとは逆転しています。「猫視点で語る」という土台の強みはここでも活かされており、「だっていまこれを語ってるのは猫ですし」と、話が物語として機能していなくてもなんとなく「ま、しょうがないか」という気持ちにさせられます。
おそらくこの『吾輩は猫である』は、小説が発表された当時でさえ、かなりの教養が、もっとはっきり言えば漱石並みの教養がなければすべてを理解することができないのでしょう。そこに本作のハードルの高さを感じます。
とはいえ嫌味っぽさはなく、おそらく漱石のユーモアやある種の適当っぽさが作品全体に気楽な印象を与えてもいるわけで……。
ふーむ、つまりこれってたぶんエッセイ形式の小説ってことになるんだろうな。だから話が従となり、ふと浮かんだ思考が主となる。そういう書き方ってこの当時は相当珍しかっただろうし、その批評眼や知啓、ユーモアなんかは新しい感覚として受け入れらたのだと思う(期せずして最近「エッセイ×物語」という作品を多く手にとっているなあ私)。
猫がどんな反応をするか見るために頭をぽかぽかたたいたり、いざというときの非常食として見ていたり、苦沙弥先生のことはどうにも好きになれないのだけど、そんな彼を見つめる猫の達観しつつも少々間の抜けた性格には愛着を覚えます。さらにそんな猫を見つめる読者である私たちの視点とか、これを書いてる夏目漱石の視点とか、階層をわけて作品や社会をみつめる仕掛けがたくさんあって、そんなところも技巧的。
物語として楽しもうとすると肩透かしをくらうだろうけどエッセイ文学としてみると文章ひとつひとつが妙におもしろく感じるなあと、今回再読してみてそんな視点に気づけました。 -
猫が語る、おじさんたちのドタバタ日常コメディ!
果たして、猫の結末は如何に!? -
苦沙弥先生の周りの人々のやりとりも猫から見た人間の姿もそれぞれ面白いながらも、終盤「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」とと転じるところがまさに漱石の真骨頂。漢籍その他自分の貧しい知識では読みこなせない箇所も多かったので、折に触れて読み返したい。