- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101050089
感想・レビュー・書評
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三島由紀夫といえば、というくらい有名な『金閣寺』。
このたび新潮社でまっ金の装丁が出たので買ってみました。
これがすごくウソくさいキンキラの金でとても良い。
いかにも主人公溝口少年が夢みた美しすぎる金閣のようで。
あらすじ自体は有名すぎるから必要もないと思うけど、
仏門に入っている吃音をコンプレックスとしている青年が金閣寺に憧れ、金閣寺に打ちのめされ、金閣寺を燃やさんと決心する話ですよ。
幼い頃から父に金閣寺の話を散々聞かされ、それはさぞ美しいものなのだろうと想像し続けた溝口少年。
その父の死によって鹿苑寺金閣寺に預けられることとなる溝口少年。
この彼の金閣寺に対する思いというのは実に独特で、
初めて実際に金閣寺を目にしたときに「思ったほどでもなかった(想像上の金閣寺に及ばなかった)」と思った、そこで彼は終わらなかった。
いや、終われなかった。
それは金閣寺がそれほど深く彼自身のアイデンティティと結びついていたからである。
溝口少年は自らの吃音をきらい、自らを醜い闇の化身と感じ、その反動としての対極に金閣を置いていた。
だから、金閣寺は美の極地になくてはならなかったのだ。
彼は金閣寺を崇拝しながらも、金閣寺と自分は相容れないのだという気持ちを持ち続けた。
時代は戦時中。
いずれはこの京都にも空襲がやってきて、金閣寺も自分と同じく灰塵に帰すであろうことを思うとその美しさはますます神々しく思えた。
そして同じ運命にあるという意味合いで、彼は金閣寺に対して強い共感を覚えることができたのだ。
だから彼は空襲を望むほどだった。それなのに空襲はなく日本は敗戦した。
彼はこの時、金閣寺に決定的に拒まれたこととなる。
自分の言葉を全て光に変えてくれていた親友の鶴川ももう亡い。
人間関係も煩わしい。
坊主など清らかに見えて、その実肉欲を捨てきれぬ俗悪である。
その思いから溝口少年は和尚を試すような真似を何度もする。
私が思うにはこれが溝口少年流の「甘え」だったのだが、和尚はいかにも僧籍の人間らしくそれを「なかったことにしてしまう」のだった。
父親を早くに亡くし和尚に父性を求めていたであろう溝口少年の人格形成において、この和尚を崇拝することも尊敬することもできず、それでいて反発しても反応も得られなかったということは悲劇以外の何者でもない。
とにかく全てに拒まれた少年は、その衝動を金閣へ向ける。
金閣を破壊する、という甘い破壊衝動に身をゆだね始める。
ここに来るまでにこの物語に深く関わるのは、禅の考案『南泉斬猫』である。
東堂・西堂の僧たちが猫について言い争っていたのを見て南泉禅師がその猫を斬ってしまった、というもの。(ものすごくざっくり)
その理由を「人びとを惑わせた猫の美」に柏木と溝口が求めているところが興味深い。
そして溝口は猫を斬り殺した南泉のように、行為者たろうとしたのだ。
行為することによって自らの人生を変えようとした。
友人柏木は溝口の覚悟の匂いを嗅ぎ取って、こう忠告を加える。「行為ではなく、認識こそが人生を決めるのだ」と。
この二人のこの議論はとても面白い。
相も変わらず三島式の流麗な描写はあるが、それが行き過ぎないように華美にならないようにと抑えられてはいる。
ただ、主人公流の金閣寺への陶酔の書きぶりは実に見事である。
金閣寺を焼くにいたる心理の動き、本来ならめちゃくちゃで理解しがたい筈のものを一人の少年の中の問題に収斂してしまっている。
まさに青春小説。
金閣寺を焼くことによって初めて溝口少年の人生が始まったのだという、「やっちまった・・」のに、なぜか清々しいラスト。
名作といわれるゆえんがわかる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
内容的には読み難い異常な独白文ですが、すらすら読ませ切る文章の美しさと表現の迫力がすごい。
内向と卑屈を極めて、アイデンティティとした彼の言動や思考の幼稚さは目に余りますが、自分の劣った点を特別視し、内面で肥大化させてしまう傾向を持ち合わせている人は、自分含め、少なくないんじゃないかと思いながら読んでました。
ラストの彼の姿は、彼の金閣を焼く目的と気持ちよく合致しており、その整合性・解放感には小説的な美しさを感じて好きです。
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絢爛たる文体は素晴らしく、犯行に至るまでの主人公の心理描写が恐ろしいほど伝わってくる。
様々な言葉を知ると言うことは、それだけ自分の心を説明できることなのかもしれない。 -
美しい。
内面の描写が精緻で、金閣寺を焼かなければという、常軌を逸した衝動に共鳴してしまう。
理解不能なんだけど理解できるという不思議な感覚。
美しいということについて考えさせられた。 -
金閣寺に火をつける青年の告白を三島氏の豊穣な表現によって、主人公の内面が鮮やかに表現されている。格調高い文章を充分に堪能することが出来た。
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「行為」というものがいかに尊いか。私は主人公の行動に美を感じる。正しい感情ではないのかもしれない。しかし、私は主人公に対し、ある種の畏敬を抱く。今の私にとって金閣寺とはそういう作品。
柏木の「行為ではなく、認識だけが、世界不変のまま、そのままの状態で変貌させるんだ。認識から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。認識は生の耐え難さがそのまま人間の武器になったものだが、それでいて耐え難さは軽減されない。それだけだ。」と述べている箇所がある。この口述の正当性は主人公も認めていた。
主人公の金閣寺に対する認識は、永久で完全な美から、美の概念そのものが怨敵となることで怨念となり変わる。そして美を虚無に求めるようになった。ここまでは認識だった。
しかし最後には、燃やすという「行為」を選んだ。彼は認識を飛び出して「行為」を選んだ。その後自死するでもなく、「生きようと思った。」という極めて希望的に締めで終わっているのが印象的だ。とても自由だった。
私は、認識に溺れる方が幸せだと思う。しかし行為とはいかに自由か、やはり魅了されてしまうのだ。
私にとっての美は何か。金閣寺になり得るものはあるか。永久を求める執着は怖い。
昔よりだいぶマシになったけど、やはりこの本は毎回理解しきるのには少々難しい本。また読む。
また全く違う感想を持ちそう。
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震災後、価値観のぐらつきの中を生きざるを得ない僕ら世代が読むべき一冊。勝手に理解した気になっていたあらすじと、読後感が異なった。
戦中戦後、行動基準がガラリと変わらざるを得ない時代をたまたま生きてしまった青年が、絶対的な美という危険なものさしを持つことで、懸命に翻弄される物語。 -
昭和25年に本当にあった、金閣寺焼失。
それを題材に若い僧侶の苦悩を描いている。
三島由紀夫の作品は、美=死だと思う。
この作品では僧侶は最後に生を選ぶけど。
その代わりに金閣が無になってしまった。