- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101050287
感想・レビュー・書評
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今年は三島由紀夫の生誕90年を迎へますが、同時に没後45年に当る年でもあります。即ちその生涯45年に並んだといふ訳ですな。
『金閣寺』『潮騒』などといふ著名な長篇小説は避けて、偏屈にも短篇集『鍵のかかる部屋』を手に取つてみました。
解説(田中美代子氏)によりますと、「約三十年の作家生活を通して、各時期に書かれた短編小説十二編が収録されている」との事ですが、最後の『蘭陵王』だけ最晩年の作品で、あとは大体昭和20年代に集中してをります。この時代が三島由紀夫の所謂「文学的開花」の時期なのでせう。
以下簡単に各作品に触れますと......
「彩絵硝子」では、狷之助さんと則子さんの関係がどうなるか、通俗的な読者の期待を嘲ふかのやうな印象です。
「祈りの日記」は、どうしても「男もすなる日記といふものを~」を連想しますね、読みにくいけれど。弓男さんを手玉に取るやうな康子さんの態度は、末恐ろしい。
「慈善」に於ける秀子さんに対する作者の仕打ちには、高慢な残酷さを感じます。これも「ジャスティファイ」される行為なのか。
「訃音」では、檜垣局長(権力者)への皮肉(嫌がらせ)が効いてをります。但しわたくしの好みぢやない。あ、わたくしの好みなんざ誰も聞いちやゐませんわな。
「怪物」の松平斉茂氏は、最後の怪物ぶりを披露したが、その思惑は見事に外れ、檜垣(「訃音」の主人公と同名なのは偶然か?)の人望を上げるのに役立つただけのやうです。しかし真に人道的なのは誰なのか、分かつたもんぢやありません。
「果実」では、女性同士の恋愛が描かれてゐますが、昨今の同性カップルとは一線を画し、必然的に破滅へ向かはざるを得ない幻想的な存在です。しかし「果実」とはぴつたりの表題ですな。
「死の島」に於ける菊田次郎も、幽玄さを湛へた不思議な人物であります。支配人のゐる空間とは、完全に次元の違ふ世界に漂つてゐます。この人、無事に家に帰ることが出来るのかなあ。
「美神」のN博士は、もう少しR博士に対して思ひやりがあつてもいいのぢやないか?と別次元の感想を抱きました。あはれなR博士......
「江口初女覚書」は悪女の話。まるで新東宝映画を観てゐるやうです。若杉嘉津子か小畠絹子かな。
表題作「鍵のかかる部屋」の、財務官僚と9歳の少女。二人の危険な香りのする関係。息苦しくなるやうな展開であります。使用人しげやの最後の一言は、読む者を凍りつかせるのでした。自分好みの作品。あ、わたくしの好みなんざ誰も(以下略)。
「山の魂」は、作者の官憲嫌ひを窺はせる一篇であります。隆吉と飛田のやうな関係は、姿を変へながらも、きつと現在も続いてゐるのでせう。
「蘭陵王」は「盾の会」の戦闘訓練での出来事を元にしてゐます。横笛で「蘭陵王」を演奏した青年の最後の一言は、真の敵を見誤つてゐる(と作者が考へる)大衆が念頭にあつたのでは?と脳裏をちらりと過りました。印象的な一篇。
通読しますと、好みは別として、作者の溢れんばかりの才能や技巧を感じない訳にはいきません。そしてその背後には、一般大衆を小馬鹿にする、自信満々の作者のドヤ顔がちらつくのであります。
さて、今夜も更けてまゐりました。この辺でご無礼いたします。
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死の島・怪物・江口初などが面白かった。
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訃音・・・エリート故のプライド。いや、普通の人でもこういう妙なこだわりや世間体を気にした感情ってあるよな、はっとさせられました。
怪物・・・悪行に取りつかれたある貴族の話です。
寝たきりであるが為に、様々な思いが錯綜しています。かつて悪の限りを尽くした男の、あまりにも哀れな物語。
鍵のかかる部屋・・・財務省勤めの青年が、九歳の少女へ抱く異常な感情を描いています。
夢の中での話が、非常に不気味です。三島さん、ヤバい人だっていうのがよく分かります。(笑)
しかし、短編ながら、長編のような完成度。
私には少々、難解と感じる作品が多かったです。
表題作「鍵のかかる部屋」は最も三島らしく、引き込まれる内容でした。
どの物語も、人間がふとしたときに抱くけど、なかなか言葉にできない感情が描かれていて、改めて作者の
表現力の凄味を感じました。 -
自選短篇集などには入らなかった、ややマイナーな作品の集積。三島の19歳から44歳までと幅は広い。10代で書かれたという「祈りの日記」などは、きわめて古典的で風雅な趣きを持ち、言葉の豊饒さからも、とても10代の作とは思えない。また、巻末に置かれた「蘭陵王」は、三島の最後の短編作品であり、ここには楯の会での横笛奏楽が描かれていて、これもまた典雅で静謐な作品である。そうしてみると、平岡公威は10代から44歳、すなわち自死の直前に至るまで、一貫して三島由紀夫を演じ続けたということなのだろう。これは実に凄いことだ。
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久しぶりに三島の短編集を読んでみた。
なんだか久しぶりすぎて、まどろっこしい……いや、わかりづらい、と思ってしまった。
やはり短編は文章に酔いきる前に終わってしまうのだ。
それにそろそろ三島の陶酔ともお別れの年頃になってきたかなんて考えていた。
現代ものだとモダンなのだが、それがどこか歯に浮くような感覚を少なからず与える。
しかし表題作『鍵のかかる部屋』読んですべてがぶっ飛んだ。
久しぶりに思わず、全部さらわれてしまうような作品。
いやぁ、参っちゃったよ。これぞミシマイズム、澁澤とお友達、沼正三の正体の疑いありと言われた男らしい作品だ。
野蛮とも気持ち悪いとも言わないが、背徳感と痛みが三島の文章によって極上の仕上がりとなっている。
いつもそろそろお別れかって思うが、そう思えば逆に私の心をうまくとらえてくれる。
長らく『青の時代』や『宴のあと』など実際の事件を三島はどうして好むのか、ということについて三島の絢爛豪華な文章との間では違和感がないかと考えていた。現実の事件をノンフィクションとして書くのは難しい。作者の脚色が加わり過ぎればそれは全く別物、それも変なメロドラマのような雰囲気となってしまうし、一方であまりにも遠慮がみられればそれは味気ないただのルポに陥る。
小説としてのそれを書くあげるのにはそれなりの脚色が必要だ。
三島はそういったことでの当人の対する想像力が過分な人物なのだと思う。
それってどうなのってはなしにもなりそうだが、その想像力が現実に微妙な浸食を起こして、絶妙な化学変化が起こる。
まるでベタほめだが、私は三島のモデルのある小説はそんなに好きではない。
それはあくまで『金閣寺』をフィクションをおいての考えだが、何となく物足りないのだ。
というより、現実の人間を題材にしていると考えると何となく窮屈に思えるからかな。
三島はどちらかと言えば長編の方が生きる作家だな、と今回ふと思った。
でも長編ってあまり未読が残っていない。どっちかって言うと『純白の夜』系譜の現代を写す作品しか残っていないように思える。
とはいえ最後に決めている『太陽と鉄』がそろそろ近づいてきたかな、なんて思う今日この頃。 -
なんとなく、退廃的な世界に浸ってみたい気がしたのと、表紙の雰囲気に心惹かれて、手にとった。
青年期から晩年の、三島自身や、時代を切り取っている感じがした。 -
三島再読第7弾。
少年期から自決事件直前までの短編集。
昔読んだ時には、少年期の作品の完成度に驚かされた記憶があるが、その驚きはやっぱりある(内容は青臭く感じたのは、自分の老化のせい・・)。 -
短編集なので、読みやすいかなと思って読み始めた一冊。少年時代から晩年までの作品を集めてあることもあり、解説にもありましたが、一人の作家さんの作品集と思えないほど各作品の雰囲気が違っていて興味深く読めました。正直なところ楽しめる作品と私には難しすぎる作品とあって、飛ばして読もうかと思うこともありましたが意地で読み終えた感もあります。こじんには美神が好きかな。
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人が抱くさまざまな感情は、誰かに固有のものではなくて、同じような感情はすでに経験され、文章にされているのかもしれなかった。そういうことを最近小説を読んでいておもう。
むしろ小説を読むってそういう行為だったの?
あとあれ、慣れ親しんでない言葉に出会うことは贅沢で好い。
わたしにもココアを一杯。