沈黙 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123158

感想・レビュー・書評

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  • 舞台は島原の乱後の五島列島におけるキリスト教の布教活動と先に日本に渡った恩師の安否確認のためにローマ教会からくる司祭の物語。最終的には棄教という選択を選ぶことになるが、それまでの葛藤の心理が臨場感溢れている。当時の日本がいかにして異教を排除していたかが分かる。踏み絵のことは授業で習っていたが、本当の意味でこの本を読むことで理解できる。穴吊りという拷問は本当に恐ろしい。

  • またすごい本に出会ってしまった。
    とんでもないものを目撃した気分。

    作者について。
    遠藤周作という名前だけは知っていたけど、どういう小説を書く人かは全く知らなかった。
    キリスト教作家として有名な人だったとは。
    彼自身もカトリックとして洗礼を受けているにもかかわらず、こういったものが書けることに驚きを感じる。
    「神は存在するのか」という、「宗教」の根本を揺るがしかねない問いが作品全体に真摯に貫かれている。私が遠藤周作の立場だったらこんなの怖くて書けないよ、「神はいるよね、うんうん」と自分の中で納得させて終わらせるよ
    でもそこを書き切ったことに、作家としてのの覚悟と矜持を感じました

    信じている宗教の有無に関わらず、私たちってなんとなく「人智を超えた何か」というものの存在を認めながら生きている気がする。
    それがある人にとっては神であったり、霊だったり、あるいはお金だったり。
    『沈黙』は単なる宗教小説ではなくて、「自分が無垢に信じてきたものが覆ったら、どうします?」という作者からのとんでもない問いかけな気がする。
    いろんな人に読んでほしいと思う作品。

  • 特に信仰してるものもないし、日本史にも疎い私でも読み進めることができ、物語の迫力に引き込まれました。

    わたしが譲れないものはなんだろう。なにを信じどこに向かって生きているんだろう?問いかけられるように感じました。特に“弱い者”として描かれるキチジローが自分の弱さと重なる気がしました。

  • 時代背景は大きいが、宗教がテーマの小説は重かった。

    ※(2023.12.3 映画観賞)

  • 確かに、恐ろしい拷問の話と読むことも出来るのか、と頭を殴られたような気分になる出来事があって久しぶりに思い返しています。
    知人が「本当に怖かった」というので、何か違う「沈黙」の話をしているのだろうかと最初は思い、「ああそうか」に至るまで結構な時間を要しました。文学系の授業の一環で人生における挫折や黄昏時、アイデンティティ喪失の問題などについて考えながら読んだ作品だったこともあってか、描写の悍ましい部分については特段注目しなかったというべきか、とかく「そういう時代だったのだ」と、強いて言うならば憐みの目で見ていたのかもしれません。それから、遠藤周作同様幼児洗礼を受けたクリスチャンとして、今の時代に生まれてよかった、と思いはしました。でも、ある種の感情を遮断した状態で読んでいたのかもしれない、あるいは鈍っているのかもしれない、と今現在茫然としているところがあります。

    さて最近は、何がきっかけか自分でも分かりませんが、戦争映画を観ても大河ドラマを観ても、何が人を残酷にさせるのか、凶暴にさせるのか、ということをしょっちゅう考えるようになったような気がします。そういう意味では、キリシタンの弾圧も、あくまで今の常識的な価値観からするともちろん異様です。でも自分と同じ人間が、同じ日本人が、同じ日本人に対して、ときには外国人に対して、行ったことだとされています。同じ人間なのですから今の私たちもやろうと思ったらやれる行為であり、それでも私たちは自らを倫理や法律などの名の下縛り付けています。そういう自制のための装置を作ろうとしない状況とはどんな状況なのでしょう。(語弊の多そうな表現ですが)あるいは、死刑を認める日本は根本的なところでは変わっていないともいえるのでしょうか。

    話はそこそこ飛びますが、日本の思想にはある意味で「救い」「赦し」が無いのだ、とふと思いました。容赦ないのです。遠慮深い人は多いと思っています。でも、「そうしましょう」と律するものは実は無いのではないか、ということです。そういうことを体現した神様が多分いないから。そこに端を発している物事は色々ありそうだな、と思いつつ、その先について考えるのは別の機会に、とします。随分遠くまで行ってしまったので一旦閉じます。

  • 主人公の、キリスト教団体の理想やしがらみという洗脳が解かれるまでの心の葛藤を描いた作品。そのプロセスがかなり残酷であるが、その残酷さを霞ませるほど、主人公の内面の苦悩が強く描かれていて、最後はドラマチックでガッツリ引き込まれた。

    転じた先輩であるフェレイラが「日本人が信仰したものはキリスト教の教える神ではなかった」「我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りはじめたのだ」と主人公に伝えるが、確かに日本人あるあるだと納得。日本人は頑固なのか、それとも本質が分かっているがための無意識の改変なのか。

    そもそも当時の布教という行為が善意で美しいという体で読み始めないと、感情移入はしにくい。大航海時代に、他国の支配戦略としてキリスト教の布教が利用されたという理解で読むと、多分それを知らずに海を渡った真面目な主人公が、さらに哀れで救われない。

  • 神はなぜ沈黙を続けるのか というある種タブー的な問いがずっと付きまとう。
    常に救いが欲しくなるシーンばかり。それほどに、拷問と自分の信じる心を試されるシーンがむごい、、、

    そもそもなぜ、信徒たちは異常に棄教できないのか、キリストの教えに背くこと、踏絵を踏むことがなぜそれほど苦しめるのかが自分には分かれなかった。そもそもの信仰心が弱いからなのか、そういう教えだからなのか、理由はまだ分からない。
    けど、異教徒としてはその信心深さに恐怖すら覚える。

    海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、その時も神は海の上でただ頑なに黙りつづけていた。
    五島の海は本当に美しい、のに、この作中では常に恐ろしいもの、不気味なものとして描かれていた。

  • キリストの話か、と敬遠していたが読んでみたら凄かった。
    キリシタン弾圧化の江戸期日本に布教ためにやってきたポルトガル司祭ロドリゴ。
    彼が布教に挫折し棄教する過程が物語の大筋だが、テーマとなるものが2つ。


    1)神は存在するのか?


    2)信仰とは何だ?



    1)神は存在するのか?捕らえられたロドリゴは棄教を迫られる。信徒である農民に加えられる壮絶な拷問。信者の呻き声と叫び声を聞かされる。取り締まる井上筑後守はいう。
    <転べ=棄教しろ。すればあの農民たちは助けてやる。>


    ここでの司祭の祈りと葛藤。そして井上筑後守との対決が非常にドラマチック。引き込まれるし巧い構成です。
    で、ロドリゴは思う。信徒が苦しんでも主はなにも言わない。救わない。奇蹟が起きない。なぜ沈黙しているのか。こうやってロドリゴは内面で神の沈黙という出来事からその存在そのものを問う。

    さらに神の沈黙を際立たせるのが情景描写。信徒が拷問によって死ぬ。殉教が行なわれた。なのに外の世界は変わらない。単調な波の音。中庭の静かさ。蝉の声。蠅の羽音。殉教者と無関係に世界が同じ営みを続いていることにロドリゴはショックを受ける。神の沈黙を情景描写で際立たせる。巧い表現です。




    2)信仰とは何だ?葛藤と苦しみのすえ司祭は踏み絵を踏んで棄教する。が、それは神への裏切りではなくキリストは足で踏まれ棄教者ですらそれを赦しているというラストの描写は、そもそも信仰とはなんだろうか?という重くて深遠な問いを突きつける。



    神の存在と信仰のテーマを物語に落とし込み、ドラマチックな作品に仕立て上げた遠藤周作の力。畏れ入りました。

  • 私のルーツを辿れば生月島の民。
    父方の祖父を遡れば平戸から派遣された奉行所の弾圧武家。
    父方の祖母を遡れば潜伏キリシタンの末裔。

    時代が変わり、その垣根がなくなり、様々な縁の末に生まれてきたのが私。
    私の生命はもしかしたら、ちょっとした事で無かったのかもしれない。
    あるいは先祖が絵を踏んでくれたから生を受け継いだのでしょう。
    先祖の覚悟や、決断に感謝。

    そして、実際生月島に墓参りに訪れた際に、機会があったので、親戚のオラショを聞かせてもらった。
    オラショとはいわず「もんじゅもんじゅ」と言っていた。それにはまた理由があるらしい。

    弾圧はとても昔の出来事なのだけれど、震えるほど身近に感じた瞬間だった。
    時代に翻弄されながらも、宗教という人類が生み出した業に抗い、生を見出す物語なのかなと感じた。
    私は信仰心はないけれど、人の心の中には、誰にも踏み入れられない自分だけの神様があっていいのだと思わされた。それがどのような神でも許される。
    そして、その神が沈黙することの意味を自分で解釈し自分の救いに変えることができれば報われるのではないでしょうか。

    日本でキリスト教が根付かず、一人歩きした神の形。潜伏キリシタンはまた別の信仰なのでしょうね。
    人は弱いから神に縋るのではなく、希望を持ち続けるために、信仰するものなのだと思った次第。
    そうなると、何も信仰していない私は愚かなのでしょうか。
    それを理解するにはもう少し精神の成熟と、経験が必要なのかもしれません。
    また人生の節目に読み返そうと思う。
    人の本質から人生観まで、たくさんの疑問や不安を一気にぶつけてくれた作品。

  • 主よ、あなたは何故、黙っておられるのです
    あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼はつぶやいた

    母がキリスト教の学校を出ているので、小さい頃からなんとなくキリスト教が近くにあった。
    でも、私が通ってた幼稚園はお寺の中にある幼稚園で、のんのさま(たぶん観音様)にお祈りしてた。

    「沈黙」を読むと、宗教とは、祈るとは、信じるとは、ということを考える。

    マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 サイレンス」は、小説の世界がそのままで、ラストは嗚咽を堪えながら見た。

    「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」というものが、世界文化遺産となった。2020年のコロナスタートの頃、九州ひとり旅して、天草でたくさんの小さな小さなマリア様の像や、こんな小さな島に?と首を傾げたくなるような大きなお寺をたくさん見てきた。

    それでも、やっぱり日本にはキリスト教は根付かなかったのかもしれない。

    信じるものは、救われる
    信じるって?救われるって?何から?どうやって?

    長野の善光寺は宗派はなんでもOKのお寺で、毎日のお朝事も、お経が2部制だ。なにか、に向かって、祈りたい人が、牛に引かれて善光寺参りをする。こんなに、手を合わせて祈る人が全国から集まってくるのかと、祈ることの尊さと、同時に欲深さを感じで鳥肌が立つ。

    「沈黙」ではポルトガルから来た宣教師ロドリゴが、行方知れずになったファレイラ司祭を探すという使命と、今の日本で迫害されているらしいキリシタンを救うためにマカオから海を渡る。その案内役に、みすぼらしく卑屈な表情を浮かべるキチジローを伴い、一緒に船で長崎に入る。

    日本では異教徒として、迫害されていた農民のキリシタンたち。ロドリゴに会い「祈ったらパライソ(天国)っていう素晴らしいところにいけるんでしょ?そこでは年貢もないんでしょ?」と言う。

    ちがう。キリスト教はそういうものではない。
    え、待って。農民はキリスト教をなんだと思ってんの?とロドリゴは呆然とする。

    お上に捕まりそうになると、軽快に踏み絵を踏み、逃げるキチジローに呆れ、苛立ちながらもロドリゴも捕えられ、きつい拷問にさらされる。

    それでも、あなたは、どうして何も言わない?
    どうしてずっと沈黙されているんですか?
    せめて「去れ、行きて汝のなすことをなせ」と言って下さらないのか

    宗教をもつということは、すがるもの、芯のようなものを持つこと。かと、思っていた。けど、信じるものを持つことは、強くなくてはできないんじゃないか。

    たぶん今後も、祈ることを考える時、何度もこの本のことを思い出す。

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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